あれから三年経った中学二年の放課後は、相変わらず夕暮れだった。でも、変わったこともある。僕はカットシャツの制服を着ているし、背負うのはランドセルではなくリュックサック。今日はまだ夏の初めで、透明な日差しが窓枠の形に切り取られて、少し傷のついた教室の机を照らしている。僕はほんの少しだけ大きくなった背中にリュックサックを背負いながら、今日は帰ってどうしようかと考えた。昨日は友達と図書館に遊びに行ったから、今日はきちんと家で勉強しようか。そう思っていると、ふと誰かが近づいてくることに気がついた。見ると担任の先生だ。少しよれたスーツの前に、数枚かのプリントを抱えている。先生は乾燥した唇を軽く微笑ませながら、「島田、ちょっといいか」と言った。僕は軽く頷く。怒られるような雰囲気ではなさそうだ。

「このあと少し時間あるか?申し訳ないんだけど、ひとつだけ頼みごとがあるんだ」

「はい。あります」

「よかった。実は保護者会のプリントを原口に届けてほしいんだよ。普段は先生が届けてるんだけど、今日はこのあとすぐに出張がある」

原口。その名前に少し引っかかった。原口くんは同じクラスで、もちろんこのクラスの誰しもが彼の名前を知っている。だけど彼の顔を見た人は誰ひとりいない。毎日学校には来ているらしいけれど、一回も教室には入っていない。いわゆる、保健室登校、と呼ばれるものだ。でもそれも正しい表現かは分からない。五月に一度、男子の何人かが保健室を覗きに行ったらしいけれど、彼はそこにはいなかったそうだ。結局、原口くんとはどんな人で、どこにいるのかは謎のままだった。

「原口はきっとまだ学校にいるよ。社会科準備室って分かるか?特別棟の二階の、社会科室の隣の教室。あいつはいつも、朝から日没までそこにいる」

ちっぽけな、だけど僕たちのクラスにとっては大きな謎の答えは、先生によってこんな簡単に明かされてしまった。

「どうして原口くんはそんなところにいるんですか?」

「よくわからん。まぁあいつは俺に説明してくれたんだけど、俺の口から説明しようとすると少し面倒だ。ともあれ、中学校の教師としては、学校のどこかにいてくれるだけでひとまずは目をつむってやってるんだよ。授業に来るよう説得に行くのが比較的楽だから」

先生は白髪の混じった髪を軽くかきながら、少し困ったように笑ってみせた。その動作だけで、先生の苦労みたいなものが察せられる。

「じゃあ、先生はもう出張に行くから。申し訳ないけどお願いな。よければ原口とも少し話してやってくれ」

先生はそう言うと、僕にプリントを託して行ってしまった。一応、はい、と返事したけれど聞こえてなかったかもしれない。僕は渡された書類をとんとん、と机の上で揃えてから、夕暮れの教室を後にした。


 放課後の校舎はもともと人気がないけれど、本校舎から少し離れた特別校舎に入るとすぐ、透明な静寂が僕の周りを包んだ。音の一つも聞こえない。世界が終わってしまったというよりは、世界が始まっていないみたいだ。自分の足音さえ大きく聞こえる廊下を歩くと、突き当たりの社会科室の手前、一つだけ扉のついた小さな部屋の前に辿り着いた。扉の上には、「社会科準備室」と書かれたプレート。きっとここに原口君がいる。何だかやけに緊張してしまって、無意味に襟を直したり、ズボンの埃を払ったりして時間を稼ぐ。だけどすぐに直す所なんてなくなってしまって、僕はようやくドアに手をかけた。白くて細い腕に力を込める。軽い音を立ててドアが引かれる。その音は、まるで生まれて初めて聞いた音であるかのように思われた。

 真っ先に目に入ったのは、ドアの真向かいにある一枚の窓。刻々とその色合いを変えた夕陽が差して、明かりのついていない準備室を淡く照らしていた。左手にも扉がある。社会科室に続いているのだろう。壁際にはびっしりと本棚が並んでいて、見るからに古そうな本が乱雑に並んでいる。ただ、それらのどれもこの教室の本質ではなかった。きっとこの教室の主人は、窓の手前にいる男子生徒。逆光でよく見えないけれど、制服のカットシャツがズボンから少しはみ出しているのがわかった。机に足を組んで座っていて、つま先で上履きをぷらぷらさせている。体型は中肉中背といった感じで、踊るような癖毛が顔に深く被っているのが目についた。彼は右手に文庫本を広げていたけれど、こちらに気がつくとぱたん、とそれを閉じてこちらを向いた。どちらも言葉を発さずに、数秒見つめ合っていた。

