第2話 魔法商人と塔へいこう
1.ちょっとなにを言っているかわからない
「まったく……」
ぶぶぶぶ、という空気を震わせる耳障りな羽音に、イオは眉をひそめた。
まるで信じられない光景だ。
蜂だ。
五〇センチはあろうかという黄色と黒のツートンカラーの巨大な蜂が三匹、派手な羽音を立てて飛び交っている。
その相貌は凶悪で、人間の腕など噛みちぎれそうな鋭い顎をガチガチと鳴らしていた。
「おー、ホーネットピアスじゃんかよー」
四輪駆動車の後部座席に座るデシーカが、気楽な声でそう言った。
耳を半分切り落とされた美貌のエルフ人は、こんなときですら薄い笑みを浮かべている。
「ひひ。やばい。刺されたら死ぬっす」
「厄介なやつに見つかったな。あれは食糧を探している兵隊蜂だ。三匹で一個編隊を組んで活動する。肉団子にされて巣にもち帰られるぞ」
ハンドルを握っている黒エルフのキルシェトルテが。
デシーカの隣に座っている人狼のルールーが。
慣れた様子で口々にそんなことを言う。
助手席に座って窓の外を見ているイオには、まったく理解できなかった。
武器弾薬、食糧と燃料を積み込んだ四輪駆動車は、低い草木しか生えていない草原地帯を猛スピードで走行していた。
キルシェトルテはアクセルをベタ踏みで、小石がボンネットとフロントガラスに当たっては甲高い音を立てる。巻きあげる砂埃で、乗り込んだときにピカピカだった車体は見る影もない。
「こんなわけのわからない状況で、どうしてそんな感じなわけ?」
イオは感情を制御するように躾けられたことを、これほど感謝したことはなかった。
普通ならパニックになって、声を荒げている。
なにせ自分たちはいま、巨大な殺人蜂に追いかけられているのだ。
「んっふふ。こんなことでオタオタしていたら、〈魔法図書塔〉の探索なんてできないよ、ハーフエルフちゃん」
デシーカはジャケットから煙草を取り出すと、揺れる車内で器用に火をつけた。
「もう、なんなのよ、塔って……」
悪態を吐かずにはいられない。
イオは現在、デシーカ・デグランチーヌの会社である〈D&D魔法通商〉の社員だった。
悪名高い〈エルフの魔法商人〉。
文字どおりに、その走狗となった。
そして、仕事として〈魔法図書塔〉の探索に挑んでいる。
そうなのだ。
ここは塔のなかだ。
「キルシェ、振り切れない?」
デシーカが身を乗り出して言ってくる。
咥えた煙草がひこひこ揺れて、紫煙が車内に広がっていく。
「ちょっと無理っすね。迎撃したほうがいいっす。放っておくと仲間呼ばれるかも」
「じゃあやるかー。ちょうどこっちも三人だし。即戦力人材を採用してよかったよ」
その言葉にイオはぎょっとした。
わずかに目を見開いて、デシーカを見やる。
彼女は刺されたら死ぬ巨大な蜂を駆除した経験などもちろんない。
「イオちゃん、三つ数えたらブレーキかけるっすから! 飛び降りて!」
「え、ウソでしょ」
「ルールー、準備はいいっすか?」
「いつでも」
「イオちゃんは?」
「ちょっとなにを言っているかわからない」
と、言ったものの。
こちらの返答など、意味がないことはわかっていた。
やらないという選択肢はなかったし、それがこの会社での彼女の役割だ。
イオは覚悟を決めた。
瞬間、キルシェトルテがサイドブレーキを引いた。
同時にブレーキペダルとクラッチペダルを踏み込み、恐ろしく器用にクラッチを切りかえる。
車体が盛大なブレーキ音を残して急停車する。
その勢いでシートベルトが身体に喰い込む。
痛みを無視して、イオは両足で思い切り踏ん張った。
シートベルトを外すなりドアを開け放ち、躊躇なく転がり出る。
地面に強かに身体を打ちつけ、そのまま一回転して片膝をついた体勢になった。
すかさず自動小銃を構える。
無意識に装備を確認。
小口径高速弾の自動小銃、腰の後ろのホルスターに副兵装の自動拳銃。
野戦服とタクティカルベストのポーチには、予備弾倉と魔法図書の複製本が詰め込まれていた。
あんな化け物を銃で殺れるものなのか、とイオは思った。
巨大な蜂の編隊は、急停車した車の動きについていけずに頭上をとおりすぎている。
