第4話 前触れ

「なんでこうなったんだ!」


 こんな馬鹿なことがあるか。前線は軽々突破され、無線電波にのって最後に送られてきた指示は、大将首を討ち取れだと?


 相手はイントラキラル・ハウスの強者であるアリス・クライブ。組織幹部の一人である。


「決めた。撤退だ、後衛に合流して」

「——そこの人間。情けない面の割には、なかなかの魔力だな」


 冷たい声音に白い長髪、切れ長な目、そして後方へ流れるように曲った角。魔族であり、そしてどうだあの魔力の迸りは。


「……すいません! 失礼します!」


 踵を返して逃げ出すと、その進行方向上にいくつもの岩壁が迫り上がった。土属性の魔法で、それが彼女の代名詞でもある。


識別名・未踏峰コード・ザ・アンノウンの、アリス・クライブ、さん?」

「ここで自己紹介か? 冗談のような女だな。まあいい、どれ、名を聞いてやろう」


 戦いたくない。それ以前に、戦えない。何せ現在、ライセンスを紛失中なのだから。

 周囲に飛ぶ火炎や雷撃、拳や刀剣槍戟に恐怖しつつ、その上相手は未踏峰? 冗談にもならない。危機的状況なんてレベルじゃない、絶体絶命だ。


「あー、本当に悪いんだけど、また後で!」

「逃さん!」


 絶望的な逃避行はこうして始まった。なぜこうなったかなんて考えたくもないけど、それをしなければこの嘔吐寸前の緊張を紛らわせる方法がなかった。





 私たちが大神信奉を訪れてから、一週間ほど経ったある日、その代表である津同さんに呼び出された。事務所までの迎えをよこし、その大型バンにはこれでもかと魔法に対する障壁と物理的な外壁の厚さがあって、これだけでも急を要する事態になったことがわかる。

 案内され、彼から話を聞くに、浮き足立った傭兵が小競り合いを起こし、お互いに負傷者を出したらしい。

 社長は規定の金額に色をつけてもらおうと日々野さんと画策し、それを成すために矢面へ出た。


「うちとしてはもう少し準備したかったんだが、そうも言っていられなくなった。鉄火場が近い、用心だけはしておいてくれ」

「まさかここに寝泊りしろだなんて言わないでしょうね」

「ここじゃ気が休まらねえだろ。うちの物件なんかどうだ?」

「どこよ、それ」

「奴さんの弐町支部の目の前、その距離なんと二百メートル」

「冗談でしょ」


 ところが、冗談ではなかった。津同さんの目は真剣そのもので、社長はうんざりしたようにため息をついた。


「近いうちに花火が上がる、どでかい真っ赤なやつがな。そうなったとき、お前らには最前線にいてもらわなきゃ困るんだ。なぜって、ただ働きじゃねえからよ。他の連中の倍以上払ってんだし、見張りと警戒、情報伝達、それと戦闘、全部こなしてもらうぜ」

「青ちゃん、あんたががめついからよ」

「あらあら、随分なことを言うのね。ここでおっぱじめましょうか?」


 仲裁に入ったのは津同さんで、喧嘩するなよと頭をかいた。この緊張感のかけらもない二人には私も呆れるしかない。


「しばらくの間、そこが詰所になる。警戒は怠るなよ」

「ぐぬぬ。追加報酬——」

「あるわけねえだろ。ただし、あいつらを追い払ったら考える」

「青ちゃん」

「はいはい。じゃあここにサインを」

「面倒だな。日々野、口約束じゃ駄目か」

「それでもいいですけど、書類これがあった方がお互い気楽じゃないですか」


 そんなもんかなと津同さんは呆れている。かなり切羽詰まった状況のはずだけど、私を除いた全員が気楽そうだった。


「地図ないのか。地図」


 レイさんが銀城さんの袖をちょんちょんと引いた。彼女にはこういう可愛らしいところがある。


「車のダッシュボードにあるけど、ほら、前にあんたが駐車場で転んだコンビニ。あそこの近くだよ」

「あー、あったわね、そんなこと。何もないところで転ぶんだもの。驚いたわ」

「レイちゃんって危なっかしいところあるよね」

「寝不足だったんだ。時雨、こいつらのいうことは信じないように」


 呑気かますのもいいけど、見なよ津同さんを。きっと呆れているはず……ちくしょう、笑ってら。




 大神信奉第二ビルが、私たちのしばらくの住処となった。地上四階建ての古びた建物で、どの部屋も倉庫に割り当てられ武器が積まれ、残った小さな居住スペースで雑魚寝することになっている。

 屋上に出てみるとイントラキラル・ハウスの社屋が見えた。


「こっちから見えるってことは、あっちからも見られるのよねえ」


 日々野さんは双眼鏡を覗きながら煎餅をかじった。銀城さんが近くのスーパーに買い出しにいったのだが、帰ってくるとすでに部屋で寝てしまった。お菓子とかおにぎりなんかをそれぞれほうばりながら、屋上での作戦会議である。