「原口くん?」

沈黙に耐えきれず、僕の口からその言葉がついて出た。彼は少しだけ目を細める。期待も失望もしていなさそうな、中立的な表情だった。

「違うよ、俺は原口じゃない。グレーゴルだ。グレーゴル・ザムザ。俺はあのときからずっと、気がかりな夢を見続けている」

彼はハスキーな声でそんな不可解なことを言った。彼はどう見ても日本人だし、そもそもこの学校にはそんな名前の人はいなかったはずだ。でも、彼が告げたその名前と、最後に言った一節には聞き覚えがあった。

「『変身』?」

僕がそうつぶやくと、彼は少し目を見開いた。彼の表情が、少しだけ意味を帯びた。

「そう、俺はあの小説のグレーゴルだよ。俺は巨大な毒虫ではない。外交販売員としての記憶も持っていない。でも俺はグレーゴルだ」

「そんなことありえるの?」

「ありえるに決まっている。十年前の自分の写真を見てみろよ。その時の自分と、どれだけ同じ体細胞を持っている?その時の記憶を、どれだけ正確に覚えている?十年前と同じ人間である根拠なんて、君が君だと思っていることだけだろ。それと、俺が自分をグレーゴルだと思っていることに何の違いがあるっていうんだ」

僕は押し黙ってしまう。あんまり納得できないけれど、うまく言い返せない。何となくばつが悪くて、うつむいてしまった。

「君、本が好きなのか?」

すると、彼がそうつぶやいた。彼の方を見ると、片手に持った文庫本を軽く持ち上げていた。

「うん、好き、なんだと思う」

「だろうね。同じ世代で、『変身』を読んだことがあるのは君以外見たことがない。みんなスマホにかじりついて、数分程度の娯楽にばかり夢中になっている。君はどんな本が好きなんだ?」

彼は身を乗り出して訊ねてきた。その雰囲気は、好きなアイドルやアニメのキャラを訊ね合うクラスメイトに少し似ていた。僕は興味津々な彼の質問に答えようと口を開いたけれど、うまく言葉が出てこなかった。僕はどんな本が好きなのだろう。半分開いた口をまた閉じて、考え込んでしまう。

「じゃあ質問を変えよう。君はどうして本が好きなんだろう?」

押し黙ってしまった僕を見かねたのだろうか、質問を変えてくれた。さっきまでは答えが出てこなかったけれど、この質問にははっきりと納得できるような答えが心の内を占めた。

「本が好きだと言われたから」

「え?」

「小学生の頃、先生が言ってたんだよ。本を読むのは良いことなので皆さん本を読みましょう、って。だから図書館で本を借りてきて、毎日家で本を読む習慣をつけたんだ。そしたらそれを見たお母さんが、あなたは本が好きなのね、って。だから僕は、本が好きなんだと思う」

目の前の彼はぽかん、とこちらをみていたけれど、数秒の後、大きく口を開けて笑い出した。特に変なことを言ったわけでもないのに、何だか恥ずかしくなる。

「そんなに僕、面白いこと言ったかな」

「面白いよ。とても面白い。君があまりにもつまらないことを言うものだから。でもそのあり方があまりにも極端なのが良い。極端なものは何だって面白いよ」

一応褒めているつもりなのだろうけど、あまり褒められている感じはしない。彼はひとしきり笑って満足したのか、指先で涙を拭ってこちらを向き直した。

「本当はもっと君の話を聞きたいけれど、もうすぐ陽が暮れてしまう。そのプリントを持ってきてくれたんだろ?預かるよ」

彼は机から立ち上がって、僕が持っていたプリントを手に取った。書かれている文字を一瞥してから、軽く息を吐いて、捨てるようにプリントを机に置いた。

「また来いよ」

そう言って彼は手を振った。窓から差した西陽によって、彼の上履きに書かれた「原口」の文字が照らされていた。

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