10.派手に死にさらせよおっ!

 ドラゴニュートが吐き出した炎は、一直線にイオたちを襲った。

 まるで火炎放射器のように指向性をもって広がり、空気を焦がし、段々に重なる小さな池の水を蒸発させる。

「ちっ」

 イオは髪と肌が焦げる感覚にぞっとしながら、身体を左手側に投げ出してぎりぎりで炎をかわした。

 浅い池に飛び込むようなかたちになり、全身がずぶ濡れになる。

 一回転して立ちあがり、イオはオードリーに視線をやった。

 彼女も右手側に身体を投げ出し、同じように炎を回避している。

 唯一の違いは、炎を吐き終わったドラゴニュートがもうすぐそこにまで迫っていることだった。

「フー師姐シージェ!」

 思わず声をもらす。

 膝立ちになっているオードリーの顔面を、ドラゴニュートが力任せに蹴りつけた。

 両腕でその一撃を受け、オードリーは派手に吹っ飛んだ。

 段丘から転げ落ちるようにして、背中から池に突っ込み、盛大な水飛沫とともに石灰の縁に激突する。

「シィィッ!」

 ドラゴニュートは奇妙な声をあげながら、オードリーに向かって跳躍した。

 その身体が、軽々と数メートルを浮きあがる。

 そのまま踏みつけるつもりだ、とイオは思った。

「させない」

 思った瞬間、彼女は一歩、二歩と助走した。

 池の水に足をとられるが、力強くそれを無視して一気に跳ぶ。

 空中に身を躍らせたドラゴニュートに、横から激突する。

 ごつごつとした硬い鱗は、まるで鋼鉄のようだった。

 衝撃に骨と肉が軋む。

 それでもお構いなしに、彼女はドラゴニュートに抱きついて、そのままもつれるように落下した。

 浅い池の底に強かに身体をぶつけ、ごろごろと転がる。

 視界がぐるぐると回り、上下の感覚がおかしくなりそうだった。

 転がるなかで抱きついていたドラゴニュートから手が離れる。

 弾けるようにして立ちあがり、イオは頭を振った。

「まったく……」

 あの怪物はどこだ?

