7.塩になった
「第七次図書塔紛争の末期。ガウロン神聖帝国北方自治領のテロリスト訓練キャンプを覚えてるかい?」
「さあ」
シーガー・ウォンからの問いかけに、デシーカは薄く笑って小首を傾げた。
腕時計にちらりと視線をやる。
正午から一五分が経過。
先行して地均しに出したキルシェトルテからは、まだすべてのスナイパーを排除できたという連絡はなかった。
ルールーはハーフエルフと睨み合っている。
相手の値段が本当に三億ロンガンだとすれば、その出自は限られる。ルールーでも少しは手を焼きそうだった。
つまるところ。
目の前のドラクル人の言うとおり、しばらくはお喋りをするしかないということだ。
デシーカは観念したかのように嘆息をした。
「その話をしたかったというわけ?」
「ま、そういうことさ。あんたは、はじめましてと言ったが。はじめてじゃねえんだよ。俺はその訓練キャンプで、あんたを見かけているからな」
「ふむ。あたしは売れっ子なので、いろいろなところに出入りしているからね。でも、あなたの言う訓練キャンプのことはよく覚えているよ」
「そいつは結構なことだ。俺は当時、訓練キャンプの教官の一人だった」
シーガーは低く笑って、取り出した煙草に火をつけた。
一拍の間を置くように、紫煙を吐く。
橋のうえを吹く風が、すぐにそれをかき消していった。
「なるほどなるほど」
デシーカはほっそりとした顎に手をやると、うんうんとうなずいた。
「あれの生き残りだったか」
少しばかり興味が出てきた。
この男が言う訓練キャンプは、黒エルフ独立派のテロリストを訓練するために設置されたものだった。
第七次図書塔紛争では、ガウロン神聖帝国は敵対していたオーベイロン王国の国内基盤を弱体化させるために黒エルフ独立派勢力を秘密裏に支援していた。
武器や資金の供与だけではなく、難民を偽装した独立派勢力を受け入れて訓練を施し、一人前のテロリストとして送り返していたのだ。
そして、武器や資金の供与は〈ティンパ商会〉を経由して複雑怪奇なロンダリングのうえで実施されていたが、魔法図書の複製本だけは別だった。
複製本は〈魔法図書塔〉から回収された原本をもとに大量生産されているが、複製本メーカーは世界でも数社しかなく、場合によっては国営企業だった。
魔法図書の複製本は、なんであれ出自が明白すぎるのだ。
テロリストに供与するにはガウロン神聖帝国と深いつながりのある〈ティンパ商会〉の商品を使うわけにはいかなかったし、ましてや軍工廠の複製本などもってのほかだった。
そこでデシーカ・デグランチーヌに声がかかった。
すでに彼女は〈エルフの魔法商人〉と呼ばれており、尖った耳は切り落とされていた。
デシーカは当時から有名人だった。
「〈ムスペル・ジャベリン〉が飛ぶように売れたなー」
懐かしそうに、彼女は笑った。
オーベイロン王国のエルフ人にも、ガウロン神聖帝国のドラクル人にも、ジェヴォーダン王国のガルー人にも売った。
戦場ではデシーカの売った魔法図書の複製本で、誰も彼もが殺し合っていた。
争いが絶えないことを憂いて人々から魔法を取りあげた神とやらが本当にいるのだとしたら、その冒涜によって怒りに震えたことだろう。
「あんたは、あの訓練キャンプの最後を知ってるかい?」
シーガーは短くなった煙草を川に投げ捨てた。
こちらを見てきた漆黒の瞳には、静かな諦観がある。
デシーカにとって、数ある仕事のひとつをことさらに覚えておく必要はないのだが。
あの訓練キャンプのことを、彼女はよく覚えている。
「ふふ。あたしの売った魔法図書の複製本で――」
その最後は一言ですべてを表すことができる。
「――塩になった」
あれはもう何年も前のことだ。
デシーカはガウロン神聖帝国陸軍の輸送ヘリに乗って、北方自治領の上空にいた。
回転翼が大気を叩くバタバタという轟音も、エンジンと吸気口の甲高いうなり声も、しばらく乗っていれば慣れてしまう。
だが、硬いシートの感触だけはいつまでも慣れなかった。
「デグランチーヌ、本当に大丈夫なのでしょうね?」
ヘッドセット越しに聞こえる品のある声に、デシーカは極上のつくり笑顔を返した。
「もちろんです、少尉。〈D&D魔法通商〉が扱う商品の品質は保証いたします」
「どうかしら。まだテストも十分ではないし、工場での量産もできないと聞いていますよ」
「お耳が早いですね。あれは〈世界干渉言語〉が複雑精緻にすぎて、複製本の量産はできない代物です。デジタルデータでも完全に再現できない。お売りしたものは、職人による写本です。昔ながらのね。テストしようにも、十分な数を確保することも難しい」
