4.いい飼い主が見つかるといいですね

 命令を守る絶対的な忠誠心。

 命令を達成する義務と喜び。

 忠犬であり猟犬であること。

 イオがそんな躾を徹底的に受けたその学校が、ガウロン神聖帝国のどこにあるのか。

 彼女自身もよくはわからなかった。

 覚えていることといえば――周囲は見渡す限りの水田で、夏になると昼はセミが、夜はカエルがうるさい田舎だったということくらいだ。

 そこで学んでいたのは、〈ティンパ商会〉の人材領域部門のどこかのセクションが集めてきた子どもたち。様々な国の人種が混在し、イオのような戦争雑種と呼ばれるハーフエルフも大勢いた。

 共通していたことといえば、放っておけば野垂れ死ぬしかない、世界で二番目に不幸な境遇にある子どもだということだろう。

 世界で一番不幸な子どもは、この学校に放り込まれる機会すらない。

 大人たちは学校のことを、〈火薬庭園〉と呼んでいた。

 正式な名称を、イオは知らなかった。

 あるいは、そんなものはないのかも知れない。

 卒業生は〈ティンパ商会〉が実施するオークションに出品され、様々な国の機関や企業、犯罪組織、あるいは物好きな個人に出荷される。

 オブラートに包んで言うのなら、そこは極めて暴力に特化した工作員の養成学校。

 ざっくばらんに言うのなら、殺し屋工場だった。

 世間でまことしやかに噂にはなるものの、決して正体はつかめない。

 そういう存在のひとつだった。

 だが、イオからしてみれば世間の噂ほどひどい場所ではなかった。

 衣食住が保証され、一緒に学ぶ級友がいて、担当教官たちは厳しさのなかにも優しさをもっていた。

 人を殺す方法を叩き込まれる以外は、同じ年頃の子どもたちがかよう学校と、なにが違うというのだろう。

 少なくとも、イオにとっては〈火薬庭園〉での日々は青春そのものだった。

 自分には似合わなかったが、可愛いデザインの制服だってあったくらいだ。

 心残りがあるとするならば。

 彼女の成績は決してよくはなく、担当教官に最後まで迷惑をかけたことだった。

「フー師姐シージェ、わたしは廃棄処分でしょうか?」

 オークションで売れ残ったイオは、いつものむっつり顔のまま淡々と言った。

 級友が誰もいなくなった教室で、彼女は似合わない制服を着て自分の席に座っていた。

 昨日までの毎日が幻であったかのように、誰も彼ものすべての痕跡が消え失せていた。

〈火薬庭園〉なんてものは噂のなかだけの存在だし、そこで躾けられた殺し屋など存在はしないのだから。

 窓からは沈みゆく太陽と、オレンジ色に染まる空が見えていた。

 残光が窓から差し込み、深い影をつくる。

「……そうですね。売れ残った商品は……廃棄処分されます」

 いつもどおりの掠れた暗い声で、彼女の担任教官であるオードリー・フーは答えた。

 彼女だけは昨日までと同じように、教卓に立ってこちらを見ていた。

 違いがあるとすれば見たことがない深緑の軍服姿で、襟元には曹長の階級章が、胸元にはいくつかの勲章があった。

 いつもは伸ばし放題にしている長い髪は、額を出すようにしてきっちりと整えられている。

 顔の左半分にある傷痕が露わになってなお、オードリー・フーはひどく儚げで美しかった。

「そうですか」

 イオは特に驚かなかった。

 成績は卒業に必要な合格点をぎりぎり上回る程度。

 ガルー人やドラクル人のような生来の身体的な強さもなければ、純血のエルフ人のような長寿と美貌があるわけでもない。

 消耗品として使うには脆弱すぎるし、愛玩用に侍らすには魅力に欠ける。

 そんなハーフエルフに、設定された三億ロンガンという最低落札価格はすぎた金額だった。

 だが、無闇に値段は下げない。

〈火薬庭園〉から出荷する商品のブランド価値は、そうやって保たれている。

 毎年、何人かの買い手がつかない処分品が出ることは、イオもよく知っていた。

 ゆっくりと立ちあがり、

「いままでお世話になりました、フー師姐」

 深々と頭を下げる。

「あなたの経歴に泥を塗ってしまったこと、お許しください」

「……そんなこと……気にしなくていいですよ……イオ」

 オードリーが少し笑った気がして、イオは顔をあげた。

「……あなたの成績は……確かに芳しくはありません。出荷時の品質保証は九段階の四番目。これは〈火薬庭園〉の商品としては……最低保証ランクです」

「はい」

 九段階で三番目以下は、出荷されるまでもなく落第だ。

 オークションにかけられることもない。

「けれど……私の技を一番体得できたのは……あなただと思います。私にとっては……優秀な教え子ですよ」

「はい」

 たむけとしては十分な言葉に、イオはうなずいた。

 オードリー・フーが近接戦闘で使う技は、軍隊仕込みの格闘術ではなく彼女の家系で細々と受け継がれてきた奇妙な武術だった。

 ほかの担当教官や生徒たちからは「謎の拳法」と呼ばれており、オードリーが言うには〈六合合一拳〉という。

 単純な筋力や敏捷性といった身体能力に頼るわけではなく、動きのなかで発生させたある種の運動エネルギーを爆発させて相手に叩き込む。

 その「謎の拳法」特有のコツのようなものを、イオはなんとなく掴むことができた。

 才能と言えばそのとおりなのだが、生憎とその才能だけでどうにかなるほど〈火薬庭園〉の査定は甘くはない。

「……ですので……贔屓しようと思います」

「はい?」

 言葉の意味がわからずに、イオは小首を傾げた。

「……先程……出向からの帰任命令を受けました。私はここを去ることになりましたから……あなたを連れていこうかと。辞令を受けるので久しぶりに……軍の制服を着ましたが……少し太っていてショックです」

「は? いや、仰っている意味がわかりません、フー師姐」

「……そんなに太っていないですか?」

「そっちではありません」

 イオは眉間に寄せた皺を揉みほぐした。

 つまりはこういうことか?