「イオ!」

 ロレッタの鋭い声がした。

 同時に首をなにかに鷲掴みにされる。

「ッ……!?」

 か細い空気が喉からもれ、首の骨が悲鳴をあげる。

 ドラゴニュートの右手が、がっちりとイオの首を掴んでいた。

「かっ……はっ!」

 そのまま宙吊りにされるようにして、両足の爪先が池の底から離れる。

 イオは足をじたばたさせ、どうにか逃れようとしたが無駄だった。

 万力で締めあげられているかのように、びくともしない。

 ぎりぎりと力が強められていく。

 こちらを見つめる無機質な赤い瞳。


 まずい。


 本当に。


 このままでは。


 首の骨が折れる。


 いますぐにでも。


「!」

 イオは途切れそうになる意識をどうにかつなぎとめ、腰の後ろから自動拳銃を引き抜いた。

 とにかく引き金を絞る。

 猛烈な勢いでスライドが前後して、弾丸がドラゴニュートの顔面に殺到した。

 甲高い跳弾の音が連続する。

 ダメか、とイオは思った。

 とんでもない硬さだ。

 九ミリ程度ではびくともしない。

 だが。

「――ッッ!」

 ドラゴニュートが金切り声をあげて、イオを力任せに放り投げた。

 身体が宙を舞う感覚。

 肺に空気が流れ込んでくる。

「ちょっ……とお!」

 ロレッタの悲鳴じみた声が近くで聞こえた。

 ほとんど衝突するようにして、イオはロレッタに抱きとめられた。

 お互いの額がぶつかり、ごちん、という派手な音が鳴った。

「いったいですわ!」

 二人は抱きあったまま浅い池のなかを転がり、イオがロレッタを押し倒したようなかたちで停止する。

「ごほっ……! うげっ……がはっ……」

 ロレッタの控え目な胸のなかで、イオは激しく咳き込んだ。

 肺が空気を求め、喉がひゅうひゅうと鳴る。

「イオ、しっかりなさいな」

「……申しわけありません。大小姐ダーシャオチェ

 ロレッタに背中をさすられて、イオはどうにか呼吸を整えた。

 なぜ自分が助かったのかはすぐにわかった。

 ドラゴニュートが顔面を押さえてのた打ち回っている。

 弾丸の一発が右目を掠めたようだった。

「まったく……死ぬかと思ったわ」

 イオは誰に言うともなしに独りごち、ふらふらと身を起こした。

 首を動かすと、骨が軋むような音を立てる。

 弾丸を弾き返すほどの鱗をまとった化け物も、弱点はないわけではないらしい。

「オードリーも、いつまで寝てるんですの」

 ぶつかった額を押さえながら、ロレッタも身を起こした。

 彼女の言葉に反応して、少し離れたところで水に浸かっていたオードリーがむくりと起きあがる。

「……大小姐……肋骨が痛いです」

「それは折れてるんですの。あまり無理すると、肺に刺さって死にますわよ」

「……労災が適用されてほしいです」

「それはラウ大人ダーレン次第ですわ」

「……つらみが深いです」

「どこの言葉ですの?」

 いつもと変わらない表情で、オードリーがこちらに歩いてくる。

 骨が折れていることなど、まったく感じさせない。

 わずかに呼吸が荒くなっている程度だった。

「ギィィィエェェェ――ッッッ!」

 ドラゴニュートの怒り狂った矯正に、三人は同時に視線を向けた。

 やはり右目が潰れている。

「はっ、クソ蜥蜴野郎。調子に乗るからそういうことになるんだよ、ボケ!」

 ロレッタは挑発的な態度でドラゴニュートを嘲笑った。

 と、言っても実際には彼女たちのほうが満身創痍だ。

 ほとんど虚勢だったが、ロレッタ・イェンというのはそういう女だった。

 戦場で一緒に戦う者に、弱気なところを見せはしない。

 そんな彼女に、イオは言った。

「大小姐、わたしとフー師姐で、一度だけなら勝算をつくれるかも知れません」

「本当ですの?」

「はい」

 イオは小さくうなずいた。

 なんにせよ、あんな化け物を相手にしてこれ以上立ち回るのは難しい。

 次の一度で、決着をつけるよりほかはない。

 イオの案を聞いて、ロレッタは眉間に皺を寄せ深々と嘆息した。

「それ、誰がやりますの?」

 答えが分かりきっている質問だったので、イオとオードリーは無言でロレッタを見た。

 それはほんの一瞬のことだったのだが。

 ロレッタは永遠に無言の圧力をかけられている気分になった。

「あー! もう! でしょうね!」

 ヤケクソ気味に叫び、腹をくくる。

「あたしがやるしかしねえよあっ! くそったれめ!」

「……では……大小姐」

「幸運を」

 ロレッタの言葉を聞くと同時に、二人はそれぞれ左右に展開した。

 ドラゴニュートに向かって大きく回り込みながら、イオは魔法図書の複製本を手にする。

 一度氷漬けにされたせいで、相手は明らかに警戒していた。

 魔法の発動はあえて連携させない。

 個別に時間差で仕掛ける。

 イオは複製本の帯封を引きちぎった。

