2.戦争をしましょう

 金銭欲に駆られた野心家たちが、あるいは名誉欲に駆られた冒険家たちが、〈魔法図書塔〉の攻略に挑みはじめたとき、巨大な塔の周囲はなにもない荒野だった。

 だが、塔の探索を目的に人が集まれば、彼(あるいは彼女)たちを目的にした商人が集まり、商人を目的にさらに人が集まる。

 やがて塔を中心に、世界中の国から様々な人種が集まる街が形成された。

〈図書塔都市〉と人は呼ぶ。

 あらゆる国の企業が進出し、人種と言語と文化が混ざり合った。

 自由と混沌。

 成功と失敗。

 正義と悪徳。

 富と貧しさ。

 ここにはなんでもある。

 いまや投資と開発に次ぐ開発によって新市街には高層ビルが乱立し、あふれ返った自動車は慢性的な渋滞と排気ガスによる環境問題を起こし、テレビとラジオと電子ネットワークは人々に絶え間なくニュースや娯楽を提供していた。

 一方で増え続ける人口の大半が身を寄せるようにして暮らしている旧市街は、違法建築による増築に次ぐ増築で迷宮と化して、低所得者と犯罪者予備軍の巣窟のような有様だった。

 なんにせよ。

 この街に暮らす誰もに共通していることは、天まで届く〈魔法図書塔〉から見おろされ、あるいは見あげ、毎日を過ごしているということだった。

 それだけは、ここ数百年変わらない。

『――のように、オーベイロン王国の首都で行われた黒エルフ独立派勢力によるデモは、治安警察の発砲を機に一転して大規模な武力衝突となりました! いま現在も戦闘が続いているものと思われます。王国政府高官が軍を動員することを示唆したとの情報もあり、今後の状況は予断を許しません。黒エルフ独立派の最大勢力である〈ヤドリギと自由〉は声明を発表し――』

 テレビから聞こえるニュースキャスターの声をぼんやりと認識しながら、硬いベッドで寝返りを打つ。

 どうやらテレビを点けっぱなしにして、寝落ちしてしまったようだ。

 深夜のくだらない通販番組は、なぜ買う気もないのに見てしまうのだろう。

「んー……」

 シーツに包まれた身体をもぞもぞさせて、彼女は思い切って上半身を起こした。

 寝起きはとてもよいほうだ、と自負している。

 画質の悪い年代物のブラウン管テレビからは、朝のニュース番組が流れてきていた。

〈図書塔都市〉の旧市街にあるホテルの狭い一室だ。

 天井は低く、空気は澱んでいる。

 部屋はベッドとテレビで精一杯。

 ちっとも冷えない冷蔵庫は、もはや詐欺のレベルだ。

 サイドテーブルの上は雑然としており、飲みかけのコーヒーが入ったマグカップ、吸い殻が山になっている灰皿、煙草の箱とライター、機種が違う五台の携帯電話、最新のノート型端末、散らかった書類。

 それらがいまにも崩れ落ちそうになっている。

 一緒に置かれている名刺にはこう書かれていた。


『D&D魔法通商

 デシーカ・デグランチーヌ』

 

 住所も連絡先もない。

 だが、そんなものは必要ない。

 彼女のことは、彼女に会いたい誰も彼もが知っている。

「シャワーでも浴びようかなー。ちゃんとお湯が出るといいけど」

 ベッドからするりと抜け出し、デシーカはどこか楽しそうに笑った。

 軽い足取りで歩き、カーテンをさっと開ける。

 残念ながら、見えるのは絶景ではなく隣の安ホテルの薄汚れた壁だ。

 窓ガラスに映り込む自分自身の姿に、彼女は笑った。

「おー、今日もいい女じゃん」

 シンプルな下着だけを身につけた、すらりとした長身の女がそこにいる。

「寝癖ひっどいけど」

 デシーカはこの空間には場違いなほどに美しかった。

 腰まで伸びたきらきらと輝くブロンド。

 吸い込まれそうになる澄んだ碧眼。

 無駄な贅肉のない身体。

 真っ白い肌。

 顔のパーツ一つひとつはしっかりと主張しながらも、芸術的なバランスで美しく配置されている。

 女優だと言われれば、誰もが信じるだろう。

 ただし、長い耳が半分になっていなければだが。

 彼女は正真正銘の純血のエルフ人だった。

 だが、その特徴である長く尖った耳は半分しかない。

 両耳とも明らかに、刃物で切り落とされている。

「やってるやってる♪」

 デシーカはテレビに視線をやって、半分だけになった耳をひこひこと動かした。

 テレビから流れてくるオーベイロン王国の首都で起こっている武力衝突は、近年では最大規模のものになりそうだった。

 あの国は人口の一割程度の黒エルフたちを自治州に押し込めて差別的な政策を取ってきたが、いまや国内の独立派を第三国の勢力が秘密裏に支援して深刻な内政問題になっている。

