第5話


 ◇ ◇ ◇ 五月二七日 午前一時 四分


 アワナは深夜になって漸く、シャワーを浴びていた。

 大きい柔らかなスポンジを泡立て、今日の汚れを落とす彼女の体は小さい。

 豊満とも長身とも言えないが、引き締まりメリハリがある。

 幼児体型というよりは、年頃の女性に比べて全体的に小さいだけなのだ。

 そうして体に立つ白い泡を、頭上のシャワーが溶かして足下の排水溝へと流す。

 未熟だが魅力的な肢体が玉の様に磨かれ、上気した肌が赤みを差し始める。

 目を瞑ったアワナは、流れるお湯を感じながら溜息を吐いた。

「はぁぁ、お風呂入りたいんだけどなぁ」

 アワナは年頃の娘以上に、浴槽に浸かる事が好きだった。

 公衆浴場に行くのが趣味な程で、彼女にとってシャワーだけで済ませるのは苦痛である。

 アワナは未練がましく浴槽を見た後に、シャワーを止めて浴室を出た。

 その肌は湯を弾き、濡羽色の髪が肌に張り付く。美容に興味が無いとは思えない姿だ。

 特に彼女がラベンダーを象るランジェリーを纏えば、どこか妖艶且つ扇情的である。

「~♪」

 だがガーゼ製の半袖パジャマを着ると、不思議と幼く見えた。

 彼女は風呂場から出て、薄暗い部屋の窓辺にあるベットに飛び込む。

 そのまま体を横たえて、枕元のスタンドランプを頼りに携帯を手に取った。

 それを待っていたかの様に、一つの着信が入る。

『異常は無いか』

 携帯電話に表示されたメールは、数日前に知り合った先輩からだった。

 アワナはふふっと笑うと、枕元に置かれたミネラルウォーターを一口飲んで呟く。

「何か起きてる筈無いじゃん。何を言ってるんだろ」

 アワナは『異常無いよ』と返信しつつ、仰向けに寝転ぶ。

 見上げた天井には、昨日から護符が彼女を見下ろしていた。

 薄気味悪い梵字にアワナは嫌そうな顔をすると、シーツを頭から被る。

 そして枕元のコンセントへパタパタと手を伸ばすが、お目当ての携帯充電器が無い。

 普段はつけっぱなしである充電器は、先輩に貸していた。

「はぁ……寝よ。起きたら返して貰わないと」

 彼女はシーツの中でうつ伏せになった後、やはり仰向けになって眠りにつく。

 一時間が経った頃……丑三つ時になると同時に、アワナは眼を開いて跳ね起きた!

「何っ!? 誰かいるのっ!?」

 叫びと同時に、ドンッ! と何かを打ち下ろす様な音が響く。

 最初は弱い音は次第に近づき……天井から埃が落ちる物理的現象に変わる!

 アワナは音が鳴る度に、視線を右往左往させるしか出来なかった。

「……誰?」

 アワナはシーツを引っ張り、自らを包むがそれは逆効果だった。

 初夏だというのに涼しい部屋で、眠りについていたからか。

 シーツは温度が奪われた様に寒く、彼女の背筋に怖気を走らせる。

「ひぅっ!」

 柔らかなベットに沈むアワナの手に、振動するナニかが触れた。

 アワナは思わず、手を突き刺された様に引っ込めて振り向く。

 ソレは彼女の携帯電話であり……画面は狂った様に、着信を示していた。

 歯を鳴らすアワナが震える手で携帯を開くが、指が上手くボタンを押してくれない。

 その表情は今にも泣きそうで、視線を彷徨わせている。

 ドンッ!!

「ひゃぁっ!?」

 閉まっているトイレの扉、その奥でナニカが落下した!

 アワナは絞る様に悲鳴をあげ、ベットの上で後ずさる。

 先程から断続的に続くラップ音は鳴りを潜め、部屋に静寂が張り詰めた。

 扉を見つめるアワナの心境を無視する様に、トイレの扉が開き出す。そこには……

「何も、居ない?」

 アワナが恐る恐るシーツから顔を出して、薄暗いトイレの個室を覗く。

 そこに人影はなかった。

 アワナは恐怖で弱気になりつつ、顔を背けて一安心するも……。

 ド ン  ッ   !

 先程よりも大きな音と共に、ナニかがトイレに落下したっ!

