第5話
◇ ◇ ◇ 六月 二六日 午後八時 二二分
時を遡り深夜。僕は爺様から電話で、私立考古学研究所まで呼び出された。
そこは実家とは違う、山頂に建てられたログハウスであり爺様の仕事場である。
僕が不審げに思いながら部屋に入ると同時に、爺様の声が木霊した。
「結論から言おう。これは原始的な宗教信仰への秘密じゃ」
呼び出された二階の部屋はニスや絵の具が匂い、デッサンの狂った絵が並び……。
壁際を見れば奇妙な人型の石像が、ガラス棚の中で僕を睨んでいる。
「読み解けたのかいっ! こんな短時間でっ!?」
「全部読み終わったのは、数十分前だがな」
爺様は書斎机に座らず、骨組と座席だけの安椅子に座って天井を見上げている。
だが薄暗い部屋の隅に居り、その姿は朧気にしか見えなかった。
「良くある善神と荒神が戦う宗教だったが……間違いない、黒祠じゃろう」
「黒祠……明治政府が認めなかった宗教を、裏で行う犯罪行為か」
とはいえ大抵の宗派は国で認められている以上、黒祠とはつまり……。
「邪教じゃよ。荒神たる死を超越した絶対者と、付き従う地獄の給仕長。海底都市を根城とする魔物共の信仰……」
僕は内容を問い正そうとしたが、爺様の姿を見て言葉を失った。
インクか絵の具か。食べカスが垂れ落ちた紳士服。
ヒゲは無造作に伸び、頬には爪で裂いた血と傷が残っていた。
何より目だ。爺様は天井の一点を見て、夢見心地な光りを失った眼で譫言を垂れている。
「爺様っ。おい、どうかしたのか!?」
「モンゴルで見た、レン高原の矮人種族も。アトランティスでさえ説明が付く……」
爺様の口元から白泡が零れ落ちたのを見て、僕は更にショックを受けた。
この一週間、家にも帰らず箱を研究していた事は知っている。
だがコレがあの爺様か? 生命力に漲っていた彼に何があったんだ!
「邪教と言えば密林奥地の魔女教や、北方民族が行う残酷な儀式が最たるモノじゃろう……治外法権の許さない日本だからこそ、独自の進化を遂げたと見るべきか」
「おい、爺様。おいってばっ!」
僕は支離滅裂な呟きを続ける爺様の肩を、膝を折って揺さぶった。
そこまでして漸く爺様は、僕に初めて焦点を合わせる。
「アンタ、何日寝ていないんだっ!?」
「んん? あぁ、すまんな。話がズレてしまった」
ダメだこりゃ……何が起きたかは分からんが、話を聞いたら眠らせちまおう。
僕は椅子を引き寄せて、爺様と対面する様に座った。
「有馬、お前は八尾比丘尼伝説を知っているか?」
「人魚の肉を食った女が、不老不死になってしまう物語だろう?」
八尾比丘尼伝説は有名な怪談だ。
日本中に色んな種類の話が混在しており、百物語でも定番と言える。
「人魚をある女が食べて、不老不死になるけど親しい人を失って放浪を始める。他にも色々バリエーションがある位か?」
それを聞いた爺様は、何を感じたのか。
爺様は何も言わず、虚空を数秒見つめた後で口を開いた。
「八尾比丘尼伝説は日本全国、どこにでも存在する。最大の特徴はそこじゃよ」
「だからなんなんだ? 黒祠から日本怪談……話が飛びすぎじゃないかい?」
不眠症の僕だから分かるが、長い時間眠らずに居ると思考があっさり飛ぶ。
意識を失うという意味では無く、思考が飛び飛びになって支離滅裂になる。
今の爺さんも……そうだと言いたいが、その目にギラつく力強さが否定していた。
「話は変わってない。つまりこの箱は八尾比丘尼が書いた、人魚や世界の秘密について記された教典なんじゃ」
「……爺さん。八尾比丘尼は一二〇〇年前の人間だって知ってるかい?」
それがどうした。という顔をしている爺さんに僕は溜息を吐いた。