向き合って座っているドラクル人の女は、これみよがしに嘆息をした。
癖のない艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、ぱっつんにした前髪と切れ長の瞳。
お嬢様然とした上品さと合わせて神経質そうな印象を受けるのは、フレームレスの四角い眼鏡をかけているせいもあるのだろう。
オリーブ色の野戦服に隠れているが、彼女の首筋から背中には、ドラクル人の特徴である暗緑色の鱗があるはずだった。
「だから!」
いままでの控えめな口調が別人だったかのように、ドラクル人は声を荒げた。
「写本で大丈夫なんだろうなって話なんだよ、クソエルフ! 万が一にも、誤字脱字で魔法が発動しませんでしたじゃあ、お前の耳をさらに短くするくらいじゃあ足りねえぞ! ハーフエルフもどきが!」
「相変わらず口が悪いですねー、イェン少尉。すぐに地金が出るんだから」
「んんっ……とにかく」
わざとらしく咳払いをすると、ロレッタ・イェン少尉は元の口調に戻った。
「あの訓練キャンプは一切合切の証拠を残さず、可及的速やかに始末をつける必要があります。停戦交渉に影響が出てしまいますもの」
「んっふふ。いまさらジタバタしても仕方ありません。こんな命令を受けた少尉には、少し同情はしますけど」
第七次図書塔紛争の停戦に向けて各国の事務方が調整をはじめたとき、ガウロン神聖帝国内にある訓練キャンプは問題のひとつになった。
オーベイロン王国は黒エルフ独立派のテロリストを支援しているとしてガウロン神聖帝国を激しく糾弾したが、ドラクル人たちは当然ながら無関係だという主張を貫いた。
そして――停戦交渉の条件のひとつに、訓練キャンプの制圧と拘束したテロリストの引き渡しを要求されたとき、ガウロン神聖帝国における宰相以下の帝国指導部はすべてをなかったことにすることに決めた。
訓練キャンプを支援していたのは陸軍情報部の特務機関のひとつだったが、自分たちで開店させた店を閉店させる役割も回ってきたというわけだった。
ロレッタ・イェンが自身の所属する特務機関の上官から命じられた任務は、訓練を受けているエルフ人だけではなく、教官として派遣している同胞、純粋な難民キャンプと信じて出入りしている民間人まで、すべてを消し去ることだった。
物理的にも、あらゆる記録からも。
「そろそろ時間ですわね」
ロレッタが自身の腕時計の文字盤をこちらに見せ、軽く指差した。
双眼鏡を手にして、ヘリの窓から外を見やる。
デシーカはシートと身体を固定していたベルトを外すと、ロレッタの隣に移動して同じように双眼鏡を構えた。
一〇倍固定の望遠レンズの先に訓練キャンプの敷地が見える。
「複製本の帯封が切られて、魔法が発動すればすぐにわかりますよ」
ロレッタから言葉は返ってこなかった。
二人とも黙って窓の外を見ていた時間は、一分もなかったはずだ。
デシーカは気楽な面持ちだったが、ロレッタのほうはいやに長く感じているのか、露骨に舌打ちをしていた。
そして。
それは突然だった。
訓練キャンプの敷地で白い光が瞬いたかと思うと、光の柱が天を貫いた。
白い閃光に、目が眩む。
大地から天へと伸びた円柱の直径が、どんどん広がっていくのがわかった。
白い光が訓練キャンプの敷地をすべて飲み込み、それだけでは足りないとばかりにさらに周囲を侵食していく。
音も衝撃も、なにもない。
ただ静かに白い光が広がっていく様子は、幻想的ですらあった。
「おい! もっと距離を取れ! 巻き込まれたら洒落にならねえんだよ、ボケ!」
ロレッタがパイロットに怒鳴り散らす。
「大丈夫ですよ、少尉。もう終わります」
デシーカは冷静にその光景を観察していた。
言葉のとおり光の柱は直径を大きくすることをやめ、逆に収束をはじめた。
時間が巻き戻されるかのように。
「デグランチーヌ……」
双眼鏡から目を離してこちらを見たロレッタは、口元を引き攣らせていた。
「本当にこれで終わったのかしら?」
「はい。綺麗さっぱり、跡形もなく。ご確認されますか?」
光の柱はもう消えていた。
窓の外にはいままでとなにも変わらない光景が広がっている。
二人を乗せた輸送ヘリは高度を落とし、訓練キャンプの近くに着陸した。
季節は春だったが北方自治領はまだ肌寒く、ごつごつとした岩肌が剥き出しになった不毛の大地にはわずかな植物が根を張るだけだった。
「わたくしは敵国の兵士や工作員を何人も殺してきましたから、いまさら聖人君子を気取るつもりもありませんが」
訓練キャンプに足を踏み入れたロレッタは、眉間に皺を寄せて吐き捨てた。
「この光景は反吐が出ますわね」