「うわぁっ、ぁっ! 何、誰っ!?」

 個室は闇の帳で覆われて何も見えないが、輪郭がゆるゆると蠢いている。

 それは黒い軟性の個体で、暗闇をもがく様に突起を振り回すと立ち上がり……。

「や……」

 アワナは首を横に振りながら口元を抑えるが、思わず小さな悲鳴が漏れた。

 その黒い個体は悲鳴に反応して、不意に動きを止めると……アワナへ襲いかかるっ!

「―――っ!」

 アワナは地面を蹴って走るソレを見て、声にならない絶叫をあげるっ!

 ソレは強い力でアワナに圧し掛かると、彼女に身動きも取らせず押し倒す。

 衝撃で枕元のコップが倒れ、冷水がベットの上に降り注ぐが気にも止まらなかった。

「ひぅっ、ひぅっ。ひぃっ!」

 アワナは悲鳴をあげようとしたが……喉から漏れるのは言葉にならない音だけ。

 恐怖が彼女の体を縛りあげ、一時的な失声症状態に陥っていた。

 漸く絞り出せた声は、彼女がスライムの如き個体と目があった時だ。

「貴方が、ストーカー……?」

「……」

 ソレは謎に満ちた怪物では無く、ただの人間だった。

 黒い体皮だと思っていたのは長袖のスウェットで、その頭を覆うのは黒い目出し帽。

 だが何よりも特徴的なのはその頭だろう。

 メタリックに輝く銀色。無数に皺が凝り固まったアルミホイルを巻いていたのだ。

「おかしな奴だなぁ……ストーカぁ? こんの、ストーカーはお前らだろぉ?」

「んぇ……?」

 黒づくめの男が発したのは、指向性を持たない舌たらずな言葉だった。

 感情を発散するだけの寝言と同じで……だからだろうか。男の言葉は休まず続く。

「なんだぁ? なんだぁよぉ、おまぇらはぁ……人の頭の中覗いてよぉ。頭おかしいのかぁっ。頭の中を覗く仕事でも有るのかぁっ!? いつもいつも付き纏ってぇ。何なんだよ。お前らは何してんだってぇ!」

「せん……」

 頭を揺らして独り言を呟く狂人に、アワナは顔を引き攣らせて助けを呼ぼうとした。

 だが喉から言葉は溢れず、か細い息しか漏れない。

 狂人はそれが気に障ったのか、涎を撒き散らして喚く!

「街中で私を見てただろぉっ! 警察とかぁ、学校の奴らとかぁ……グルなんだろ。私は集団ストーカーに気づいてるんだ。お前も思考を盗み見てるんだぁっ!!」

 精神医療に携わるアワナは、男の様子から頭の病気だと気づいた。

 会話なんて、到底望めない。

 関わってはいけない狂人が自宅に侵入し、捕まった事実に震えるしかなかった。

 そして狂人の右手が、赤子の様に震える彼女に向かって振り上げられるっ!

「こんおキチガリャぁっ!」

 顔を背けて、瞼を閉じるアワナ。だがいつまで経っても痛みが走る事は無かった。

 震えるアワナが薄目を開けると……視界外から伸びる青白い手が、腕を受け止めている。

「……!……っ!?」

 狂人が捕まれた右手とアワナを交互に見ている。状況が飲み込めていないのだろう。

 そこへフラッシュが瞬き、狂人の目を零距離で照らして仰け反せた!

 狂人がフローリングに転げ落ち、その先で小さく悲鳴を上げる。

「どうも、昨日ぶりですね」

 フローリングに倒れ伏した狂人が、なぜ悲鳴をあげたのか……。

 その答えは狂人の視線の先。ベットと床の僅かな隙間にあった。

 正確には……闇の中、アワナのベットの下に隠れ潜む存在に驚いていたのだ。

「お待ちしてましたよ」

 身動きを忘れた狂人の目出し帽を、ベットの下から伸びる青白い手が剥ぎ取る。

 眼を丸くして絶句する狂人を見て、手の主たる青年が嗤う。

 青年は背が小さく、病的に青白い肌を持ち……何より特徴的な目をしていた。

 隈が色濃く、狂気じみた輝きを持ち焦点がブレている瞳だ。

「この相倉家長男。相倉有馬を騙せると思ったのか? なぁ……」

 ベットの下に隠れていた相倉有馬が笑い、その手に握った携帯電話を再度灯すっ!

 すると電子音が部屋に響き、携帯電話の画面に狂人の顔が映る。

「高内教授」

 落ち窪んだ目をギョロつかせ、昼間とは人相の違う大学教授が映っていた。

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