第3話
◇ ◇ ◇ 六月 一八日 午後九時 五四分
「有馬っ。爺ちゃんが来たぞ、起きろっ!」
「んぁっ!?……なんだ爺様か」
僕は頬杖をついて頭が落下する感覚に、うたた寝から目が覚めた。
目の前では僕を起こした祖父。相倉冬路(あいくら・とうじ)が笑っている。
老人の癖に体格も白髪も豊かな爺様は、見れば見る程僕に似ていない。
性格も性悪で、自分の事を棚にあげて話す癖があるしな。
「爺様か……じゃないわっ。夜も遅い、もう寝なさい」
「この教典を研究しているんだ。寝てなんかいられないね」
寝起きで直前の記憶は無いが……自室で机に座ったまま、うたた寝をしていた様だ。
目の前に広がる書斎机。そこに乗った電気スタンドと黒ずんだ箱がソレを証明している。
「たわけっ。若い時から生き急いでどうする」
「爺様だって若い時……今でも研究三昧だろ?」
「お前じゃまだ入れない、大学書庫にも入り放題だからの。人生楽しくて仕方ないわ!」
こんなファンキーな爺様だが、既に還暦を過ぎた古物研究家である。
金にならない研究で遺産を食い潰し、親族からはダメ人間と呼ばれているが……。
だが両親を失った僕を引き取り、自分の研究室までくれた恩人だった。
相倉家の当主が百年以上に渡って使い続ける、オーク材の書斎机。
壁に並ぶ本棚には、古今東西の発禁本から希少本まで存在する、最高の環境だ。
「でっ、ソレがお前が言ってたお嬢さんの……」
「あぁ、漸く見つけたんだ。これがアワナ君の襲われた元凶だろう」
僕は机上に置かれた、黒ずんだ組木細工を見せる。
アワナ君の家から引き取ったこの組木細工だが……中が空だった。
爺様は当初こそ頬を綻ばせたが、次第に鼻を鳴らして機嫌を悪くする。
「はぁ……女子の家に行くと言うから喜んでいたら、やっぱりワシの孫かい」
「爺様。言っちゃ悪いが、超神秘学は女性の神秘とやらに、負けていないぜ?」
「それは正しいかもしれん……お前が女性を怖がってなければな」
「僕は何も怖がって無い。何を怖がるって言うんだ?」
爺様の目は僕に向きながら、焦点だけは遠くを見ていた。
僕の背後を見ている様にも、昔を思い出している様にも見える。
それは一瞬の事で、次に爺様は出来の悪い孫を見る目を向けてきた。
「お前の女性恐怖症は、生来のモノじゃない。分かっとるじゃろう」
「何だよ。今日は随分僕に絡むじゃないか。保護者面するなんて珍しい」
僕の女嫌いはいつもの事じゃないか。
それで犯罪行為を行った訳でもない。放っておいて欲しい。
「お前は女性の心が何も分かっとらん。異星から来た生物だと思ってないか」
「それの何処が悪い? 別に関わりを持たなければ……」
「理解した上で離れるなら良い、だが何も知らずに突き放してとる」
僕が言い返そうと口を開くと、爺様からマグカップを差し出された。
ニヤっと笑う爺様の表情に無意識に受け取り、湯気が掌を温める。
その爺様の笑顔を見ていると、僕自身がバカみたいに感じてしまうのだ。
「背を向けるな。見た上で理解しようと努力し、それで嫌なら離れれば良い」
「ふんっ……ココアで懐柔するつもりかい?」
「イライラした時はコレじゃろ、疲れも吹っ飛ぶぞ」
コレが大学の安っぽい講師が相手なら、全力で怒鳴り返すだろう。
だが爺様にはそうはいかない。自室の扉を開けるのは、爺様以外に居ないからな。
何より僕が両親を失って以来、育ててくれた唯一の血縁者だ。
「相変わらずココアが好きだねぇ……血糖値が上がって死ぬなんて、止めてくれよ?」
「安心しろ、ダイエットにも効くココアじゃ。皆飲っとるよ」
怪しい売人みたいに勧めてくる爺様に、僕は溜息を吐いて休憩する事にした。
甘さの足りないココアを啜っていると、爺様が机上の木箱に改めて興味を示す。
「秘密箱かい、中身は何だった?」
「無かった。いや……この箱そのものが中身だったんだ」
触る度に海水の粘り気を感じる箱を手渡すと、やっぱり爺様も嫌な顔をした。
木箱を見つけてから一週間。僕も箱について調べて見たが、分かった事は少ない。
