10.自由を謳歌する野良犬になるかい?

「やっぱり退職金は必要だったわね」

 底抜けに晴れた〈図書塔都市〉の空をぼんやりと見上げ、イオは小さく嘆息した。

 いつもと変わらない巨大な塔が、こちらを見下ろしてくる。

 彼女は生きていた。

 気がついたら病院のベッドのうえで、その日のうちに抜け出した。

 セントラルブリッヂでの一連の出来事は大きな騒ぎにはなったが、新聞とネットニュースを賑わせてすぐに忘れられるはずだ。

 ひとつのニュースを話題にし続けるには、この〈図書塔都市〉には犯罪も娯楽もありすぎる。

 警察には誰も捕まらないだろう。

 デシーカ・デグランチーヌと彼女の会社は〈図書塔都市〉の行政を担う管理委員会に顔が効くし、もう一方の当事者であるシーガー・ウォンは死んだ。

 残るはイオだけだったが、彼女はこうして捕まっていない。

「無職になってしまったじゃない」

 旧市街にある公園のベンチに腰掛けて、彼女は手にしている無料の求人情報誌を開いた。

 すぐそこのコンビニから取ってきたものだったが、こんなにも仕事があるのかと思うほどに求人広告が掲載されている。

『未経験からでも年収一〇〇〇万ロンガン以上』

『上司もあだ名で呼ぶアットホームな職場です』

『定時で帰れる営業アシスタント』

 似たようなフレーズのキャッチコピーが並び、職種や待遇が記されている。

「……まったく」

 どれもピンとこない。

 飼い主がいなくなってしまった飼い犬は、一体どうすればいいのだろう。

 もう誰も、命令してくれる者はいない。

 自分がなにをすればいいのか、イオにはまったくわからなかった。

 自由を楽しむなんてことを、彼女は躾けられていない。

 イオは何度目かわからない嘆息をもらし、求人情報誌をゴミ箱に投げ捨てた。

 途方に暮れる。

 再びぼんやりしていると、

「へいへーい、そこの可愛いハーフエルフちゃん」

 どこかで聞いたような声がした。

 自分が呼ばれているとは気がつかずに反応しないでいると、さらに言葉が続く。

「また無視するしー」

「……デシーカ・デグランチーヌ?」

 イオはぎょっとして、視線を空から声の主に移した。

 そこには確かに、数日前にぞっとするほどに美しいな、と思ったエルフ人がいた。

「いかにも、デシーカ・デグランチーヌだよ」

 そう言ったデシーカはマギーカフェのロゴが入った紙袋を手にしている。

 鮮やかなブロンドと白い肌が、昼の太陽の下できらきらと輝いていた。

「この前お土産にもらったエッグタルトが美味しくてさー、また食べたくなったから並んで買ってしまった」

 そう言えば、マギーカフェはこの近所だ。

「一個あげよう」

 袋からエッグタルトを取り出すと、デシーカがそれを差し出してくる。

「なんのつもり?」

「んっふふ。餌づけ」

「……」

 イオは困惑しながらも、それを受け取った。

 こちらを見つめてくる碧眼に、なぜか逆らえない気がしたのだ。

「ハーフエルフちゃん、勝手に病院を抜け出したらダメじゃんかよー。様子見にいったらいないんだもん」

「あなたが手配したの?」

「そうだよ」

 エッグタルトを食べながら、デシーカが隣に座ってくる。

「シーガー・ウォンが奪ったうちの商品さ、〈ティンパ商会〉に流してくれたものだから往生したよ。買い戻そうにもロレッタ・イェンがびっくりするような値段ふっかけてくるし、結局手放した。あ、やっぱ美味しいね、これ」

「そう。それで?」

 デシーカに釣られて、イオもエッグタルトを口にした。

 サクサクの食感、カスタードクリームのほどよい甘さが口のなかに広がる。

 確かに美味しい。

 人気が出るのもうなずける。

「大赤字のうえ、ルート開拓を〈ティンパ商会〉に取って代われちゃった。それもロレッタ・イェンが黒エルフ独立派に納品したのは、元々はうちの商品だよ? いやホント、ひどい目にあった」

