二
明くる日、ドアを開けた先の夕暮れにいたのは相変わらず彼だった。原口くん。あるいはグレーゴル。彼は前髪から覗かせた目でこちらを一瞥すると、少し意外そうな声音でつぶやいた。
「君、今日も来たのか」
「う、うん」
「どうして?」
「昨日、また来いって言われたから」
僕がそう言うと、彼は静かに本を閉じた。昨日みたいに大笑いはしなかったけれど、代わりに少し馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「君はもしかして、『行けたら行く』を本気で受け取るタイプかい?」
彼はそう言った。あまりよく意味が分からない。
「どういうこと?」
「たいしたことじゃないさ。つまらない冗談だよ」
僕にとっては何が冗談で、何がつまらないのかも分からない。自分が全く分からないことを相手が知っていて、それを教えてくれないのは少しむずがゆい。話題を逸らすように、僕は昨日から気になっていたことを口に出す。
「ねえ、君は原口くんなの?」
僕がそう言うと彼は少しだけ目を細めた。あまり良い表情ではなさそうだ。あるいは繊細なところに触れてしまったのかもしれない。
「昨日も言っただろう。俺はグレーゴル・ザムザだよ」
「でも上履きには『原口』って。先生も原口くんは社会科準備室にいるって言ってたし」
「それは名前だろ。名前と俺は別物だよ」
僕は口をつぐむ。また、上手く言い返せない。すると彼は、彼はさっきよりも落ち着いた口調で、まるで年下の子どもを相手にするように付け加える。
「たしかに、俺は原口として生まれたよ。そのままずっと生きてきた。だけど三年前、あの小説を読んで気づいたんだよ。俺はグレーゴルだって。境遇が似てるとか、そういう次元の話ではない。俺はグレーゴルその人なんだ。俺がそう信じているんだから、そうに違いない。君が君のことを、君自身だと信じて疑わないように。最初はみんな、俺の話を信じてくれたんだ。親も、先生も。でも次第に奴らは変身してしまった。俺のことを、グレーゴルだと信じてくれない人間に。変身したのは俺じゃない、周りの人間だ」
彼はこう言った。僕は彼の言うことがよく理解できなかった。だけど彼はそんな僕のことはあまり気にしていないらしい。思い出したかのように、別な質問を口にする。
「そういえば訊いてなかったな。君は誰だ?」
「島田、だよ」
「俺が訊きたいのはそうじゃないって分かるだろ?」
彼は少し意地悪にそう言う。彼の意図は分かる。だけどきっと、僕は彼のようにこの質問に対する答えを持ってはいなかった。僕はまたうつむいてしまう。
「分からないなら、これから俺と一緒に答えを探そう。君が一体誰なのかをさ」
その言葉に思わず顔を上げた。髪がかかった彼の目が見えた。
「どうやって?」
「たくさんのことを話すんだよ。一日じゃとても足りない。何日も、何週間も、俺と一緒にいろいろなことについて議論する。そうやって、君は君自身のあり方を自己内省するんだ。でもそのためには、君がここにくることが当たり前にならないといけない。だから俺が毎回、『また明日』って言ってやるよ。それだけを、君がここに来る理由にすればいい」
僕は彼の提案に、賛成も反対もしなかった。だけど「また明日」と言われたならば、この教室に来ない理由も見当たらなかった。僕は軽く頷く。彼は少し口元を微笑ませて続ける。
「ただ、そうだね、君が君を見つけるまでの間、呼ぶ名前がないのが面倒だ。だからとりあえず、君のことはムルソーと呼ぼう。授業後の、この教室の中だけ、君はムルソーという名前になる」
「なに、その名前?」
「ただのあだ名だよ。あだ名に深い意味はない」
彼はそう言うと、背後の窓を振り返った。夕焼けの色が深くなっていた。
「太陽がまぶしいね」
そしてこちらに向き直すと、軽く手を振って、「また明日」とつぶやいた。
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