第10話
◇ ◇ ◇ 七月 一八日 午前一時 五一分
それは一見、成人男性の大きさをした熱帯魚に見えた。
違う点と言えば胸ヒレに腕が。尻びれの代わりに二本脚が、生えている点だろうか。
魚なので当然だが首もくびれも無く、寸胴体型は鱗で覆われている。
頭部は黄色で下半身に行く毎に、白地へとグラデーションがかかっており……下半身には赤い斑点が浮かび上がっていた。
腹には病的な白さを持つ鱗が生え、隙間から滲んでいるのは油だろう。
更には背中と尻には、骨と被膜が突き出しており……背びれと尾びれの形をしている。
「ッシ、刺激をしないで」
「う、うん……刺激、しない。刺激、しない」
観察を続ける僕達の前で、怪物は裂けた口から泡を吐く。
金色の縁を持つ瞼の無い赤眼は光無く僕達を捉え、体は力無く波に揺られている。
僕はその姿を見て、深海魚が浅瀬に来てしまったニュースを思い出した。
「はぁっ、はァっ、ハァハァァ」
「ぅァ……あぁ。あぁァ」
それだけの生物なのに、見れば見る程に眩暈と血流。そして凍りつく恐怖を感じる。
普段感じる五感……視覚、味覚、聴覚、嗅覚、触覚の情報量を遥かに超えているのだ。
だが奴の体から滲む油の、腐臭と血の混じる匂いは嗅ぎ慣れたモノだった。
皮肉にもその悪臭が無ければ、僕は意識を手放していただろう。問題はアワナ君である。
「ァァァ……ぅァ。ぽっ、ぽんっ、ぽっ」
「アワナ君、おい? どうしたアワナ君っ!?」
アワナ君が突然。大粒の涙と涎を流し、異形と同じく口から泡を吐き始めたのだ。
そう怪奇現象というよりは……まるで発狂したかの様に。
「……ぽぅ、ぽっ。ぽぉっ。ぽん」
「下がれ、下がるんだっ。近づくんじゃないぞ」
僕は彼女を背中に庇い、異形に振り返る。背中にはアワナ君の唾液が肌を濡らす。
どれだけ睨み合っていただろうか。動いたのは異形からだった。
異形はエラを動かすと、名状し難い耳障りな唸り声で語りかけて来たのだ。
「ぢぅはぃだぁ……ぢぅはぃだぁ。いといとしごをぉ、あたえんとするか?」
「~~ぅっ。何を言ってる」
異形のだぶつく皮の様に、忌々しい発音が僕の耳を叩く。
それだけで視界は歪み、体は安定感を失ってよろめいてしまった。
その時、天地がひっくり返った。
『娘を捧げる為に呼んだのだろう?』
「たか……ぅち?」
気付けば僕は大学で慣れしんだ場。オカルト研究会の倉庫に居た。
床に膝をつく僕の前には、椅子に座った高内教授が脚を組んで見下ろしている。
だが彼の眼は異形と同じ、飛び出した黒い魚眼だった。
『愛し子は何処だ。偉大なる者。ヒィドラの子だ』
「何だぁ、何が起きてる?」
『全ては巫女を失った事で、始まった』
「何を言ってる……」
聞き返そうとした時、僕の両目から淡く光る泡が天高く吹き上がった。
全身に広がる浮遊感も相まって視界は逆流し、景色が入れ替わる。
『ワシが殺された理由じゃよ』
次に現れたのは僕の嘗ての自宅。爺様がくれた地下室だった。
書斎机に腰かける爺様が黒ずんだ箱を弄り、飛び出した魚眼で僕を見ている。
「爺様は……違う。これは幻覚だ」
『お前は選ばれた。ワシ達とは違い、支配者と波長があったのだろう』
「違う……違うっ、ストレスで妄想を見てるだけだっ!」
僕は目を瞑り髪の毛を掻き毟ると、妄想を消し去ろうとする。
悪夢を見た時は、いつだってコレで逃れられた。海底都市に沈む悪夢からさえ!
『僕は幼い頃から、感じていた。だから耐えられる』
目を閉じている筈なのに、古物研究所で血溜りに沈む僕が僕を見上げて呟く。
その背後には、ぶくぶくに膨らんだ爺様の肉塊が嗤っている。
変わらず彼らの瞳は、飛び出した魚眼だった。
「だから何だってんだっ!! あんなクソったれな夢がどうなんだっ!?」
『高内は我を失い、ワシは波長が合わずに死んだ。お前は違う』
「肉塊が爺様の顔でぇ、喋るな!」
『そしてお前が呼んだ。娘を引き渡す為だろう?』
「違うっ!! 僕はっ……ただ知りたかっただけだっ!!」
気づけば僕は港に戻っていた。
叫ぶ僕を嘲笑う様に、緑の海水に浮かぶ異形。その口から爺様が顔の半分を出して呟く。
やはり爺様の目は飛び出した魚眼だった。
『もう遅い……長は気づき、我らは動いた』
「黙れ、黙れぇえエエっ!!」
『お前達は間違えたのだ』
喉から血が噴き出す程に、僕は雄叫びをあげた。
だが時間は止まらず、僕の全身に浮遊感と落下感が襲い掛かる。
視界は暗く……目の前には腐臭漂う尖った牙の並んだ大口が開いていた。
上下で糸を引く唾液には、血と海水が混ざり合い……僕の頭を飲み込もうと。
「せんぱァぁいっ!!」
「~~ッ!」
少女の絶叫が僕の背中を叩いて、意識を覚醒させる。
寸前で転がった僕の鼻先を掠める魚類の牙に、髪が引き千切られた。
体勢を直した視界に映るのは、僕をまさに喰おうとした異形の怪物である。
悍ましい怪物を見て僕は……恐怖よりも安堵が勝ってしまう。
「現実だったのか……良かった」
爺様の死因に関わる奴を、殺す機会が差し出されたのだから。
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