9.ああ、よかった

 イオは肩で大きく息をして、数歩先でサーベルを構えている人狼を見据えた。

 致命傷を避けて白刃をかいくぐり、何度も殴り合い、自動拳銃の弾丸をありったけぶち込んで、それでも人狼は平然としていた。

「突撃浸透大隊の人狼は化け物揃いだとは聞いていたけれど、想像を絶するタフさね」

 荒い呼吸をどうにか整えながら、イオは血の混じった唾を吐き捨てた。

 彼女は控えめに言ってズタボロだった。

 どこと言わずに全身が痛い。

 一発殴られるだけで骨が軋んで身体がバラバラになりそうだったし、サーベルの一閃は一瞬でも気を抜いていれば首が飛ぶ。

 紙一重でかわした白刃は身体を容赦なく切り刻み、彼女は全身から出血しているのではないかと思える有様だった。

 特に左腕の傷は深く、腕が思うようにあがらない。

 血がとまらずに、いまも前腕から甲を伝い、指先から滴り続けている。

「こんなことなら、機関銃でも用意するべきだったわ」

 イオは右手にもっている自動拳銃に視線を落とした。

 全弾を撃ち尽くしてスライドが開き切っており、予備弾倉もない。

 何発かは確実に命中したはずなのだが。

 効いている気配がない。

「勘違いするな。ガルー人は確かに他の人種に比べればタフだし、多少の傷ならすぐに治癒するが。無敵でも不死身でもない。機関銃なんかで撃たれるのは、絶対にいやだ」

「……なんなのよ、もう」

 イオは小さく嘆息すると、頭を振った。

 半眼になってルールーと呼ばれていた人狼を見やる。

「じゃあ、効いているわけ?」

「む。もの凄く痛いぞ」

 人狼は表情を変えることなくそう言った。

「私が我慢強いだけで、本当はいますぐ泣き叫びたいくらいだ」

 彼女のほうも上等そうなパンツスーツは見る影もなくなっており、白いブラウスにはべっとりとした生乾きの血が滲んでいた。

 パンプスはとっくの昔に脱ぎ捨てており、いまは素足がアスファルトを踏み締めている。

 二人の戦闘の余波で橋のうえの交通は麻痺しており、一定の距離を置いて自動車が停車して大渋滞となっていた。

 だが、クラクションは一台も鳴らそうとはしない。

「これだけやり合って左腕一本とはな。ここまで骨のある相手は、かつて私が出場した騎士剣闘会でもいなかった」

 人狼はどこか楽しそうに笑っていた。

 騎士剣闘会はジェヴォーダン王国の名物だ。

 もともとは貴族階級ではない腕に覚えのある下級騎士が一対一で殺し合う見せ物で、勝者には上級騎士の身分が与えられた。

 それがいまはイベント化して、四年に一度の大会になっている。

 殺し合いではないが、たまに死人も出る過激なものだ。

 この女はヤバいな、とイオは思った。

 騎士剣闘会に出場するような連中は、総じて一対一の決闘のような戦いを楽しむタイプが多い。

 イオは戦い方ではなく、殺し方を躾けられてきた。

 ジャンル違いなのだ。

 正面切ってやり合う相手ではない。

(はあ、まったく)

 ちらりとシーガーの様子をうかがう。

 彼女の主人は、デシーカ・デグランチーヌとなにかを話していた。

 遊んでいろと命じられたのなら、それを忠実に守るのが優秀な飼い犬の役割だ。

 売れ残っていた自分を買ってくれた恩には、報いる必要がある。

「ハーフエルフ。お互い、殴り合いでは埒が開きそうにないな」

「わたしはもう死にそうだけれど」

「そうかな? まだ猟犬の目をしている」

 人狼は値踏みするようにしてこちらを見た。

 ジャケットを脱ぎ捨てる。

 腰にはパンツスーツには似つかわしくないマガジンポーチ。

 そこには銃の予備弾倉ではなく、魔法図書の複製本が入っているはずだ。

「魔法戦闘といくか?」

「ちっ」

 イオは露骨に舌打ちした。

 用済みになった自動拳銃を投げ捨てて、右手を腰の後ろに回す。

 ベルトにねじ込んでいる魔法図書の複製本に触れた。

 だが、人狼のほうが早かった。

 複製本を取り出すなり、流れるようにして帯封を切る。

 そこに印刷されているロゴがどこのものなのかイオにはわからなかったが、ジェヴォーダン王国の突撃浸透大隊が使う魔法図書は検討がつく。

 複製本のページが勢いよく捲れあがり、記されている〈世界干渉言語〉――ワーズワースが使い捨ての魔法を発動させる。

 白紙になった複製本を人狼が投げ捨てると同時に、彼女の前方に渦巻く火柱が立ちあがった。

 熱波が空気を焦がし、火柱は瞬く間に収束してかたちを変え、犬にも狼にも見える燃える獣になった。

「やっぱり、〈ガルム・ウォー〉の魔法図書」

 イオは身構え、低くうなった。

 かつてジェヴォーダン王国が〈魔法図書塔〉に派遣した官民合同の探索部隊が原本を回収し、数年の歳月をかけて複製に成功した魔法図書。

 顕現する炎の獣――ガルムは使用者の周囲から離れることなく、一定の距離に近づいた敵に対して攻撃と防御を実行する半自立型だ。この特異な魔法はジェヴォーダン王国製の魔法図書複製本の最高傑作と称される。

「ではいくぞ」

 サーベルをゆっくりと構え、人狼は言った。

 炎の獣を従えた抜剣突撃。

 人狼の突進力とタフネス、魔法によって生み出されたガルムによる防御と牽制。

 連中はこれで敵の強固な塹壕線を切り刻んできたのだ。

 イオは腰の後ろに右手を回したまま、人狼とガルムを交互に睨んだ。

 ゆっくりと距離を詰めてくる。

(まずは犬をけし掛けるつもりね)

 先を歩くガルムが、攻撃に移るまであと一完歩。

 音もなく、姿勢を低くしたガルムが飛び掛かってくる。

 赤く燃える体躯が火の粉を散らし、空気が焦げる感覚だけがある。

 イオは小さく息を吐いた。

 腰の後ろから複製本を抜き放つなり、帯封を切る。

 捲れあがるページ、〈世界干渉言語〉が消え、すべてが白紙になる。

 複製本を投げ捨てると同時に、彼女の両手の拳に赤黒い炎が宿った。

 イオはガルムに向かって一歩を踏み込んだ。

 ほとんどぶつかるような距離。

 髪と肌がちりちりと焼ける。

 右の拳を、犬の顔面に横殴りに突き立てた。


 爆発。


 衝撃と爆音がアスファルトを吹き飛ばし、巻きあがった熱波で停車していた自動車がひっくり返る。

 断末魔のような派手なクラクションが鳴り響いた。

 ガルムが軽々と数メートルを吹き飛んで、四車線ある道路の中央付近まで転がった。

「犬は陽動……!」

 イオはすかさず人狼の姿を探した。

 この魔法の面倒なところは、陽動だとわかっていてもガルムに対処せざるを得ないところだ。結果、人狼の刃の露と消える。〈ガルム・ウォー〉を使用した大隊規模での突撃の威力たるや想像に余りあるが、一対一なのは不幸中の幸いだった。

 ガルムと入れ替わるようにして、人狼が右から飛び掛かってくる。

 銀灰色の視線に射抜かれて、イオは全身が痺れた気がした。

 野生の獣に睨まれたと錯覚するような気配だった。

 上段に掲げられたサーベルの白刃。

 その煌めきが眩しい。

 右腕一本くれてやる、とイオは思った。

 サーベルが振り下ろされるよりも先に、肘打ちの要領で右腕を白刃の根元にぶつけにいく。

 ぞっするほど抵抗なく、サーベルが右前腕に入っていく感触がわかった。

 痛みを感じている暇はない。

 威力を殺された一撃が骨に喰い込んでとまれば儲けもので、人狼の腕力があればそこから力任せに斬り捨てることができるだろう。

 だが、その一瞬で十分だ。

 イオは左腕に力を込めると、きつく拳を握った。

 白刃が喰い込んだ右腕を振り抜く反動で、左拳を斜め上に突きあげる。

 人狼がぎょっとした顔をした。

「実は左腕は使えるの」

 イオは淡々と言った。


 再度の爆発。


 衝撃と熱波が、再び周囲を震わせる。

 人狼が高々と宙に舞った。

「まったく……」

 肩で息をしても、荒い呼吸がちっとも整わない。

 右腕は奇跡的に切断されていなかった。

 サーベルが深々と喰い込んだ前腕からは、目眩がするほどに血があふれてくる。

 いまさらになってやってきた激痛のせいで、気を失うこともできない。

「……やるな、ハーフエルフ」

 吹き飛んだ先で大の字になったまま、人狼が声をあげた。

「ウソでしょ……」

 イオは愕然として頭を振った。

 近接戦では圧倒的な威力を誇る〈ティンパ商会〉の魔法図書〈ムスペル・カッツバルゲル〉を喰らって、まともに生きているとは。

 いや――いまにして思えば手応えは微妙に弱かった。

 あのタイミングから、咄嗟に身を退いて直撃を避けたのだ。

 だから、イオの右腕は切断されずに残っている。

 ルールーという人狼の戦闘センスには脱帽するしかない。

 厄介なことにガルムもまだ健在で、人狼の周囲を偵察兵のように歩き回っていた。

 勝負あったな、とイオは思った。

 魔法図書の複製本は大小姐ダーシャオチェからの選別だったあの一冊だけで、もうガルムの攻撃すら防ぐことはできないだろう。

 それに、出血のせいか意識が朦朧としてきていた。

 視界が霞む。

「シーガー、すいません」

 イオは命令を達成できなかった忠犬がそうするように、眉を八の字にして飼い主を見た。


 瞬間。


 ぱっと血煙。

 シーガーが派手にのけ反る。

 そのまま一歩、二歩と後退し。

 欄干に背中からぶつかり。

 遥か彼方に流れる川へと落ちていく。

 視界から、シーガーの姿が消えた。

「ああ、よかった」

 思わず、声が漏れる。

 デシーカ・デグランチーヌとの話は終わったのだ。

 その時間を稼ぐために人狼と遊ぶ必要は、もうない。

 彼女の意識をどうにかつなぎとめていた、飼い主からの命令を守らなければならないという使命感――あるいは強迫観念――のようなものが、ふっとなくなっていく。

 もう限界だった。

「シーガー、あなたの言うとおりね」

 自分は死ぬ。

「退職金は必要なさそうだわ」

 イオの意識はぷっつりと途絶えた。

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