「あの団体の、私たちが殺り合うあいつらの正規名称、知ってるか?」


 レイさんが梅干しの種を上品に吐き出し、ティッシュにくるんだ。がさつな戦闘スタイルという印象が強いが、この人は大抵のことを優雅にこなす。


「『日の陰りダスク・エイジ』っていって、イントラキラル・ハウスの二次団体なんだよ」

「へえ。じゃあ、そんなに強くないの?」


 嘲笑といっていい笑声が静かに三つ響いた。


「姫昏さん、それはちょっと舐めすぎね」

「そんなわけないっしょ。相手は魔族の集団だよ? それだけでもやばいわよ」


 レイさんはそのことを、同胞なだけによく知っているのだろう。切れ長の目をわずかに伏せ、静かに言った。


「魔族っていうのは人間ヒューマンのうちだけど、それは見た目だけだよ。中身はあんまり、綺麗じゃない」


 茶化すことが生きがいのようなライズ・ファームの社長と経理が、どういうわけか双眼鏡を一心に覗いている。私だけがその冷たさに向き合っていた。


「あー……それを否定するのも認めるのも簡単だよ? でも、十人十色だ。私の友達にも魔族はいるけど、いい人もいればそうじゃないのもいる」

「レイちゃんはどっちだと思う?」


 社長はこれを好機とみて、雰囲気を柔らかくするためか話に混ざってきた。しかし、どう答えればいいものか。


「そりゃあ、ねえ? わかるっしょ、日々野さん」


 即答できず話をふった。いい人ではあるけど、私を車から放り投げるような人はまともではない。


「もちろん。レイは極悪人なのよ。魔界で大暴れして拘束刑を受けて、手枷足枷の状態で人界まで来たんだから」

「驚きの新事実なんだけど、本当なの?」

「まあね。それで社長に拾ってもらったんだ」

「わーお。変なこと聞いてごめんね」


 レイさんは手をひらひらと振って、つまりは、と腰をあげた。


「侮るなってことだ。戦闘部が一人起きていればいいだろうから、先に寝ておくよ」


 あ、私のことか。違うといったところで無意味だろうし、このちょっとしんみりした雰囲気で断るのも気が引ける。黙っていると本当にそうなりそうで怖いけど、この人たちはもうそうやって私を見ているから、それこそ意味がない。


「オッケー。あ、レイちゃんさあ、ダスク・エイジの有名人、知ってる?」

「アリス・クライブ。イントラキラルの幹部で、ダスク・エイジの代表補佐。詳しくはホームページを」


 レイさんが階下に降りてから、社長は双眼鏡から顔を離した。


「詳細があればききたかったのに、ホームページときたか」

「私が調べておくわ。何かあったら社長は風子と一緒に行動すること。危なくなったら津同さんのところまで逃げてね」

「あんたは?」

「決まってるじゃない。もう今から拳が疼くのよ。込み上げてくる戦闘欲求で溺れそう」

「ダメだって。日々野さん、戦えないでしょ」

「はあ? 冗談でしょ姫昏ちゃん。私はね、日々野流喧嘩術の達人よ?」

「何それ」

「青がお父さんに教わった秘伝らしいわよ。詳しくは知らない。見たことないし」


 ハッタリだろう。口ばかりですぐ手が出るということもないし、何をするにもお金を優先させる人だ。自分の手を汚すことはあっても、それは物理的なことじゃないはず。


「だって戦闘員が二人じゃきついでしょ」

「三人になったところで変わらないって。レイさんに任せなよ」

「姫昏ちゃんもいるし、青、あんたも私と後方待機よ」

「ええー、だってぇ」

「気色悪い声を出さないでよ。戦闘部にどんと任せてさ、大船に乗ったつもりでいて」


 すると彼女は「あら、それじゃあよろしくね」とあっさり掌を返した。なるほど、戦うのを嫌がる私から言質をとったわけだ。


「卑怯。あまりにも卑怯。日々野流だね」

「なんのことか青わかんなぁい」

「アッハッハ! 青、青、きついってば! あんた二十」

「——十六歳よ。履歴書にもそう書いてあるわ」


 日々野流大法螺おおぼらの術だ。人心を狂わせ煙に巻く忍者だ。その日々野流忍者の慧眼は、双眼鏡などなくとも発揮されるようで、


「あ、誰か出てきたみたい」


 と、日暮れになって、寝室の窓からそれを目撃した。寝室といっても十二畳のワンルームで、そこに寝袋や毛布を運び入れ、屋上に誰を見張りに残すかじゃんけんで決めようかという時である。

 夜目のきくレイさんが窓から身を乗り出し、それを認めた。


「武器の搬入っぽいな。大型トラックが二台と、装甲車が四台。やばいな、まじの市街戦になりそうだ」

「青ちゃんは津同さんに連絡。レイちゃんは見張りを継続して、兵隊が出てくるようならすぐに報告」

「社長、私は?」

「あんたは車の鍵を握ったまま寝なさい」


 レイさんが見張りをするので、私はそのまま眠った。すぐそこが戦地になるかもしれないという緊張はあったが、体が睡眠を求めている。頭が重くなって眠りに落ちるまでそう時間はかからなかった。

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