一夜の猫の宴

「困った、ああ、実に困った」


 青年はアパートの自室にて嘆きの声を上げていた。

 彼の前に鎮座するのは、生ハム原木。すなわち、熟成させた豚の足そのものだ。


「勢いで買ってしまったものの、流石に一人じゃ食べきれない。かと言って、誘う友人もいない。さて、どうしたものか」


 うんうんと悩んでいると、開けていた窓の外から気配がした。網戸の向こう側から「にゃあ」と声がする。


「何だ、猫か」


 辺りには野良猫が多い為、珍しいことでもなかった。窓の外は塀となっており、そこを通り道としているのだろう。

 青年は特に気にも留めず、生ハム原木についての煩悶に戻った。




 翌日、仕事から帰宅した青年は驚きの光景を目にする。

 窓際の机に載せていたはずの生ハム原木が、ないのだ。確かに閉めて出たはずの窓は何故だか開け放たれていた。


「盗まれた……?」


 そう口にはしてみるものの一体、誰が生ハム原木など盗むのだろうか。しかし、部屋内に荒れた様子は見られない。通帳のような貴重品も触れられてはいなかった。

 窓から外を見てみると、塀の上に一匹の猫がちょこんと横たわっていた。茶トラ柄だ。青年と目が合うと、猫はその口をゆるりと開いた。


「おお、人間様や。帰られましたか」


 青年は猫が喋ったという摩訶不思議な出来事に慄き震える。


「どうぞ付いて来てくだされ」


 猫はそう言い残すと、ふらりと塀の上を歩いて行ってしまった。

 状況は何一つ分からないが、自分が何やら奇妙な出来事に巻き込まれつつあることは分かる。しかし、喋る猫を放っておける程、青年は好奇心を持たずにはいられなかった。

 すぐに部屋を出て、猫が歩いて行った方へと向かった。


 青年は、すいすいと狭く細い道を進んで行く、猫の後を追う。

 右に左に、時には上に下に。すぐに青年が見たことのない景色へと移ろいだ。

 蛇行する道を行く中で周囲には徐々に緑が増えていく。気が付けば、辺り一面、草花や木々が生え広がっていた。森だ。

 夜の森は暗闇で満ちている。頼りになるのは僅かに差し込む月明かりだけ。何とか猫を追いかけていく。その日は満月だった。


 やがて、青年は開けた空間に出た。円形の空間。そこだけはぽっかりと穴が空いたように、草花も木々も生えてはいなかった。頭上には煌々と輝く満月があり、月光で満ちたその場所は明るく照らされている。

 そして、何よりその場には無数の猫が所狭しと賑わい溢れていた。


「ささ、どうぞこちらへ」


 この場所へと連れてきた茶トラ柄の猫が青年を案内する。そこには草で編んだ座布団のような物が用意されていた。言われるがままに座す。

 此処まで来てしまえば、と肝も据わった青年は、自分を連れてきた猫に問いかける。


「一体全体、こいつはどういうことなんだ」

「昨夜、人間様があれの処理に窮していたかと思いまして」


 猫が指し示した空間の中心には、見覚えのある物が供物の如く備え付けられていた。生ハム原木だ。


「誠に勝手ながら、こうして今宵の宴の馳走に選ばせていただきました。その代わりと言っては何ですが、人間様もご一緒に楽しいひと時を過ごせたらと思い、お連れした次第でございます」

「成程」


 未だに夢か幻かといった具合ではあるが、如何様にして現状が訪れたのかは理解する。

 この空間には多種多様な猫がおり、皆好き勝手に騒ぎ立てていた。どうやら酔っているようだ。

 生ハム原木の傍には凛々しい雰囲気の黒猫が控えていた。その役割は間をおかずして判明する。


「さあさあ、ご覧あれ、俺の爪さばきを!」


 黒猫は声高々にそう叫ぶと、その鋭利な爪をシュパパパパと振るった。まるで専用のスライサーのように、生ハムを薄くスライスしていく。見事な腕前だ。

 青年は思わず拍手する。黒猫は嬉しそうな顔でこちらにぺこりと頭を下げた。


「この場にいる猫達は誰しも人間様方が好きなのです。それゆえ、言葉を学んだ次第でございまして」

「そうなのか」

「ええ。生ハムなる物も普通の猫には良くないのですが、ここにいる私どもは別でございます。色々と頂戴している内にすっかり慣れてしまいました」


 青年達がそんな話をしていると、黒猫がスライスした生ハムを、違う猫達が運んで来てくれた。平然と二足歩行していることに驚きだ。

 また、生ハム以外にもグラスを手渡してきた。中には黄緑がかって、とろりとした液体が満ちている。

 青年が不審がっていると、隣の茶トラ柄の猫が解説してくれる。


「それは我らが苦心に苦心を重ねて作りもうした酒でございます。いわゆるマタタビを原料としておりますが、人間様の身体にも合うことでしょう」

「ほう」


 青年は酒と聞いて思わず前のめりになる。とにもかくにも酒が好きなのだ。

 猫酒、とでも呼ぼうか。まずは一嗅ぎ。蜂蜜のように甘く芳しい香りだ。それだけでも途方もない充実感がある。一口含み、舌の上で転がす。薬草酒のような独特な苦みを感じた。けれど、豊かな甘みと合わさることで、決してえぐい苦みとはならない。むしろ、癖になる味わいだと言える。

 そのまま何口か飲み干した後、感慨深げに青年は言う。


「――ああ、美味しい。とても美味しい」

「そう言っていただけると、誠に嬉しく思います」


 猫は破顔して、空間の中心辺りを指し示した。


「さあさあ、宴はまだまだこれからでございます。これより皆の自慢の芸が始まりますので、どうぞお楽しみください」


 その夜、青年は良く笑った。現世から隔離されたような空間で過ごした不思議な時間は何より楽しいものであった。




 青年は気が付くと、自室のベッドで寝ていた。

 あれは夢だったのだろうか。しかし、机の上に生ハム原木は残っておらず、舌に強烈に残るのはあの酒の味。心を満たす愉快さもなかなか消えはしなかった。


 その後、またたび酒なる物が実際にあることも調べて初めて知ったが、いざ飲んでみると随分と劣って感じられた。まったく別物に思える。あれは彼ら独自の手法で精製されているのだろう。

 もう一度、生ハム原木を買えば、彼らはあの宴に招いてくれるだろうか。

 青年は今も一夜限りの宴で飲んだ猫酒の味が忘れられない。

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