 言葉の割には、デシーカはまったくもって元気そうだった。

 エッグタルトを平らげると、彼女はなんの気なしに言った。

「ハーフエルフちゃんには、埋め合わせをしてもらわないと」

「そういうこと」

 イオは自分を生かしておいたことに合点がいった。

 損失を少しでも取り返すには、取り立てる相手が必要だ。

 シーガーが死んだいま、それは自分しかいない。

「私になにをしろと?」

「近々、うちの会社で〈魔法図書塔〉の探索を計画しているんだけど。募集をかけても、ちっともいい人材が応募してこなくてさ」

 エッグタルトを平らげたデシーカは、そびえ立つ塔を見あげていた。

「求人情報誌にも広告出してるんだよ」

 マギーカフェの紙袋を丸めると、ゴミ箱に投げ入れる。

 彼女は代わりにイオが捨てた求人情報誌を拾い、〈D&D魔法通商〉の求人広告が掲載されているページを開いて見せた。

「うちの会社で働かない? 塔の探索は超危険だけど、お給料もきちんと出すよ。完全週休二日制、交通費全額支給、有給休暇あり、各種手当あり」

「まったく。本気で言っているの?」

「もちろん。ハーフエルフちゃんなら即戦力人材だから、大歓迎」

 イオがエッグタルトを食べ終えるタイミングで、求人情報誌が差し出される。

〈D&D魔法通商〉の求人広告とデシーカの顔を交互に見やる。

 デシーカは半分に切り落とされた耳をひこひこと動かしていた。

「断ったらどうするつもり」

「どうもしないよ。ハーフエルフちゃんが自由を楽しみたいというのなら、それはそれで尊重しよう。自由を謳歌する野良犬になるかい?」

 その問いかけは、ひどく意地悪なものだった。

 この女は自分が断れるわけがないと知っているのだ。

 一度でも飼い主の命令に従い、エサをもらうことを覚えてしまったなら、もう野生に戻ることはできない。命令がなければ、なにをすればいいのかわからない。

 イオは深く深く嘆息をした。

 蛇のように狡猾な女だ。

 気がつくと、そっと忍び寄られている。

「デシーカ……飼い犬は野良犬に憧れはしますが」

 口調を飼い主に向けるものへと変えて、彼女はわかり切った答えを口にした。

「決してなれはしませんよ。野垂れ死ぬだけです」

「んっふふ。結構」

 それを聞いたデシーカは薄く笑い、そっと手を差し出した。

「ようこそ、ハーフエルフちゃん」

 一瞬の間を置いて、その手を握る。

 直接に人を殺したことがないであろう彼女の白く柔らかい手は、そのくせ数えきれないほどの死で染まっている。その汚れはどれだけ洗おうと、決して落ちない。

 イオはそんな気配のようなものを感じて、じっとりとした冷たい汗が流れるのを自覚した。

 こちらを見つめてくる碧眼が、先ほどまでとは別物のようだった。

 はっきり言って恐ろしい。

 だが、そんな雰囲気は一瞬だけだった。

 錯覚だったのではないかと思えるほどに、デシーカは明るく言った。

「名前はなんていうの? さすがは〈ティンパ商会〉の商品だよ。どれだけ調べても出てこない」

「イオ・フレシェット」

「いい名前じゃん。イオ、よろしくね」

 イオは無言でうなずくしかなかった。

 するとデシーカが、まじまじとこちらの顔を覗き込んでくる。

「なんです?」

「むっつり顔も可愛いけど、もうちょっと愛嬌が欲しいかな。素材よさそうだし、笑顔も可愛いと思うよ」

「前の飼い主にも同じようなことを言われました」

「へー、それは案外と気が合ったかも知れないな、シーガー・ウォン」

 声を押し殺して、デシーカはくつくつと笑った。

 このエルフ人は表情がありすぎる、とイオは思った。

 どれが本物の彼女なのか、本当はなにを思っているのか、ちっともわからない。

「デシーカは、よく笑っていますね」

「そうだよー。この商売、血と暴力に彩られてはいるが、笑顔は大事だ」

 飛び切りのつくり笑顔で、彼女は言った。

「これで次の探索は少し楽になりそうだよ」

 陽光に目を細めながら、踵を返して〈魔法図書塔〉を見あげる。

 魔法図書の複製本しか売らない〈エルフの魔法商人〉。

 その名は世界中に知れ渡っているし、信じられないほどの富を手にしている。

 だというのに。

 未だに〈魔法図書塔〉に挑戦し、新しい魔法図書の原本を探すことをやめない。

「あなたはなぜ塔に登るのです」

「それはね、イオ。まだ足りないからだよ」

 こちらを振り返ることなく、デシーカは言った。

「世界には魔法が足りない」

「魔法が足りない?」

「そう。塔から魔法を取り返して世界にばら撒き続ければ、そのうちに神サマだかなんだかが怒って、また姿を現すと思うんだよね」

 イオには彼女がなにを言っているのかわからなかった。

 数秒の間、デシーカは〈魔法図書塔〉を見あげたままなにも言わなかった。


 そして。


「神サマが姿を現したならさ――」


 イオの新しい飼い主は。


「――殺してやるよ」


 ぽつり、とそう言った。

 彼女がいまどんな表情をしているのか。

 イオからは見えなかった。

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