第4話


 ◇ ◇ ◇ 七月 四日 午後六時 一八分


「観自在菩行深 般若波羅蜜多時~照見五蘊皆空度一切苦厄~」

 僕の眼前に座る人々は、誰もが黒服を纏い席に座っている……百人は居るだろうか。

 部屋には沢山の花々が飾られていて、どれも僕が聞いた事も無い名前が刻まれていた。

 部屋の奥では全員に背中を向けた坊さんが、お経を唱えている。

 僕は今、斎場で葬儀中なのだ。

「舎利子~色不異空~空不異色。色即是空~空即是色。受想行識ぃ~亦復如是~」

 季節はもう七月。人の熱気と夏の暑さに、礼服には汗が滲んで不快感を感じる。

 しかも僕は会場の親族席に座っていた。

 仕方なく無表情で来客を見ていると、雑音が嫌でも聞こえてくる。

「ねぇあの方。変死体で見つかったんですって」

「えぇ~。あんなに元気な人だったのに? 最近物騒ねぇ……」

「私もビックリよぉ。その前の日に喋ってたのよ?」

 般若心経が霞む声は、無気力に座る僕の耳に雑談を刻みつけてくる。

 不快にさえ思わなかった。

 僕は今、頭痛で寒いのか暑いのかさえ分からないのだから。

「それで水膨れになって死んでたのぉ?」

「もぉ……そうなのよぉ」

 痛ましそうな参列者の他にも、何人かの啜り泣く声や掠れた咳も聞こえる。

 それとは別に葬儀室から去っていっては戻らず、帰る者もいた。

 僕はその度に、帰る者に視線を向けていると……隣から肩を叩かれる。

「ったくっ。何をしとるっ! ……お前は相倉家長男なんだぞ、しゃんとせんか」

「爺……様?」

 隣の席に座っていた爺様。冬路爺様が僕を叱りつけた。

 僕が不抜けた声で呼び返すと、爺様は心配な顔をして耳元で呟く。

「その面構え、体を崩したか? 今日は暑いから、無理はするな」

「……少し風に当たってくるよ」

「分かった。おいっ、そこを退けてくれ。孫が気分を崩したらしい」

 焼香をあげる順番だったが、僕は爺様に支えられて席を立った。

 周りに控えていた斎場の係員が、僕を支えようとするが構っている余裕は無い。

 背後では次々に焼香が始まり、仏様との別れを告げ始める。

 そうして葬儀室を出た僕に、声をかける物好きが居た。

「先輩。あのっ! 体調は……大丈夫?」

「アワナ君か。平気とは言えないが、この位は慣れたモノだよ」

「それは平気なんかじゃ……」

 振り返った時、そこに居たのは僕の後輩。アワナ君だった。

 相変わらず長い髪を今日は一つに纏めて、黒いアンサンブルを纏っている。

 少しだけ大人びて見える彼女は、心配げに見あげてくるが……隣が騒がしい。

「おぉっ。もしかしてお嬢さんが、例の彼女かっ!?」

「勘違いしないでくれよ。僕は迷惑をかけるつもりは無いぞ」

「迷惑なんてっ! ボクはただ……講師から先輩のご親戚が亡くなったって聞いて」

 爺様がニヤニヤしながら、視界の隅を反復横飛びして出たり入ったりする。

 怒鳴ってやりたいが、僕が変人だと思われるだけだ……我慢しよう。

 僕が眉間に皺を寄せていると、アワナ君はどう勘違いしたのか俯いた。

「あの、もしかしてあの件が……」

「いいかいっ! 事件とは全く関係無い。親戚が本望を果たして亡くなったってだけさ」

 僕はアワナ君の言葉を遮り、寒気のする体を引きずって彼女に背を向けた。

 その隣では爺様が僕を支えながら、僕と彼女を何度も見返している。

「すまないが親戚の葬儀が終わるまで、調査は見送らせてくれ」

「そんな。あの……ボクにも何か出来る事は」

 外へ向かう僕に言い募る彼女の声には、間違いなく哀れみと心配の色が滲んでいた。

 この相倉家当主。相倉有馬が……年下の後輩に、心配されてたまるかっ!

「君がすべきなのは、人の波に飲まれて焼香の一つでもあげる事だ……じゃぁな」

「おいっ! すまんなぁお嬢さん。コイツ今、体調悪いんじゃ。また遊んでやってくれ」

 僕は故人の名誉と死に様を汚さない為、アワナ君の勘違いを背中越しに正す。

 そのまま斎場から、更に蒸し暑い夜空の下へ歩み出た。

 外には何名かの参列者が休んでおり、彼らは僕を見て怪訝な顔をしている。

「なぁ爺様。ちょっと良いかい?」

「あっちのベンチで休むか。それとも離れて……なんじゃい、そんな顔をして」

 僕は入口に飾られた、斎場側が用意した案内板を見る。

 大きな板には、立派な文字でこう書かれていた。


『 故 相倉冬路 儀 葬儀会場 』


「アンタの孫は、どうも頭がイカれちまったらしいぜ」

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