 ページが勢いよく捲れ出し、記されている〈世界干渉言語〉――ワーズワースが現実に干渉するために消えていく。

「……」

 気の利いた言葉を口にすることもなく、イオは白紙になった複製本を投げ捨てた。

 その右手に、光球が現れる。

 イオは大きく振りかぶり、光球をドラゴニュートの頭上に投擲した。

 同時に耳を塞ぎ、口を開け、目を閉じる


 爆発と閃光。


 凄まじい光量が一瞬にして鍾乳洞の奥深くまでを煌々と照らし、衝撃を伴った爆音が空気を震わせた。

 この〈ファイア・フォックス〉と呼ばれる魔法は、世界中の警察が暴徒鎮圧用に使用している複製本だ。

 閃光と衝撃音で身動きを取れなくする。

 殺傷力は低いが、人間なら運が悪ければ失明くらいはする代物だ。

 案の定、閃光をもろに見たドラゴニュートは目を押さえて動きをとめていた。

 これが目ではなく、体温や臭いといったもので獲物を感知するタイプのモンスターだったならこうはいかない。

 人型であるということは、弱点も人に似通っている。

 一拍の間を置いて、オードリーも複製本の帯封をちぎった。

 ページが捲れる複製本を手にしたまま、ドラゴニュートの懐に滑り込む。

 左足を外側に払うようにして踏み込み、相手の右足を引っ掛けて体勢を崩す。

 白紙になった複製本を投げ捨てて、オードリーは冷気をまとう両手の拳を握った。

「しっ!」

 鋭い息を吐き、鋼鉄の鱗をものともせずに、右、左、と叩き込む。

 どごん、どごん、という骨と肉がぶつかる音が連続する。

 同時に空気を凍らせる爆発が起きた。

 ドラゴニュートが身体を大きく仰け反らせ、悲鳴じみた矯正をあげる。

 オードリーの左足がドラゴニュートの右足をきつく踏みつけており、打撃で吹っ飛ばないようにされている。

 拳を撃ち込まれたドラゴニュートの腹部は急激に凍り、霜に覆われ始めていた。

〈ニヴル・カッツバルゲル〉を撃ち込まれたなら、身体の内側から冷凍されていく。やがては液体窒素に浸された金魚のようになる。

 人間相手ならもう助からないが。

「……さあ……怒れ」

 ドラゴニュートはオードリーの言葉に答えるようにして、その顎をがばりと開いた。

 冷撃系統の魔法はダメージを与えてはいるが、まともにぶつけてもこの化け物を殺し切るには威力が足りない。

 おそらく自動回復系の能力があるのだ。

 ならば。

 まともに正面からぶつけることをやめるまでだ。

 ドラゴニュートが大きく開いた顎の奥に、燃え盛る炎の影が見える。

「ギィィィエェェェ――ッッッ!」

 怒りに震える声とともに、凄まじい勢いで炎が吐き出された。

 オードリーはその場に這いつくばった。

 ドラゴニュートとの距離が近すぎるせいで死角になって、炎が直接には届かない。

 それでも炎に炙られた髪と肌は焼けつくようで、肺に吸い込む空気は燃えているように熱かった。


 次の瞬間。


 周囲一体を焼き尽くす炎をぶち抜くようして、誰かがドラゴニュートに飛びかかった。

 ロレッタ・イェンだった。

 全身に池の水をしこたま浴びて、頭から炎に飛び込んだ彼女は。

 長い黒髪が焦げることも

 白い肌が焼けることも。

 

 無視した。


 ただ、相手を射殺せるのではないと思える眼光で、ドラゴニュートを見据えていた。

 左手にもっていた複製本を投げ捨て、ロレッタは大きく開いたままのドラゴニュートの顎に右腕を突っ込んだ。

 鋭い牙に肌が裂かれることも躊躇せず、力の限り押し込む。

「はんっ」

 ロレッタは普段の上品さなど微塵も感じさせない凶悪な笑みを浮かべた。

 その右腕の周囲には、六本の氷柱が現れている。

 いくら鋼鉄の鱗に覆われていようと。

 いくら魔法耐性と自動回復があろうと。

〈アルマス・リボルヴァ〉を口のなかにぶち込まれて耐えられるか!?

「派手に死にさらせよおっ!」

 彼女が叫ぶと同時に、六本の氷柱が次々に射出された。

 ゼロ距離でドラゴニュートに直撃する。


 冷気の爆発。


 一瞬のあとには、大きく顎を開いたまま全身が凍りついたドラゴニュートがいた。

 完全に、身体のなかから凍結している。

「手こずらせやがってよお。くそったれが」

 ロレッタは肩でぜえぜえと息をしながら、ゆっくりと右腕を引き抜いた。

 魔法を使った者は凍りはしないが、その腕は牙でずたずたになって血塗れだ。

 仕方なく左手で眼鏡――炎の熱でフレームが曲がっている――を押しあげ、ロレッタはドラゴニュートを蹴り倒した。

 氷の彫像となったドラゴニュートはゆっくりと倒れていき。

 水が蒸発した百枚皿の池の底に激突して。

 ひどく繊細な音を立てて粉々に砕け散った。

 その様子を見届けて、ロレッタは言った。

「仕事――完了ですわ」

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