第7話


 ◇ ◇ ◇ 五月二七日 午前三時 二八分


 僕は高内教授が起き上がると同時に、ベットから這い出た。

 ベットの下は落ち着く場所だったが、同時に甘い匂いが不快だったな。

 暗い室内の明かりは、倒れているスタンドランプだけだがこうなれば問題は無い。

 背中にはアワナが、前方には高内教授が居るだけだ。

「ストーカーどころじゃないな。昼間は上手く隠してたのか?」

「やぁぱりそうだっ。お前ぇみたいな集団ストーカーが、私を見てるんだぁ!」

 瞳を左右に走らせ焦点の合わない男が、あの大人しい高内教授だとは到底信じられない。

 まるで出来の悪いサイコホラーじゃないか。

 というかアルミホイルを巻いてどうするんだ……?

「そんな事、ある筈無いだろ」

「いつもいつも見てやがるだろっ。さっきだって監視してたぁ!」

 僕が真実を教えてやると、狂人は目を大きく見開いて叫び出す。

 その叫び声は呂律が回っておらず、酷く聞き苦しい。

 狂人の体から漏れる異臭も相まって、僕の喉に吐き気が催してきた。

「街中を歩けば監視カメラで撮られて、思考盗聴の電波も流れている。気づいて……」

「お前の妄想だろぉ、も・う・そ・う。僕に声をかけたのは、ストーカーに仕立て上げようとしたって所じゃないか?」

「そ……」

「戯言は辞めろ。今から警察を呼ぶからな」

 僕は携帯電話の通話ボタンをプッシュすると警察に繋げる。

 その間、狂人は俯いたまま全身を震わせていた。

 僕は奴から目を離さず、睨み続ける……電話口から呼び出し音が鳴る、その時だ。

「~~~ッ!」

 狂人が声ならぬ絶叫と涎を流して、僕に掴みかかってくるっ!

 驚きはしない。襲いかかってくる想定で動いていたからな。

「こんのぉっ、お前みたいな奴がぁっ!」

「貴様みたいなボケナスがっ!! 僕の胸ぐらを掴むなぁっ!!」

 狂人に胸ぐらを掴まれると同時に、僕は腕をつねって怒鳴り返す。

 まるで僕が悪い事をしたかの様に、狂人は眼を見開くと怯んだ。

「先輩っ!?」

「下がってろ、アワナッ!」

 ホチキスで紙を挟んだ様な接続音と、紫電のスパークが暗闇に閃くっ!

 僕が持つ護身用のスタンガンが、狂人の腹に突き刺さって電流を放ったのだ。

 火花の放電は一瞬だったが、それで十分。

 狂人が陸に揚げられた魚の様に飛び跳ねて転ぶ!

「中々の威力だな。ネット通販で買っておいて良かった」

「……大丈夫?」

「この僕が何かされるかよ。アワナは外で警察を待ってて……」

「何が、私の何が、分かるってぃぅんだぁ」

 そこで安心したのが良く無かった。

 僕の足下で転んだ高内教授が、突然飛び跳ねるっ!

 説明書ではスタンガンを受けると、動けなくなると書いてあったが……その跳び方は異常だった。

「野郎ッ!?」

「いっ、やっ!」

 狂人が僕の背中からベットへ。アワナさえ追い越して、窓ガラスに激突っ!

 割れるガラスが外へ飛び出し、後を追う様に狂人も二階から落ちていった。

「ぁ”ぁ”あ”ア”ッ!!」

 聞こえたのは、幾つものガラスが細かく砕け散る破裂音。

 続いて身も竦むず太い悲鳴と鈍く嫌な音がした。

「落ちたっ!? 本当になんなんだアイツはっ!」

 僕はベランダに駆け寄ると塀から身を乗り出して、狂人が落ちた先を見る。

 見れば黒づくめの背中が、力無く立ち上がる所だった。

 僕はソレを見て迷った……つまり追うか追わないかを。

「これで警察は納得してくれるのか?」

「あの、先輩……警察の電話が」

「現行犯の証拠になるのか? ん、あ。あぁ……ちょっと待ってくれ」

 アイツが逃げ出したとして、写真は撮ったし帽子も手元にある……十分か?

