三
そうやって僕たちは、いろいろなことを話し合った。大抵は彼が僕に質問していたけれど、時には僕も彼に質問した。彼は僕の質問に全て答えてくれた一方、僕は、きちんとした答えを出せたことの方が少なかったのではないかと思う。例えば、僕が彼に「なんで君はいつもこの教室にいるの?」と訊いたら、「それに理由なんて存在しないさ。君がどうしてこの世界に存在しているのか答えられるのかい?」と返ってきた。また別の日、彼が「もし君の母親も含め世界中の全ての人が、君の母親を殺すようにと命令してきたら、君は母親を殺すことができる?」と訊ねてきたり、「もし君が自由に行動しろと言われたら、君はどの行動に自由を見いだすことができる?」と訊ねてきたりしたときは、僕は押し黙ってしまった。だけど僕が帰るときは変わらず、「また明日」と言って解散した。そうして過ごしているうちに幾週間が経ち、カレンダーが一枚めくられた。こころなしか陽が落ちるのが早くなって、夏休みが目前に迫ってきていた。
七月も中旬の放課後、僕はあの教室に行く前に、職員室に立ち寄っていた。今日は日直当番だったから、日誌を書いて担任の先生に渡しに来たのだ。先生は僕が書いた日誌の内容を軽く確認すると、「よし、オーケー」と言ってはんこを押した。これで日直の仕事は終わりなのだけれど、先生は何か言いたそうに頭をかいていた。僕はとりあえず、その場で言葉を待つ。少ししてから、ようやく先生が口を開いた。
「島田、最近原口とよく話しているそうじゃないか」
「あ、はい」
「いや、全然怒ってるとかではないんだけどな。先生としても原口に友達ができたのは嬉しいよ。ただ、もしかしたら島田に負担をかけているのかもしれないと思って」
「負担?」
「そう。プリントを届けてもらったとき、先生言ったろ。もしよければ原口と話してやってくれって。そのせいで、島田が無理して原口と付き合ってるんじゃないかと思ったんだ。島田は素直だし、優しいから」
そう言われて、僕は少し言葉を忘れてしまった。たしかに僕は、先生にそう頼まれた。でも、彼と、原口くんと、グレーゴルと毎日話しているのは、先生に言われたからなのだろうか。もし先生が、これ以上原口くんとはつるむなと言ったら、僕はあの教室に行かなくなるのだろうか。分からない。でも、今先生に言うべき言葉は決まっている。
「いいえ、原口くんと話すのは楽しいし、負担ではありません」
すると先生は、顔を少しほころばせて、良かった、とつぶやいた。
「ごめんな。先生変なこと言って。これからも原口と友達でいてくれ」
先生はそう言った。友達。僕は、その言葉に頷けなかった。今の僕にとって、彼はきっともっと絶対的な何かだ。
職員室を出て、僕は一度クラスの教室へ戻った。荷物を置いてきたのだ。廊下から教室の方を見ると、もう電気は消されているらしい。もうみんな帰ったのかな。そう思いながらドアを開ける。すると、教室の奥の方、僕の机の近くに誰かいることに気がついた。その人はこちらの方を見ているようだった。夕焼けの色がそれを照らしていた。
「し、島田くん」
「有栖さん」
有栖さんは驚いたような表情をしていた。もう誰もいないと思っていたら当然か。
「日直の仕事?」
「うん。もう終わったけれど」
「そっか」
それで会話は終わってしまった。有栖さんは教室を出ることはなく、そのままの場所に立ち止まっている。髪をいじったり、スカートの埃を払ったり。はてなと思ったけれど、僕はとりあえず荷物をまとめる。今日は遅れちゃったから、早めに準備室に行かないと。そう思ってリュックサックを背負い、ドアへと向かった。
「あの、さ」
背後から声がした。振り向くと、有栖さんがじっとこちらを見ていた。小学生のころから内向的だった彼女の大きな声を聞いたのは、初めてのように感じた。
「今から、原口くんのところに行くの?」
もうこんなに話が広まっているのだろうか。クラスのみんなは、特に気にしてるようでもなかったけれど。とりあえず、「うん」とだけ返す。
「そっか、島田くんは、やっぱりやさしいんだね」
彼女は、少しだけ震えた声でそう言った。窓からの夕焼けに照らされているからか、彼女の頬は紅く染まっていた。赤縁のめがねがよく似合っていた。有栖さんは少しの間固まっていたけれど、にわかに後ろのドアから立ち去ってしまった。
僕が社会科準備室に入ると、彼は文庫本から顔を上げた。そして栞を閉じると、「やあ、ムルソーくん。今日はもう来ないかと思ってたよ」とつぶやいた。僕はリュックサックを床に降ろしながら、「昨日、また明日って言ったでしょう」と返した。そして、手頃な椅子を引いて座る。この動作にもずいぶん慣れてきた。
「さて、今日はどんな話をしようか」
彼は普段通りの声音でそう言う。今日は、僕が訊きたいことがある。
「ねえ、僕は優しいのかな?」
僕は割と真剣な気持ちで訊ねたのに、彼はまたあの日のように声を上げて笑った。やっぱり君は良いね、とつぶやきながら。
「もしかして、ムルソーくん。君は自分が優しい人間だと思っているのか?」
「えっと、それはどういう」
「質問に答えろよ」
そう促されて、僕は軽く頷いた。思っているか思っていないかで考えたら、そう答えることになる。
「先生や、親や、周りの人に言われたから?」
「そう、なんだと思う」
すると、彼はにやり、と口元をゆがませた。さっきまでの笑みとは、違う種類のものだった。
「なら俺が教えてやるよ。君は優しい人間なんかじゃない。当たり前だ。君は優しい振りをして、無意識に、周りの人間を見下してるんだよ」
「どうして、そう思うの?」
震えた声が出た。こんなに直接、優しくないなんて言われたことは初めてだった。
「だって君は、俺のことをグレーゴルと呼ばないだろ」
彼はそう言った。僕のことを責めているようでもあったし、ただの世間話のようでもあった。返しに困っていると、窓から夕陽が差した。思わず目を細めると、熱を出した時みたいに視界がぼやけて見えた。
「今日も陽が落ちるね。また明日」
曖昧な視界の中で、彼が手を振っていた。
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