そこいら中に、塩の山があった。
そのなかに埋もれているのは、服だ。
訓練を受けていたエルフ人の、あるいは教官として派遣されていたドラクル人の、とにかくもこの訓練キャンプにいた人間たちが着ていたものだ。
ほんの数分前まで人間だった彼らは、すべて塩に成り果てていた。
数百人、あるいはもっとか。
乾いた風が塩を巻きあげ、しょっぱい風となって吹き抜けていく。
ロレッタが顔を歪めた。
かつて人間だった塩の味。
「げぇ……うげっ!」
その不快感を堪えきれず、彼女はその場にうずくまって胃のなかのものをぶち撒けた。
「んっふふ。泣く子も殺す〈ラウ機関〉のイェン少尉もお可愛いところありますね」
「……うるせえよ。いい加減、わざとらしいその丁寧な言葉遣いをやめろ、クソエルフが」
「いえいえ、一応は仕事だし?」
デシーカは近くにあった塩の山に歩み寄ると、しげしげと眺めた。
それがテロリスト候補だったのか、本物の難民だったのかはわからない。
さらさらの塩を鷲掴みにして、彼女は薄く笑った。
「魔法図書〈エシェット・ロット〉の複製本。生き残りはいないはずです。テストでは使った人間もろとも塩になった」
「デグランチーヌ……」
「任務達成おめでとうございます」
デシーカは掴んだ塩をばら撒くと、軽く拍手をした。
「これで昇進ですね、イェン――中尉」
「デグランチーヌ!」
ロレッタが力任せに胸ぐらを掴んでくる。
ぎりぎりと締めあげられて、足が地面から浮くのではないかと思えるほどだ。
だが、デシーカは平然としていた。
むしろロレッタのほうが、落ち着きなく視線を泳がせている。
それは訓練キャンプにいた全員を、こんなに簡単に殺せてしまったのかという恐怖のようにも思えたし。平然としているデシーカに対する恐怖のようにも思えた。
「落ち着いて、ロレッタ・イェン」
デシーカは胸ぐらを掴んでいるロレッタの手に、そっと自分の手を重ねた。
諭すように、静かな声音でささやく。
「どの道、選択肢はなかった。訓練キャンプにいる一人ひとりを銃で撃ち殺して、穴を掘って埋めますか? それとも高価な魔法図書の複製本を使って、焼き尽くすとでも?」
ロレッタの手をやんわりと解き、彼女は続けた。
「そんな方法がうまくいくはずがないことは、ロレッタもよくよくわかっているはず。それに、戦場でもない場所で人を殺す重荷を背負い続ければ、あなたが壊れてしまう。だから、こうしてあたしを使った。仕方ない。〈エルフの魔法商人〉の提案に乗るしかなかった」
「デグランチーヌ、わたくしは――」
「別にいいんだよ、ロレッタ」
デシーカの口調は、いつの間にか気安いものに変わっていた。
「あなたのことは割と好きだしさ。いくらでもあたしを言い訳に使うといいよ。少しは気楽になるでしょ?」
「あなたは、本当にえげつない女ですわね。蛇のように、人の心に入り込んでくる」
「んっふふ。お褒めにあずかったと思っておこう」
「ますます嫌いになりますわ」
「えー、友達じゃんかよー」
「誰が友達なものですか」
深々とした嘆息をもらすと、ロレッタはずれていた眼鏡をそっと押しあげた。
見渡す限りの塩の山。
それらはやがて、風雨によって跡形もなく消え去る。
ガウロン神聖帝国北方自治領のテロリスト訓練キャンプなんてものは、存在しなかった。
真実がどうであれ。
それが事実であり、現実になる。
「第七次図書塔紛争も、もうすぐ終わるね」
「どうせまた、わたくしたちが生きているうちに始まるでしょう」
「それは違いない。でも、神サマなんてものが本当にいるとして、争いをなくすために魔法を取りあげたわけじゃん?」
「生憎とわたくしは神学論争には興味ありませんの」
「あたしだって興味はないよ」
デシーカは頭の後ろで手を組んで、くすりと笑った。
「たださ。あたしが神サマだったら怒り心頭かな。世界は未だにこんなにも血と暴力に満ちているし、取りあげて本にした魔法は塔を荒らされてもっていかれたうえに複製されるし」
デシーカの声は小さくなり、途中からほとんど独り言のようになっていた。
「こんな愚かな人間たちを、いつまで放っておくつもりなんだろうね」
「なんですって?」
風の音でこちらの言葉が聞き取れなかったのか、ロレッタが声を強くした。
「なんでもない。ロレッタは胸ないけどお尻大きいから、揉ませてほしいって話」
「は? 頭のネジが飛んでますの?」
「いいじゃん。デカケツ揉ませろよー」
「デカケツ言うな!」
半年後――第七次図書塔紛争は停戦した。
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