 分からない。僕は品行方正な一般市民だから、警察の知識なんて持っていない。

 というか奴は戻ってくるのか? アルミホイルを頭に巻いてる様な奴だぞ。

 逃げ隠れて行方不明になられたら、それこそ危険だ。

「……追うしか無い、か」

 悲鳴にたまげた様子のアワナに携帯を投げ渡し、玄関の靴を掴むとベランダに向かう。

 この部屋の二階から一階までは、人間三人分といった所か。

 僕がベランダの塀に手をつくと……突然、腰に衝撃が走った。

「先輩っ、何処に行くのっ!?」

「あのバカを捕まえる……君は警察を呼んでおけ」

 アワナがベットから立ち上がり、僕の腰にしがみついていた。

 見れば彼女の顔はくしゃくしゃで、瞳は充血している。

 髪も暴れた時に乱したのか、頬には涙の跡が残っていた。

「でも……」

「もう安心だ。後はどうとでもなる」

「先輩っ!?」

 僕はアワナに頷くとその手を振り払って、ベランダの塀を飛び降りた。

 一瞬の浮遊感……地面に両手両足で着地するが、同時に痛みが走るっ!

 エレベーターの中で重力をモロに感じる時の、数倍の衝撃だった。

「くぅうっ、あんな中年に出来て……僕に出来なくてたまるかぁっ!」

 僕は転がる様に立ち上がり、周囲を見渡す。

 マンションの裏手は集合住宅や一軒家、個人経営店舗が続く裏通りだった。

 地面こそアスファルトで舗装されているが、夜の闇に染まって辺りは真っ暗である。

 街灯が一定間隔になければ、何も見えなかったろう。

 その闇の中。高内教授の背中が、道路の突き当りへ走っていく。

「待てぇっ、スカタンがぁっ!」

「助けてぇストーカーがっ、ストーカーが襲って来ますっ!」

「それは貴様の事だろっ!!」

 僕は裏通りを疾走して、奴の背中を追いかける。

 体格では負けていても若さが違う。距離は徐々に縮まりだしたが……。

 だが僕の体力の無さは、予想を超えて深刻だった。

「はぁっ、はぁっ、はぁぁ」

 少し走っただけで心臓が動悸を始め、口からは疲労を吹き出される。

 動かす両足が重く感じ、上手く息ができない……奴との距離が空き始めるっ!?

「助けてぇ、助けてぇっ!」

「逃がさんっ!」

 僕は酒屋の店先に並ぶ空瓶の箱から、一升瓶を手に取った。

 勿論。普段なら誰が口を付けたか分からないモノ等、決して触らない。

 だが今は緊急事態である。この相倉家長男が、中年に負ける等……。

「あって良い筈がっ、無いだろうがぁああっ!!」

 僕は野球をしていた訳でも、ダーツが得意な訳でも無い。

 だがガラス瓶は僕の手を離れて、狂人へ吸い込まれる様に飛んでいく。

 直撃っ! 風鈴にも似た凜々しい破裂音が響き、煌めく瓶がカチ割れた。

 狂人はその衝撃で体をよろめかせ、つんのめる!

「ん痛ぇっ!?」

「はぁ……はぁ、はぁ。倒れ、たか?」

 奴が突き当たりを曲がり……鈍い音がして足音が聞こえなくなる。

 僕は深く深呼吸をすると、立ち上がって歩き出した。

 警察にどう説明するかを考えつつ、突き当たりを曲がる。

 ……だがそこにはくたびれた狂人も、倒れた犯罪者さえ居なかった。

「何だこの水膨れした蛙は……」

 そこには全身が水膨れして、限界まで膨れ上がった肉塊だけが落ちていた。

 肉塊は大凡長さ二メートル、厚さは一メートルに満たない程か。

 ブクブクと膨れる肉塊は、丸々とした楕円から突起が五つ生えており……周囲には腐水と血の混じった悪臭が漂っている。

 見れば楕円の肉塊から、異臭の原因だろう糞尿らしき汚水が滲みだしていた。

 ……僕はその非現実的な光景を見て、呆然と立ち尽くすしか出来ない。

「何だこれは。こんな肉塊は……まさかっ!?」

 注意深く観察してみれば、肉塊は不規則に脈動していた。

 そこから伸びる四つの突起と……歪んでいる顔から、僕は肉塊の正体に気づく。

 否、気づいてしまう。

「高内、教授?」

 僕が追いかけ、瓶を頭に放り投げた高内教授が……水溜りに沈んで死んでいた。

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