耳障りな羽音を響かせて、上空を旋回してこちらに向かってくるのがわかった。
「まったく……」
イオは先頭の蜂に狙いをつけた。
引き金を絞ろうとした瞬間、
「イオちゃん、無闇に攻撃したらダメっすよ!」
野戦服のうえからトレンチコートを羽織っているキルシェトルテの声がした。
だが、もう遅い。
イオが構えた自動小銃から小気味いい銃声が響いた。
三点射撃。
見事に命中。
火花を散らして跳弾する。
「ちっ……」
イオは露骨に舌打ちした。
「あいつら外骨格が無茶苦茶硬いから、接近して柔らかい腹をやるしかないんすよ」
「そういうことは先に言って」
キルシェトルテを睨む。
尖った耳に褐色の肌をした黒エルフは、ショットガンを肩に担いで蜂の動きを観察していた。
「ひひ。でもこれで」
「イオが標的だな」
「は?」
野戦服の腰から提げたサーベルを、すらりと抜き放つルールーの言葉にぞっとする。
「あいつらは最初に攻撃してきた者を集中的に狙う性質がある」
「だから。そういうことは先に言って」
それ以上はもう、抗議の声をあげている暇はなさそうだった。
みるみるうちに巨大な蜂が迫ってくる。
「安心しろ。連中の動きは直線的で、尻の針で刺そうとすると弱点の腹をさらすことになる。そこを狙えば仕留められるぞ」
「イオちゃんなら大丈夫っすよ」
「はあ、もう、本当に、もう」
すべての会話が現実離れしており、頭がおかしくなりそうだった。
だが、迫りくる蜂は現実であり、イオは深々と嘆息した。
肺から空気を搾り出し、思考を切り替える。
本当のところ、銃の扱いにはそこまで自信があるわけではない。
動く標的の腹を狙って、うまく仕留められる気がしない。
だから。
イオは自動小銃を投げ捨てた。
三匹の蜂が急降下してくる。
「二匹は任せていいわけ?」
「無論だ」
「心配ご無用っす」
イオは背中から聞こえる二人の言葉が終わる前に、二歩、三歩、と軽く助走した。
力強く大地を蹴って――跳ぶ。
自分に向かってくる巨大な蜂と空中ですれ違いざま、身体をひねった。
強烈な右回し蹴りを、蜂に喰らわせる。
硬い木の枝をへし折るような感触を残して、蜂の太い脚が奇妙な方向に折れ曲がる。
そのままの勢いで地面に叩きつけられて、蜂が奇妙な声をあげた。
イオは蜂を追いかけるように着地するなり、靴底に鉄板の入った編み上げブーツで容赦なくその腹を踏みつけた。
同時に腰の後ろのホルスターから自動拳銃を抜き放ち、五発を撃ち込む。
ジタバタともがいていた巨大な蜂が、やがて動かなくなる。
「!」
背後に気配を感じて、振り返る。
もうすぐそこに、二匹目がいた。
ほとんど槍の穂先に思えるサイズの毒針が、尻の先から覗いていた。
イオが反応するよりも先に、重い銃声が響いた。
ショットガンの散弾が、蜂の腹部を根こそぎ吹き飛ばした。
「蹴りで落とすとか、イオちゃんマジっすか」
軽快なポンプアクションで空になったショットシェルを排莢しながら、キルシェトルテが言ってくる。
「女優になってアクション映画とかに出たほうがいいっす」
「こんな地味顔のハーフエルフが、女優になんてなれるわけないじゃない」
「えー、そうっすか? イオちゃんは磨けば光るタイプだと思うけど」
自動小銃を拾いあげて三匹目を探す――必要はなかった。
こちらに向かってくる途中で、ルールーのサーベルによってものの見事に両断されていた。
胴と腹のつなぎ目から真っ二つになって、そのまま地面を転がっていく。
奇妙なものだった。
体液のようなものが一切出ない。
それはイオやキルシェトルテが始末した蜂も同様だった。
数秒後、ガラスが砕けるような硬質な音を残して、巨大蜂の死骸が粉々に砕け散った。
最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去る。
「どういうことなの?」
イオは眉間の皺を揉み解し、何度目かわからない嘆息をもらした。
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