 自分は廃棄処分にならなくてすむ。

 しかし、そんなことが本当に可能なのだろうか。

 この〈火薬庭園〉に限って、例外などあり得ない。

「……異動先の上司は……私の古くからの友人のような方です。少し無理をお願いして……あなたを引き取ってもらいました。オークションではない売買……庭先取引というものですよ」

「そんな方法があったのですか」

「……本来は……最高品質の商品をオークションにかけず……特定の顧客に売買するための方法です。最低金額の設定もありません」

 それが売れ残った自分に使われるとは。

 なんとも皮肉だな、とイオは思った。

「……ロレッタ・イェン……私の上司なら……あなたの買い手も見つけてくれると思いますから」

 このとき、イオは正直なところ半信半疑だった。

 ロレッタ・イェンという人物は、一体いくらで自分を買って、いくらで売るつもりなのだろうか。〈火薬庭園〉の出身者だからといって、オークションで売れ残った商品に買い手が簡単に見つかるとも思えなかった。

「……いい飼い主が見つかるといいですね」

 オードリーがそう言って、少しだけ笑った。

 寂しそうな表情。

 そう見えたのは、そうだったらいいなというイオの願望のせいだろう。

 彼女が知っているオードリー・フーは、一人の生徒に感傷的になんてなりはしない。

 二人して窓の外を見た。

 オレンジ色だった空にはかげりが見え、あと数分もすれば黒く塗りつぶされてしまいそうだった。

 イオ・フレシェットの青春のようなものはこのときに終わって。

 彼女は犬になった。



「はあ……」

 肩まで温泉に浸かって、イオはぼんやりと昔のことを思い出していた。

「いい飼い主が見つかるといい、か」

 彼女にとって飼い主の命令は絶対で、従わないという選択肢は存在しない。

 だが、〈魔法図書塔〉の探索はあまりにも荒唐無稽だった。

 暗がりで人を殺すことを躾けられてきたにもかかわらず、これからリザードマンとやらを相手にしなければならないとは。

「シーガー・ウォンのほうがよっぽどまともだったわ」

 彼女を引き取った――正確には商品として仕入れたロレッタ・イェンは、〈ティンパ商会〉の営業本部第三営業局営業総務部第九課という部署の課長だった。

 社内では〈第九〉と呼ばれていたその部署の役割は、総務という名前から想像するものとはまったく違う。

 与えられた大きな裁量で事業領域に関係なく厄介な案件を担当し、手段を問わずに利益化する、あるいは損失を最小限に抑制する難案件対応部隊。

 なかでも〈第九〉は、第七次図書塔紛争の停戦後に解体されたとされている特務機関の一部が丸ごと移籍してきた部署で、社内でも指折りの得体の知れなさだった。

 それでもイオの予想どおり買い手はすぐに見つからず、彼女は〈第九〉でいくつかの仕事をこなしたあと、シーガー・ウォンに買われた。

 強奪する魔法図書の複製本で料金を支払うなどという、シーガーの無謀な計画をロレッタ・イェンが了承して三億ロンガンもの大金を貸した理由はよくわからない。

 なんにせよ。

 彼女は最初の飼い主と短い時間をすごし、いまは二番目の飼い主に飼われている。

「んっふふ。塔のなかの温泉というのもなかなかにおつなものだよねー」

 その二番目の飼い主であるところのデシーカの声が、湯煙の向こう側から聞こえた。

 忘れてしまいそうになるが、ここは〈魔法図書塔〉の一〇階だ。

 草原フィールドには小さな森に囲まれたいくつかの湖が存在しているのだが、そのうちのひとつは温泉湖であり、周辺には人が入るのにちょうどいいサイズの温泉が点在している。

 デシーカがざふざぶと音を立てて、こちらに近づいてくるのがわかった。

 一糸まとわぬ姿。

 無駄なものが一切ない均整のとれた身体は、美術館に飾られている絵画か彫刻のようだった。

 嘘みたいに白い肌に、輝くブロンドが重なる。

 イオは雑種である自分との違いをまざまざと実感したが、あまりにも違いすぎて惨めな気持ちになることもなかった。

「月を愛でながらお酒を飲んで温泉に浸かるのが本当は一番なんだけど、塔には夜がないのが実に残念だよ」

 目の前までやってきたデシーカは、両手を腰に当てて仁王立ちした。

 全部見えてる。

「イオもそう思わない?」

 こちらの顔を覗き込んで言ってくる彼女に、イオは深々と嘆息した。

「デシーカ、せめて前を隠したらどうですか」

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