第2話 茨城には河童がいるー2

「タロウは、かってに人間さんの、田んぼに入って、ザリガニを、とってました。ごめんなさい」

「そうなの?……それはどうも、ありがとう?」


 息苦しい沈黙の均衡を先に破ったのはタロウのほうだった。

 お皿を苛む罪悪感が、頻りに早く謝って楽になれと訴えているように感じられた。


 ただ、タロウにとっては死を覚悟した謝罪だったが、節子にはまるでボランティアの報告か何かのように受け取られた。

 そもそもタロウにとっては貴重な食材に思われたアメリカザリガニだが、農家にとっては畦に穴を開け、稲の根を切る害虫である。

 見たところ苗を踏み荒らされた形跡も無く、感謝こそすれ怒る理由など何も無かったし、それ以前にタロウの存在そのものが気になり過ぎてそれどころでは無かった。

 

 それからしばらく一人と一匹の噛み合わない会話は続けられた。

 タロウが人の領域で勝手にザリガニを捕ったことを謝罪し、節子が構わない、むしろありがたいと感謝を告げる。

 要約すればたったそれだけの事だったが、お互いがお互いの言い分を了解し、少し打ち解けた頃には、頭上にあった日がすっかり傾き、水面がオレンジ色に染まっていた。

 ザリガニの臭いも強くなってきていた。


「じゃあ、これは、持ってかえっても、いいやつ?」

「良いけど本当に食べるんか?それ……」


 未だビニール袋でガサガサと蠢くザリガニたちを覗き込んで、節子がひえっと声を上げた。


「おいしいよ?」

「そうなんだ……」

「食べる?」

「いらんいらんいらん」


 タロウがザリガニを掴んで差し出そうとすると、節子が老婆らしからぬ機敏さでぶんぶんと首を振った。


「むしろこっちがお礼しないといけない側だから。そういうアレだから」


 そう言ってポンと手を打ち、「そう言えば……」とここに来るまでに採取したゼンマイをタロウにかざした。


「持って帰り。本当に助かるから」


 有無を言わさずタロウの持つビニール袋にそれを放り込んで、節子はニカッと笑った。


「はわわ」


 タロウは胸の内にじんわりと何か温かいものが広がるのを感じた。

 タロウの中にあった人間への恐れはいつの間にか氷解していた。

 恐れていた人間が、こんなに親切だなんて想像だにしなかった。

 先の見えない生活を強いられる中で、分け与えられる食糧は命そのものに等しい。

 袋の中のくるくる巻いた謎の植物が、味も分からないのに、かけがえのない宝物のように感じられた。


「ちょっと、泣きそう。ふえぇ……ふええ……」

「泣き方……」


 節子が苦笑しながらタロウの頭をぽんぽんと撫でた。

 その手がタロウが今まで触れたどの物より温かくて、それだけでも人間に対する親愛の情を抱かせるには十分だった。

 或いはそれは恒温動物と変温動物の違いによるものでしかなかったかもしれないが、タロウにとってはそれが事実だった。


「このごおんは、いつか、必ず……!」

「別に返さなくて良いから」


 節子が軽く手を振ると、タロウは深く深く頭を下げ、それからまたてちてちと帰路を歩みだした。

 節子は、何度も此方を振り返りながらバイバイと短い手を振るタロウをぼんやり見送りながら、少しほっこりした後、よく今まであんな間の抜けた生き物が自然界で生き残ってこれたものだと苦笑した。


 そうして薄暮の暗がりが辺りを包むのを認め、タロウの姿も小さくなり、自身も夕飯の準備など思案しつつ帰路に着こうとしたところで。


「あ゛」と何かに気付いて声をあげた。


「まずいまずいまずい」


 とんでもない重大なミスを犯してしまったというように、猛然と踵を返し、タロウの後を追いかける。

 そして今にも川に入ろうとしているタロウを認めると、慌てて声を張り上げた。


「待って!待って!!マズイ!ホントに!不味いから!!!」


 対するタロウは節子の声には気付いたものの、その内容までは聞き取れなかったようだった。

 何を勘違いしたのか嬉しそうに目を細めてブンブンと手を振り、そのままとぷんと沈んで川面に消えた。

 あとには川のせせらぎだけが残り、浮かんでは来なかった。

 大人の河童なら手を振りつつ流れに逆らって水面を泳ぐことも可能だが、造波抵抗の関係からタロウのような子供には難しかったためだ。


「ああ……」


 節子はガックリと肩を落とした。

 河童が田んぼに突き刺さっていたという状況からの非日常の連続に、正常な判断が行えていなかった。

 最終的に何だか打ち解けていたことで、友人や親戚に手渡すくらいの気安さでタロウにゼンマイを持たせてしまった事を節子は深く後悔した。

 タロウに渡したのはその日取って来たばかりの新鮮なゼンマイだった。あく抜きしていないゼンマイなど、自然界でも殆ど食べるものがいないくらい、えぐ味が強すぎて食えたものではないのだ。

 あの河童が重曹や熱湯を用いて野草の下処理をしている姿など、節子には到底想像できなかった。


「悪いことをしてしまった……」


 死ぬことは無いだろうが、もう二度と人間には関わろうとしないだろう。

 野生生物としてはそれで大正解なのだが、節子は沈鬱な気持ちになった。

 それからしばらく川辺を捜索したが、結局節子がタロウを見つけることは出来なかった。





 そしてその日の宵、タロウの棲み家にて。


「い゛い゛い゛い゛ぃい゛ぃい゛い゛い゛い゛い゛」

「おにいちゃん!!??」


 生のゼンマイに齧りついたタロウが苦悶の表情でのたうち、その周囲を妹のハナコが右往左往していた。

 

「かばっぼ!ぼぼっ!ぼぼぼぼぼぼぼ」

「ふええ……」


 目を白黒させながら水を求めて川に飛び込み、大口を開けてこれを飲み込む。

 尋常ではない兄の様子にハナコは涙目になりながら、ただその様子を眺めている事しかできなかった。


 どれくらいそうしていたか、ようやくタロウが息を整え、川岸から這い出てへたりこむ。

 ハナコがぽてぽてと駆け寄り、心配そうに甲羅をさすった。


「だいじょーぶ?」

「……すごく、すごく、苦かった。たぶん、これは大人の味」

「はええ」


 否、ただの灰汁である。より正確には、渋み成分のタンニンやチアミナーゼといった酵素のえぐ味だった。


「タロウには、まだちょっと、早かったかもしれない」

「そうなんだ」


 タロウは人間の悪意を一切疑うことはなかった。

 今日のあれだけのやり取りで、タロウに人間に対する信頼は既にカンストしてしまっており、驚くべき事に今の事態をもってしてもそこにヒビ一つ入ることはなかった。


「これは、今度、ごめんなさいって言って、返してきます」

「そうだね」


 当然のように明日も人里に向かうつもりだった。

 ザリガニを食みつつ、今日あったことを妹に語って聞かせ、2匹仲良く眠りに落ちる。

 灌木の隙間から覗く満天の星空。

 ひどい目にあったというのに、その日タロウは久しぶりにぐっすり眠る事ができた。





今日の成果

・アメリカザリガニ×8匹

・ゼンマイ(食べられない)

・セイヨウタンポポ×2輪

・水田での採取の許可



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る