第2話 ビードロの音色

 コツコツと、ブーツの足音にあわせて、手毬の袴がひらめきます。

 そんな、燃えるような夕暮れのことでした。


 ポッ、ペン。ポッ、ペン。


 魔女がやってきたのは、『官立東京高等男学校』です。


 多くの学生が行き交うなか、正門にもたれ、奇怪な音をひびかせる男子学生に目をひかれます。

 詰め襟のシャツに袴、学帽をかぶった繊細な顔だち。

 その手には、ちいさなフラスコのような薄い青色の硝子細工がにぎられています。ビードロという舶来はくらいの民芸品です。


 ポッ、ペン。ポッ、ペン。


 ビードロに息を吹き込み、ヘンテコな音を真顔で鳴らし続ける男子学生の様子は、異様なものでした。もはや呪いのたぐいです。


 魔女はため息をついて、コツリとブーツの底を打ち鳴らしました。


「……魔女さん!」


 地面だか虚空だかを見つめていた男子学生は、一変。

 視界にうつり込んだ手毬袴すがたの女性を、たちまちに世界の中心にして、風のように駆けてくるのでした。

 のおむかえは、毎日ひと苦労です。



 魔女が住んでいるのは、東京府、浅草。

 同居人である黒髪に黒い瞳の彼は、名前をいちといいます。

「魔女さんのいちばんでいたいから」という、本人の希望によるものです。

 彼はほんとうの名前を、あの雨の夜においてきてしまいました。


「かつて異国では、『魔女狩り』という、おそろしい運動がありました」

「命からがら逃げてきた魔女たちは、海をこえ、遠い島国へやってきます。当時のもとは、江戸幕府のおさめる時代でした」

「そのとき、男ばかりが死んでしまう謎のはやり病に、民草は苦しめられていました」

「ですが、そんな彼らに魔女たちは手をさしのべ、苦しむひとびとを救います」

「そしてわが国は、黒髪に蒼い瞳をもつ彼女らをあがめ、男子社会から女子社会へと変わっていったのです──そうでしょ?」


 おとぎ話でもきかせるように語っていた壱が、最後にいたずらっぽい笑みを浮かべます。


「魔女さんをいちばん理解してるのは、僕だからね」


 壱は胸をはります。

 だけれども、魔女が壱の名前を呼ぶことはありません。

 魔女は、言葉をしゃべることができないからです。

 言葉が通じないのではなく、そもそも、声を出せないのです。

 正しくは、出せなくなりました。


 そのことを、壱は知りません。

 魔女が口をきいてくれないのは、意地をはっているからだと思いこんでいます。

 だから魔女に名前を呼んでもらうため、ふり向いてもらうために、きょうもはりきっているのです。


「夕ごはんはなんにしようか」

「魔女さんの好きなライスカレーにする?」


 出会いから十年。壱は、賢くて器用な十八歳の美青年へと成長したのでした。

 ふたり影を並べて帰る夕暮れは、いつも壱の声だけがひびいています。



  *  *  *



 三百年も生きていると、さすがに疲れてしまいます。

 あー、しんどいなぁとぼんやり思っていた雨の日、壱と出会いました。


 ──しめた、と魔女はほくそ笑みました。


 いたいけなこどもを無理やり誘拐したなら、警官が家に押しかけてきて、逮捕してくれるにちがいないからです。

 うまくいけば、死刑になるかもしれない!


 そう考えた魔女は、路地裏にいたうす汚い男の子を、無理やり連れて帰りました。

 ただ、全身に痣をつくって、おなかもひどく空かせていたようなので、その夜だけは特別に、風呂に入れてやって、傷の手当をして、おかゆを食べさせて、寝台ベッドに寝かしつけてやりました。


 結論からいいますと、翌日も、その翌日も、警官がたずねてくることはありませんでした。


 どうやら男の子は孤児で、夜間営業のお茶屋さんに売られていたようです。そこから、逃げ出してきたのだとか。

 もし戻れば、口にするのもはばかられる『あんなことやこんなこと』を、強要されることになります。


「いやだよ! ぼく、かえりたくない!」


 なので、男の子は断固として魔女にしがみつき、はなれようとしませんでした。


「あなたがひろったんですから、あなたが世話をなさい」


 とほうに暮れて日本魔女協会に駆け込みましたが、そのひと言でバッサリ切られてしまいました。正論です。

 というわけで、悪事をもくろんだ魔女と、少年・壱の奇妙な生活は、はじまりました。


 ──ていうか、いつの間になついたのよ!


 壱が子猫のごとく甘えてくるわけを、魔女は激しく理解できません。

 頭はよかったのですが、肝心なところで抜けている、ぽんこつなのでした。


「どうせならいっそ、ほんとうに黒猫になる魔法をかけてよ」

「そうしたら、あなたのそばにずっといて、はなれないのに」


 壱も壱でした。

 彼は学校の成績でもいちばんを取るほど頭がよかったのですが、魔女のことになると、とたんにまわりが見えなくなってしまうのです。


 夜毎寝床に壱が忍び込んでも、魔女は軽くなだめるだけで、すぐに寝てしまいます。

 何百年も生きる魔女にとって、壱は赤ん坊のような存在なのでした。


「ねぇ、魔女さん」

「いつになったら、僕のこと見てくれるの?」

「あなたは名前を教えてくれないし、呼んでもくれない」

「それなのに、どうして僕を助けてくれたの?」

「愛情を注ぐだけ注いで、受け取ってはくれないの?」

「……ひどいよ」

「僕ばっかり、こんな気持ちで……ずるいよ」


 夜に消え入る壱のこころを、魔女は知りません。

 そして壱も、魔女のこころがわかりませんでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る