第9話
◇ ◇ ◇ 七月 一八日 午前一時 四五分
「本当にやるのっ!? 真夜中だよっ!」
「あぁ~うっせぇなぁ。だから帰っておけって言ってるだろぉ?」
深夜も深夜。明日は月曜日の、午前二時前。
僕とアワナ君は段ボール箱を片手に、真夜中の都市部湾岸で揉めていた。
理由は港の陸揚げ場の坂道を降りて、波打ち際に行く為である。
「だって怪物を呼び出す呪文を唱えるって……もし本当だったらっ!」
違った。波に攫われる心配では無かったらしい。
僕は呆れて耳糞をほじくると、フッと息で飛ばす。
この海の涼しさの方が、怖気が走るわ。
「爺様があんな死に方したんだ。十中八九、本物だろうよ」
「気軽過ぎない!?」
そう。ここに来た理由は例の箱。模倣女教典と名付けた世界の真理を確かめる為である。
爺様はかの箱の翻訳と研究を、僕のノートに全て残してくれていたのだ。
僕も全てを理解できた訳ではないが……一つだけ気になる文章を見つけた。
それがこれから行う、人魚を呼び出す儀式である。
「爺様は儀式の方法や準備を詳細に書いていた。恐らく儀式を試している筈」
「でも先輩のお爺さんは……」
「死んだ。だから何が起きたのか、確かめるんだよ」
研究書には絶対に使うなと書いてあった。自分が試すからと……。
だが結果をもう聞く事は出来ない。僕がやらなきゃいけないんだ。
「君は帰ってろよ。僕一人でやる」
「そんな訳に行かないよ。あの時だって、ボクが一緒に付いていけば」
「……はぁ。爺様の件は君は何も関係ない。僕と爺様が超神秘を知りたくてやっただけなんだ。勝手に君の為にしないでくれ」
僕は振り切る様に海へ通じる坂道を下り、夜の闇に染まった海へ近づく。
海中は何も見えず、時折水面が揺れる以外は異界に通じるかの様だった。
僕が波打ち際でしゃがむと、アワナ君も傍に立つ。
「……行くぞ。アレをくれ」
「アレって?」
「段ボールの中にあるだろ」
僕がアワナ君に出すと、彼女は段ボールの中身を一つ差し出してきた。
「スタンガンじゃねぇよっ!! 儀式の道具だ、道具っ!」
「えぇ……あぁ~、アレねっ! スタンガンかと思ったよ」
「波打ち際でスタンガン使うかっ!? 死ぬわっ!」
警察に押収されていたスタンガンと、改めて彼女が差し出したロープを交換した。
ロープは手拭いを捩じって作った、二の腕の長さ程の物である。
手ぬぐいには血を混ぜた油性ペンキで、模倣女教典の文様が書かれていた。
歪んだ五芒星に瞳を書いた物だ。
「本当にやるんだね?」
「僕は高内教授や爺様が死んだ理由を知りたいんだ……僕が何に怒れば良いのか、それを確かめる為にっ!」
アワナ君は僕の顔を見つめたと思うと、頷いて隣に膝をついた。
彼女は僕の背中をさすりながら、覚悟を決めた顔で僕に告げる。
「付き合うよ。元々は全部、ボクから始まったんだから」
「……分かった。君の勇気をボクは忘れない、二人で真実を確かめよう」
僕は右手でロープの端を握ると、腕毎ロープを海中に浸す。
滑る海水が肌をまさぐり、不快感で背筋が凍り付く。
その眩暈と違和感の強さは、気を抜けば海に落ちていた程だった。
「行くぞ……」
「ボクは何をすれば良い?」
「何かあったら警察に連絡を入れられる様にしてくれ」
アワナ君を巻き込まない様にして……準備完了だ。
爺様の研究資料に記された儀式は、残るは呪文を唱えるだけである。
「ぢぅはぃだぁ」
粘液を練りだす様に、人間が放てる限界の音が喉から漏れた。
その声は最後に爺様と喋った時同様、力を持つ波濤として空間を揺らす。
「ぢぅはぃだぁ!! くとぅるん!!」
「先輩……先輩?」
「めんおう くとぅるん ららいや ぢぃおぅだ!」
僕では無い声が漏れ出す度に、魂を構成するナニかが滴れ落ちていく。
冷たい粘性質なソレは目には見えないが、力を秘めているのは間違いなかった。
「ちゃんるめんしゃん じしゅうだい!」
「きゃぁっ!? な、何っ?」
ソレは僕の右腕を伝い、海へと拡がっていく。
その効果は徐々に、怪奇現象として現れた。
最初に重苦しい冬風が吹き、ソレは次第に腐臭へと変わりだす。
「ぢぅはぃだぁ……」
闇に染まる無明の海が僕を起点に、藻で覆われた青緑色に染まっていく。
水平線の果てまで緑に染まった水面は、差し込んだ腕さえ見えない程に濃淡だった。
「……っ!?」
「先輩ぃっ!?」
後一節を言い切る為に、僕は息を深く吸い込む。
だが突然。ロープが強い力で、海底に引きずり込まれたっ!
視界が青緑に染まり、口の中一杯に魚卵に似た滑る海水が流れ込む。
「ぶぅっ、ゥぁっ。ぁっ!」
「先輩、踏ん張ってっ!! ん、もぉっ。んんっ!!」
アワナ君が僕を寸前で掴まなければ、海中に引きずり込まれていただろう。
僕達は藻掻きながら、態勢を直す。
この時。僕はこのまま言い終わらなければ大変な事になる予感……いや確信があった。
「じ、じぅ……ぢぅはぃだぁ!!」
水面から顔を出し、必死で叫ぶ。
その間もロープは暴れ竜の如く動き回るが、先端で何が起きているのか見えない。
「くとぅ、るん!!!」
最後の呪文を言いきった時、ピタリッとロープの動きが止まった。
「はぁ……はぁ、はぁ。うぼぇぁ」
「先輩っ!? 先輩っ。しっかりして下さいっ!」
儀式を始める前の元気は、絞りつくされた。
僕はロープを掴みながら、胃から這い上がる吐気をモロに噴き出す。
それは胃の中身を全て吐き出しても、治まる様子は無い。
「下がろうっ!? ボク、何だか怖いよ」
「はぁ、はぁぁ待って、待ってくれ。ロープだけでも……」
アワナ君が僕に潜り込む様に体を支えると、坂の上に引きずる。
その時になって気付く。ロープは暴れなくなったが、代わりに重さを感じるのだ。
だがあくまでロープが重いのでは無く、敢えて言うなら……そう。
海中に浮かぶ人を、引っぱる様な重さだった。
「何か居る。ロープの先に何かっ」
「せ、先輩……」
短いロープの先。海中に巨大な影が見えた。
巨人という程では無い。だが大型魚程は間違いなくあるだろう。
それは魚類というには、余りにもシルエットが……。
「うっ、わぁあアァァあああアアアっ!?」
座礁する様に現れた存在は、大の大人程の……。
魚が人間の体を生やした様な、まごう事無き異形だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます