8.だからどうした?

「〈エシェット・ロット〉から、よくもまあ生き残れたものだ」

 テロリスト訓練キャンプでの光景を思い出しながら、デシーカは眼前のドラクル人をしげしげと眺めた。

 あの訓練キャンプに派遣されていたガウロン神聖帝国の兵隊たちはエルフ人と一緒に塩になり、名誉の戦死という扱いになっているはずだった。

 実際、シーガー・ウォンも記録上は停戦の半年前に戦死している。

「俺はあの日、上官から見たこともない魔法図書の複製本を渡され、指定の時間に帯封を切るように厳命をされていた。そしてどうなったかは、あんたも知ってのとおりだ」

 シーガーが咥えている二本目の煙草は、半分くらいの長さになっていた。

「だが、俺は塩にならなかった」

 低く笑い、彼は言葉を続ける。

「俺以外の誰も彼もが、塩に変わっていく様を見ていた」

「ふーん。あなたは実に運がいい」

 デシーカは腕を組むと薄く笑った。

 テストでは帯封を開封した人間も含めて塩になっていたが、手書きの複製本だったために誤作動したに違いなかった。それで生き残ったのだ。

 ロレッタ・イェンの懸念はある意味で正しかった。

「俺の運がいいだって? 冗談はよしてくれ」

 シーガーは微苦笑を浮かべた。

「寝食をともにしてきたエルフ人の訓練生も、いっつもチョコレートをねだってくる難民のガキも、数分前に言葉を交わした仲間も、俺に命令をした上官も塩になった。まったくもって、ウソみたいに現実感のない光景だったぜ。だが、俺が殺したことに変わりはねえ」

 短くなった煙草と一緒に、言葉を吐き捨てる。

「そんなものを背負っちまって、俺のどこが、運がいいってんだ?」

「それでジャーナリストのまねごとをして、何年もあたしを探していたのか? 自分をそんな目にあわせたやつをぶん殴りでもするつもり?」

「まさか。俺はただ聞いてみたいと思ってね」

「なにを?」

「あんたは、毎日をどんな気分で生きてる?」

 震える手で、シーガーが三本目の煙草に火をつける。

「俺はあの日以来、まともに生きてる心地がしねえ」

 それが煙草ではないことに、デシーカはようやく気づいた。

「魔法図書の複製本を売りまくって、俺の何倍もの人間を殺してきた〈エルフの魔法商人〉。あんたにしてみれば訓練キャンプの数百人が死ぬことなんざ、ちっぽけなことかい? それとも、自分の手で殺してないから知ったことじゃねえ?」

「ウォン、それでカクテルをやってるなんて世話ないな」

 シーガーが吸っているのは、煙草となんらかの麻薬を混ぜたカクテルと呼ばれるものに違いなかった。

 戦場では精神を高揚させて疲労と空腹を忘れさせるために、あるいは恐怖やパニックに陥った精神を沈静化させるために、様々な薬物が出回っていた。煙草や火薬に薬物を混ぜるカクテルは、部隊ごとに様々なレシピがあるという。

「確かにあたしは自分の手で誰かを殺しているわけじゃない。けれど、それで無垢な善人だと言い張るほど厚顔無恥でもない」

 デシーカは薄く笑った。

「もっとも。数百人が死んだくらいでオタオタするほど、あたしの神経は細くない」

「そうかい。くっくっ、あんたが本当は罪悪感に苛まれている、心優しい白エルフなんかじゃなくてよかったぜ」

 シーガーは咥えている煙草――実際にはカクテルだったが――を揺らして、おかしそうに笑った。

「そんなに図太くなれるコツをお教え願いたいね。そしたら俺も、こんなものからオサラバできるだろうさ」

「呆れた。そんなことを言いたくて、あたしを探し回っていたのか」

 シーガー・ウォンは、あの日からずっと精神をすり減らして生きてきて、もうとっくに参ってしまっているのかも知れない。

 それでも、彼よりも遥かに多くの人間を自分の商品で殺してきたにもかかわらず、平然と生きているデシーカ・デグランチーヌという存在にすがることで、どうにかこうにか生きている。

 何年間も何年間も。

 だが、それももう限界になったのだろう。

〈D&D魔法通商〉の商品に手を出して、呼び出すようなまねをするとは。

 そんなことをすれば、どんな末路になるのか想像できないわけがない。

「ただまあ。あなたが犬のエサにもならない正義感や道徳心みたいなもので、あたしを糾弾するような輩でなくてよかったよ」

 デシーカは芝居がかった仕草で両腕を大きく開き、天を仰いだ。

 誰かがこう言う。

 神が争いのために人々から魔法を取りあげて本にして封印したにもかかわらず、〈魔法図書塔〉から原本を回収して複製本をつくるなどあってはならない。

 魔法図書の複製本は、戦争を激化させている原因のひとつだ。

 バカバカしい。

 デシーカは自分の切り落とされた耳にそっと触れた。

 世界に魔法がなかったとして、果たしてこの耳は半分にならなかっただろうか。

 耳と一緒に失ったあらゆるものは、まだ彼女のそばにあっただろうか。

 答えはわかり切っている。

 魔法があろうとなかろうと人々は争うことをやめないし、魔法以外の武器は世界中にあふれ返っている。あらゆる武器が世界から消えてなくなったところで、素手で殴り合うのが人の本質というものだ。

 まったくもって。

 このろくでもない世界。

 だが、世界をよくしてやろうなどとは、デシーカはこれっぽっちも思わなかった。

 おとぎ話の勇者でもあるまいし、そんなことはできっこないし、手に余る。

 それでも、権利はあるはずだ。

 こんなろくでもない世界をつくったやつを、ひどい目にあった分だけぶちのめす権利は。

「ウォン、教えてやろう。覚悟の問題だよ」

「……覚悟だと?」

「あたしには覚悟がある」

 デシーカは碧眼に強い意志の光を灯し、口を三日月型に大きく開く。

 ビジネス用のつくり笑顔ではない、ぞっとするような酷薄な笑みだった。

「目的のためなら何億人死のうが知ったことじゃない、覚悟が」

「金儲けのために?」

「バカな。金を儲けたいだけなら、魔法図書の複製本だけを売るものか。あらゆる武器を売り、麻薬を売り、燃料を売り、穀物を売り、物流網を構築し、生産拠点を支配すればいい。けれど、あたしはそうはしない」

 デシーカ・デグランチーヌは〈エルフの魔法商人〉。

 魔法図書の複製本だけを売る。

 命の危険も顧みずに〈魔法図書塔〉を探索し、魔法図書の原本を回収し、複製本をつくり、世界中に売り捌く。

「だったら。あんたは、なにをしようってんだ……」

 シーガーのつぶやきに答えるように、携帯電話の呼び出し音が鳴った。

 それはデシーカのジャケットからで、なにを意味しているものなのかは明白だった。

 配置していたスナイパーの排除が終わったという連絡だろう。

 電話に出たデシーカは、なにも話さずに報告だけを聞いた。

「んっふふ。お喋りの時間は終わりみたい」

 電話を切ると、彼女は右手の人差し指を立ててそっと自分の唇に当てた。

「おじさんとお喋りするのは趣味じゃないと言ったものの、それなりに楽しいお喋りだったよ、ウォン」

「そいつは結構なことだぜ、デグランチーヌ」

「死後の世界なんてものがあるのなら、土産話にするといい」

 デシーカは足音もなく、シーガーに近づいた。

 ほとんど聞き取れないような声でささやく。

 陽光がブロンドに反射して、彼女自身が光り輝いているかのようだった。

 まるで死後の世界へ誘う戦乙女のように。

「あたしは、神サマだかなんだかが取りあげた魔法を、奪い返して世界にばら撒く。神サマが怒って、もう一度魔法を取りあげようと姿を現すときまで」

「そんなバカな話があるかよ」

「あるかないかは知ったことじゃない。あたしはそうする」

「……それがあんたの目的なのか」

「そう。そして――」

 デシーカが最後の言葉をささやき、数歩を離れた。

「くっくっ……どうかしてる。狂ってるぜ、あんたは」

 シーガーは低く笑った。

 それが最後の言葉だった。

 彼の頭と胸部から、ぱっと血煙が舞う。

 スナイパーを排除したキルシェトルテが狙撃したのだ。

 シーガーの身体はぐらりとのけ反り、背中からぶつかるようにして欄干を越え、そのまま川へと落下していった。

 その様子を平然とした表情で見送りながら、

「そうとも、あたしは狂ってる」

 デシーカは言った。

「だからどうした?」

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