第3話 愛玩動物としてではなく

 タロウと人間の初めての邂逅から3日が経った。


「きょうも、大漁だった」


 田んぼの畦道をタロウがてちてちと歩いている。

 意外に図太いのか、あれ以来もはや人目を避けるような事もなく、連日節子の田んぼに通ってはザリガニを捕らせてもらっている。

 そして今日も言葉のとおり、右腕に提げたビニール袋にはたくさんのアメリカザリガニが蠢く。

 だというのに、その表情は言葉と成果とは裏腹に、苦々し気な、趣のある顔つきをしていた。


 河童にとって良質な栄養食であるアメリカザリガニだが、やはり独特の泥臭さがあり、連日三食続けば早々に飽きが来てしまっていた。

 とくに河童は泥抜きや背わたを取ったりという下処理の文化がない野性味溢れる丸齧りスタイルであるからして、それは顕著だった。

 贅沢を言える身の上でないことはタロウも重々承知しているが、体が受け付けないものはしょうがない。

 妹のハナコも優しいので口に出すことはないが、またザリガニか……という落胆をそろそろ取り繕えなくなってきている。

 幼い身で不満の一つも溢さず、気丈に兄への気遣いを見せようとする姿が、逆にタロウを苛んでいた。


 また、栄養の偏りも気になった。

 『生物の成長は摂取した必須栄養素のうち最少のものに依存する』というドベネックの桶の概念は河童にも適用される。

 タロウにそういった栄養学の知識があるわけではないが、ほぼほぼザリガニしか食べていないのはちょっとマズイのではないかという本能的な懸念はあった。

 一度運良くツチガエルを捕られた事はあったが、その時は掴んだ瞬間強い臭みを放ってきたので逃がしている。

 結局、タロウに手に出来る食事と言えばザリガニを除けばタンポポやヨモギ、シロツメクサといった微かに知識としてある食べられる野草くらいで、二重の意味で苦い思いをしながら日々を生きているというのが現状だった。


「お皿が、ひりひりする」


 ストレスからお皿の乾きも速くなっている。

 稲を踏み倒さないように気をつけながら水田に入り、お皿を潤すためタロウはその場で一点倒立の形をとる。

 腕を精一杯伸ばしても額までしか届かないため、こうするのが一番楽なのだ。ゆるキャラ体型の辛いところだった。

 泥濘ぬかるみがタロウのお皿を包んで渇きを癒す。

 気持ちがだんだん落ち着いて息をつく。

 360°サラウンドでゲコゲコ鳴り響くカエルの合唱に耳を傾けながら、タロウはゆっくり瞳を閉じた。



「また刺さってる……」


 節子が小さな戸惑いの声をあげた。

 田んぼの見廻りをして、泥濘に頭から嵌まったタロウに声をかけ、少し雑談してからさよならする。そういう一連のルーティンが意図せず近頃の節子の日課となりつつあった。


 このスケ〇ヨさんごっこについては、恐らく河童特有の信仰から来る儀式めいた何かであろうと節子は当たりをつけているが、詳細は知らない。

 十分に親交を深められていない相手に宗教と政治の話はしないというのが節子の考え方であったし、ゆるい外見のタロウから何か妖怪らしい、闇の深い理由が飛び出してきたら嫌だなと思って聞けなかったというのもある。


 タロウとの雑談は主にその食性についての事が多かった。

 当初はゼンマイの件を謝罪し、何か食べたいものがあればそれを用意するつもりだったのだが、それはタロウに断られてしまっている。

 これ以上貰ってばかりでは受けた恩を返せそうにないという趣旨の内容を、たどたどしくも強い意志を感じさせる目でタロウは語った。

 なので給餌はもう行っていない。

 節子もタロウに餌付けすることで、へりくだった態度を取られたり、負い目を感じさせたりという関係になることは望んでいなかった。

 本人が気にしてしまうと言うならやらない。

 困っていたら助けようと思うが、節子もできれば余計な貸し借りの介在しないフラットな関係でありたい。──そう考えたところで、自分はアレと友人にでも成りたいのかと上下逆さまにひっくり返ったタロウを見て苦笑した。


 だからその日、住宅地へ一直線に伸びた舗道の遠くから、よく見知った2つの顔がこちらに向かってくるのを目に止めた時、あの不憫な父娘にとっても、この出会いがそういうものであって欲しいと老婆は少しだけ期待した。


 色々あって先日東京からこちらに帰郷してきたその男──節子の倅は、散歩がてら、ここからあそこまでがお婆ちゃんの畑だとか、関東ロームの火山灰土壌がうんぬんとか、そろそろイバラキングというメロンの時期でこれが美味しいんだとか、そういった事を長々と娘に語っていた。

 けれど娘の方はそれらにはあまり興味が無いようで、用水路を覗き込んだり、何か生き物を見つけてはアレは何かと父親に質問していた。


「たぶん、クチボソかフナだね。パパも子供の頃よく捕まえたりしてたよ」

「へえー、じゃあアレは?」

「ヒバリだね。可愛いよね」


 父親の言葉に娘がこくんと頷く。昔から何かと生き物が好きな娘だった。

 それからまた辺りを見回し、前方を見て、祖母の隣に、保護色になっていて分かり辛いが、何か鶯色の物体が鎮座しているのを目に留めた。


「ねえパパ、あれは何?」

「あれはね、……あれは、うーん……」


 何だろう、困った。それまで娘からの質問に淀みなく答えていた父親が、初めて言葉を詰まらせた。

 田んぼの端、畔と苗の隙間に、奇妙な緑色の生物らしきものの胴から下がにょっきり生えている。

 そんなことは子供の頃、20年近くこの土地で暮らしてきた男にとっても初めての経験だった。


 恐る恐るといった様子で近づき、上から覗き込む。

 呼吸をしているようで、微かに胸の当たりが上下しているのが確認できた。


「お婆ちゃん、これ何?」

「……あー、野生のゆるキャラ?」


 娘の質問に、節子が首を捻りながら答えた。

 大分言葉を交わすようになっているが、節子自身も改めてこれが何かと聞かれれば、未だによく分からないというのが正直なところだった。

 たぶん河童であるにはあるんだろうが、何でこんな姿形なのか、何で野生動物のくせにこんな無防備なのか、何で田んぼに刺さっているのか、知らないことだらけなのだ。


 老婆の返答に、暫時父娘はぽかんとした後、このかつて見たことのない奇妙な生物を見つめ、


「……へえー」と揃って間抜けな声をあげた。

 

 茨城くらい自然の多い田舎だと野生のゆるキャラとかいるんだ……。そんな事を考えながら虚空を見つめた。

 まあ、ねば~る君とかもそうか。いや、あれは野生とかではなく単に非公認なだけか。そもそも野生のゆるキャラってなんだ。──そんな物思いにふけるうち、人の気配に反応したのか当の生物がもぞりと動いた。


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