敢えて言うなら黒ずんだ原因が、箱の内部に刻まれた達筆な言語の所為だと言う事か。
「僕も調べているが、恐らく百年から二百年前の品物だろう」
「その根拠は? まさか適当にフカしてる訳じゃないだろうな?」
「孫を何だと思ってるんだっ!? 大学で調べたら、南国の木だと分かったんだよ」
「なる程な……昔似た様なモノを見た事がある」
「何っ、それは何処だ!?」
僕は血潮が熱くなるのを感じて、椅子をひっくり返して立ち上がる。
爺様は黒ずんだ箱を弄りながら、得意げな顔をした。
「研究は上手くいってないか。恐らく文字が解読出来ないのか?」
「日本語なのは分かる。だけど達筆過ぎて……それよりさっきの話さっ!」
机に座った爺様が、額に手を添えて思い出しながら呟き始める。
不明瞭で蒙昧な呟きは、三十年前に遡った所で僕への返答となった。
「三十年前だったかのぉ。ワシらのご先祖様の友達……その遺品だったか」
「おいおい、この家にあるのかいっ!?」
「いいや……南海諸国の品と聞いて、ワシの専門じゃないから大学に寄贈した」
「はぁっ!! 他の大学で既に研究されているって!?」
僕はその迂闊さと不運に、怒りの炎を上げてほぞを噛む。
爺様はバツが悪そうに目を逸らした。
「今から百年前の遺品なんぞ言われてものぉ……その、何だ。困る」
「ッちぃ。まぁまぁ良いさ、その遺品について知っている事は?」
「南海諸国で起きたカルト事件で、警察が押収した品とか。それを考古学者が引き取ったとかその程度じゃよ」
カルト事件だと聞いて、僕の心がザワめく。
高内教授はこの箱を教典と呼び……アワナ君のご母堂は宗教に携わっていた。
更にこの木箱と似たモノは、カルト宗教絡みの品だという。
考え込んだ僕の肩が叩かれ、爺様が箱を抱えて笑顔を向けてくる。
「有馬、ワシにこの箱を貸さないか?」
「これは僕の研究だぞっ!? 誰がやるか!!」
「安心せい。ワシも歳だから研究等、手伝いはせん……だが手伝いはしてやれる」
そう言った爺様の目は、またどこか遠くを見ていた。
僕に焦点が合わず、僕を見ながら違う誰かを見ているのだ。
「……僕はアンタの息子じゃ無いんだぜ?」
僕は家族を惨めだなんて思いたく無い。だから爺様から目を逸らした。
代わりに見た机上のノートは……全くの白紙。研究は進んでいないから当然か。
全ては箱の文字が読み解けなかった所為である。
時代背景も箱の研究も、文字が読めなければ推測しか出来無い。
「思えば大した事をしてやらなかった。二人の墓にも大して見舞って無い」
「僕もだよ、爺様には恩も何も返してない」
「お前はそれで良い。ワシらが継いで来た物を、受け継いでくれたのだから」
爺様が僕の胸を、逞しい腕で力強くノックする。
痛くは無いが文句を言おうと、爺様の顔を見上げると……。
爺様は僕を大切な宝物の様に見つめていた。
「お前に何かを与えてから、死にたいんじゃよ」
「……これで断わったら、僕が人でなしじゃないか」
僕は黒ずんだ箱と研究ノートを爺様に差し出して、しっしと手で追い払う。
爺様は荷物を受け取ると、ゲラゲラ笑いながら背中を見せて去って行く。
僕は照れくさいやら悔しいやらで、老人の癖に僕より広い背中に呟いた。
「寝不足で死んだら、笑ってやるからな」
「馬鹿者っ。この相倉家現当主、相倉冬路が簡単に死んでたまるかっ!」
「っへ。解読出来なかったら、当主の座を僕に渡せよ」
「見とれ。お前が解読出来なかったモノを、ワシが二週間で解読してやる」
その言葉を最後に爺様が地下の扉を閉める。
上から漏れる光が途切れ、薄暗くなった自室で僕は立ち上がった。
不思議と全身を覆っていた気怠さは消えている。
「さて……久しぶりに寝れたなぁ。少しベットに横になってみるか」
この時の僕には、爺さんの身にあんな事が降りかかるなんて……思ってもみなかった。
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