本当だとしても、この黒ずんだ箱がそれ程昔のモノには見えない。
爺さんも僕の様子に気づいたのか、明白に機嫌を悪くする。
「お前は変な所で現実的でイカンなぁ。証拠を見せてやろう」
「証拠だって? 何を見せるってんだ。良い加減眠ってく……」
僕が椅子から立ち上がろうと、腰をあげた時。
爺さんが眼を強く瞑って、荒ぶる嵐が吠えたかの様に声を振り絞る。
「めんおう くとぅるん ららいや ちゃんるめんしゃん じしゅうだい」
それは大凡、人類が発声出来る限界に近い言葉だった。
脳みそが痙攣する程の情報が宙を迸り、空間が波濤の如く揺れる。
僕は身動き一つ取れず、爺様が話しかけるまで虚空を見て呆然としていた。
「どうだい、これが真理じゃよ」
「今……何が起きた? 何て言ったんだっ! 爺様っ、アンタはっ――」
「まだ何も起き取らんよ。起きるのはここから……」
僕が詰め寄って説明を要求すると、爺様は立ち上がり僕の背中に手を回す。
そのまま僕を窓へ誘うと……。
窓ガラスに映っていたのは、二人の爺様だった。
「はぁ……あ? あれ、僕が? 何が起きてる?」
「呪術か魔術なのか。恐らくは名前の違うナニかだろうなぁ」
爺様が僕の背中から手を離し、鏡に写らない様に退く。
鏡の爺様の片方が鏡写しで消えて、僕の居る筈の場所には爺様が一人だけ残った。
もう一つ分かった事は……残った鏡の中の爺様は僕の動きと連動している事だ。
「古の時、原始の信仰者が敵対者に放った呪い……警告じゃよ」
僕が鏡に触れると、鏡の中の爺様も鏡に指を触れ合わせる。
鏡面に触れた指は冷たく、間違いなく現実だった。
次に僕は自分の頬や髪に触れるが、骨張った肌触りや髪を梳く感覚はある。
「だがこれだけでは……」
僕は懐から携帯電話を取り出すと、自分の顔を写す。
そこには……僕の顔では無く爺様の顔だけが写っていた。
「っ!?、マジかよ」
「漸く信じる気になったか?」
笑えば画面の爺様も笑い、眉をひそめても同様。
僕が写る鏡像は全て、爺様になっていた。
「有馬、ワシは研究の全てが実ったよ。この箱には世界の真実が記されている」
「あぁ、あぁっ。あったんだなっ!? この世ならざるナニかが!!」
「……やっぱり現実なんじゃな? ワシの頭がおかしくなった訳じゃない。あぁっ!」
僕の全身が震え、歓喜の内に胸から熱い何かが迸る。
爺様が感じるモノはそれ以上だったろう。
爺様は豊かな体を萎ませて、顔中を歪めると子供の様に大粒の涙を流す。
「良かった、良かったのぉ……何だか疲れてしもうた。続きは明日でも良いか?」
「寸止めなんて酷いじゃないかっ! 箱には何が記されていたんだいっ!?」
「爺ちゃんを労ってくれ……明日の朝一番、また来れば良い。その時に全てを話そう」
爺様はやり切った表情を浮かべ、千鳥足で書斎机まで辿り着くと突っ伏した。
疲れていたのだろう。突っ伏す途中から、既に眠りについていた位だ。
「……おいおい風邪を引くって言ったのはアンタだろ」
自分を棚にあげる困った爺様を見て、僕は事務所の窓を閉める。
少し心配だが戸締まりだけ行い、爺様の研究事務所を去ろう。
「この相倉家長男。相倉有馬が……見つけたんだ。歴史に残る発見をっ!」
僕は全身から湧き上がる熱に背中を押されて、実家に向かう夜道を歩いて帰った。
何て素晴らしい運命だろうっ!
世界の誰も知らない真実が、僕の手の中に転がり込んでくる。
やはり世界は、僕を選んだんだっ!
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