第22話「死の空間」

 視界を埋め尽くす青と白。

 空と、雲の色だ。

 見慣れているはずなのに、受ける印象はまるで違った。


 青々とした空は地上で見るよりも色が濃くなっており、まるで海を逆さまに見ているかのよう。

 眼下に広がる雲は分厚く、まるで白い大地が突然現れたかのように錯覚する。


 真っ青な空には巨大な『光』が浮かんでいた。

 たった一つですべての地上を照らす太陽だ。


「……」


 青と白。

 僅かに切れた雲の隙間から、緑鮮やかな大地や海がわずかに顔を覗かせる程度。

 死の空間に存在する色はたったそれだけだ。


 それだけなのに――これまで見てきたどんな景色よりも、美しいと思った。


 俺は息をすることも忘れ、ずっとこの絶景を眺めていた。

 が。


「うお!?」


 突然、横殴りに吹いてきた突風に身体がよろけた。

 体重を支えようと突き出した足が、虚しく宙を蹴る。


「エルバさん」

「っ、すまない、助かった」


 足を踏み外しかけた俺を、リーフがロープで引っ張ってくれる。

 危なかった。


 今、俺たちが立っている場所以外はほとんど引っかかりのない垂直の崖だ。

 足を踏み外せば、岩肌に身体を削られながら地上まで落ちることになる。


「もう戻りますか?」

「……いや、ここで描く」


 当初の予定では風景をしっかり目に焼き付け、降りてから描くつもりだった。

 しかし記憶からこの風景を再現する自信が無かった。

 この場でしか感じ取れない『何か』。

 降りてしまえば、それは絵の中に宿らなくなる。


 そう判断した俺はその場に座り、スケッチブックを広げた。

 ペンを手に取り、風景の外観を下書きする。


 あらかた下書きを終えてから全体を俯瞰し……違和感を覚える。


「エルバさん、どうかしたんですか?」

「何かこう……違うんだ」


 このまま仕上げても良い絵にはならない。

 上手くは言えないが、確信があった。

 もっとちゃんと見ろ、と、俺の中で誰かが叫んでいる。


 俺は顎に手を当て、改めてスケッチブックに映した景色と本物を見比べる。


(何だ……何が足りていないんだ?)


 デッサンは正確にできている。

 ドラゴンの鱗のおかげで、極限の環境下でも指先が震えることもない。

 俺は安全な位置から〝精霊の霊峰〟を見ることができている。


(安全……?)


 ドラゴンの、鱗。


「そうか、分かった」


 俺は懐からドラゴンの鱗を取り出し、それをリーフに差し出した。


「これ、預かっていてくれないか」

「え? でも、これって」

「いいから」


 ドラゴンの鱗を身から離すと、一瞬で視界が明滅した。

 耳、鼻、指――身体の末端が寒いという感覚を通り超えて痛みを訴えてくる。


 そりゃそうだ。

 極限の環境下で、身を守る鎧を自ら脱ぎ捨てたのだから。


 しかし俺は、心の中で確信を得ていた。


(これだ)


 俺の絵に足りなかったのは、これだ!


 布越しではなく、自分の肌で実際にこの空間に充満する『死』を感じ取る。

 万物を照らす太陽と、生きとし生けるものを育む大地。

 二つの生の狭間にある死の空間。


「この空気に触れてこと、だ……!」


 これこそが〝精霊の霊峰〟なのだ。



 ▼


 俺は一心不乱にペンを走らせる……が。


 死の空間は、あらゆる生の存在を許さない。

 リーフのような例外以外は、ものの数分ともたないだろう。

 もちろん俺は例外ではない。


 ペンを持つ手の感覚が消えた。

 耳や鼻、足の指先から痛みが消えた。

 ひっくり返った鼓膜から音が消えた。

 カラカラに乾いた視界から、色が消えた。


「……」


 俺は座った姿勢のまま、生を蝕まれた。




























「エルバさん」


 不意に、聞こえないはずの鼓膜が音を拾った。

 鈴の音が鳴るような、聞くだけで心が安らぐ優しい声だ。

 感覚が復活し、背中に温かいものを感じた。

 背中と同時に、唇に何かが触れていることに気が付いた。


 リーフの、指だ。

 側面の皮膚が破け、そこから色のない液体が染み出ている。

 彼女の血だ。


 背中から俺を抱きしめ、人差し指の側面を自分で噛み千切ってそれを口に押し当てている。


 その行為の意味を、俺はいつか、どこかでしたことのある会話の中で思い出していた。


 ――料理じゃありませんけど、私の肉や血を食べてください。

 ――大丈夫です。少しだけ死ななくなりますけど、何日かすれば元に戻りますから。


 死ななくなる。

 つまり、リーフの血肉には、生物の再生能力を高める効果がある。

 彼女の血があれば、この死の空間にいつまでも触れていられる。


「どうですか? 生き返らせるよりも、この方が長くここの空気を感じ取れると思います」

「ありがたいことだ」


 俺は唇から指を離し、リーフの方を振り返った。


「少し時間がかかる。描き終わるまで付き合ってもらえるか? 

「――っ、はい! もちろんです!」



 ▼


 それからどれほど時間が経っただろうか。

 雲は時間の移り変わりとともにくるくると姿を変えていた。

 大地がすべて見えることもあるし、その逆もある。


 山の天気は移り変わりやすい、とはよく聞くが……景色もまた移ろいやすいものだと初めて知った。


 景色と共に寒さと苦痛をたっぷり堪能しながら、俺は万感の意を込めて筆を置いた。


「――完成だ」

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