「んっふふ。はやく内戦になれよー」

 その声音は明るく軽いものだったが、かえってそれが恐ろしかった。

 彼女の目の奥は、これっぽっちも笑っていない。

「いい感じに薪をくべてやるからね」

 そうつぶやいてブラウン管の向こう側のことを考えていると、サイドテーブルに置いてある携帯電話のひとつが着信を知らせる無機質な電子音を鳴らした。

「はいはーい」

 デシーカは電話をかけてきた相手の名前を確認して電話に出た。

「キルシェ、モーニングコールなんて珍しいじゃん」

『デシーカちゃん、おはようっす』

 陰気な女の声。

 電話をかけてきたキルシェトルテ・ルクスは、彼女が代表を務める会社――〈D&D魔法通商〉の従業員だ。

 肩書きはマネージャー兼ボディガードといったところか。

 上司と部下ではあるが、畏まった関係というわけでもない。

 親しい仕事仲間か、あるいは数少ない友人と言ってもいい、とデシーカは思っている。

『実は部屋の前にきてるっす』

「悪い知らせ?」

『ひひ、悪い知らせ』

 朝イチに電話でこちらを叩き起こそうとしたうえで、盗聴のリスクも考えて電話で話せないことと言ったら悪い知らせしかない。

「映画とかならさ、いい知らせとセットじゃない、普通?」

 デシーカは電話を切ってドアを開けた。

 携帯電話を片手に立っていたのは、褐色の肌をしたエルフ人の女だった。

 いわゆる黒エルフだ。

 オーベイロン王国の自治州以外にも、黒エルフは存在している。

 きっと天真爛漫だった少女時代は、さぞ可愛らしいと褒められたに違いない。

 そんな面影だけは残っていた。

 いまはばさばさのブロンドに、どんよりした碧眼。

 引き攣ったような笑顔。

 そして、ひどい猫背だ。

「世の中、いい話なんてそうそう転がってないんすよ」

 キルシェトルテはショートパンツに棒タイを締めたブラウスという、オシャレ上級者のような格好をしていたが、羽織っている薄汚れた軍用トレンチコートがすべてを台無しにしていた。

 そのトレンチコートのポケットに携帯電話を入れると、彼女は陰気に笑う。

「でも、デシーカちゃんの下着姿、マジで眼福っす。これはいい知らせ。視姦したい」

「もうしてるじゃんかよー」

「いいじゃないっすか。減るもんでもなし」

「まあ。あたしの下着姿で、従業員満足度があがるなら安いものだけどさ」

「ひひ、デシーカちゃん、マジ天使。デシーカちゃんしか勝たん」

 キルシェトルテのいやらしい視線を全身に感じながら、室内に招き入れる。

「うわあ、くそ狭い部屋。埃っぽいし、壁薄いし、勘弁してほしいっす」

「昨日の夜は隣の部屋で、連れ込まれた娼婦のお姉さんが喘いでたな。最悪だよ」

「さもありなんって感じっすけど、なんか嬉しそうっすよ」

「あたしはさ、この最低の空気が好きなわけ」

 本当はこんな安ホテルではなく、〈図書塔都市〉で一番の高級ホテルにだって泊まることができる。

 だが、そうはしない。

 彼女はこの街の澱んだ空気が好きだったし、どれだけ成功したとしても忘れてはいけないと思っている。

 野垂れ死ぬ寸前に辿り着いたこの街で、彼女は生まれ変わって人生をやり直すことにしたし、それはいまも続いているのだ。

「ホント、趣味悪いっす。わたしならこんなところ、一秒もいたくない」

「うるさい。それで悪い知らせって?」

 デシーカはサイドテーブルにあった煙草の箱から一本取り出して、そっと咥えて火をつけた。

 寝起きは特に吸いたくなる。

 禁煙には何度も挑戦しているが、いつも失敗していた。

 キルシェトルテがテレビから流れているオーベイロン王国でのニュースに視線をやっているのに気づき、彼女はうんざりした顔になった。

 紫煙と一緒に言葉を吐く。

「これ絡み?」

「お察しのとおりっすね」

「うえー、いやだな。聞きたくないよー」

 黒エルフ独立派の最大勢力である〈ヤドリギと自由〉からの依頼で、デシーカは魔法図書の複製本を用意した。

 その数、ざっと五〇〇〇冊。

〈ムスペル・ジャベリン〉と呼ばれる魔法図書で、投擲用の炎の槍を生み出す魔法だ。〈D&D魔法通商〉の主力商品であり、使い勝手が良く、トーチカを爆砕できる高威力。かつ安価。

 各国の正規軍や警察、果てはテロリストから犯罪組織にだって使われている。

「値引き交渉とか、そういう次元の話ではなさそう?」

 キルシェトルテの表情をうかがい、媚びるような上目遣いになる。

 そんなことで、悪い知らせが変わるわけもなかったが。

「奪われたっす」

「は?」

 前置きもなく端的に告げられた言葉に、デシーカは間の抜けた声をもらした。

 それに合わせて、咥えていた煙草が床に落下する。

「奪われた?」

「〈ヤドリギと自由〉に納品予定だった魔法図書の複製本、全部」

「いやいや。ちょっとまって。全部? そういう情報があったから、護衛をつけたじゃん! 高いお金払ってさ!」

「皆殺しっす」

「は?」

「全滅。やっぱりダメっすね。業務委託の戦争屋は、肩書きすごくても実戦になるまで質がわからないっす」

「うーわー」

 デシーカはベッドにダイブすると、頭を抱えてごろごろと転がった。

「えー、もー、なんなの? あたしに恨みあるなら、堂々と殺しにきなよー。商品を奪うとか最低のいやがらせじゃん。卑怯、陰湿、死ね!」

 転がりながらひとしきり呪詛のようなうめき声をもらす。

 代金は前金で半分を受け取っているが、予定どおりに納品されないとなると誠意を見せる必要がある。さしあたりは残り半分は受け取らずに、早々に代わりの商品を用意する。

 だが、そうしたところで会社とデシーカの信用には大きな傷がついてしまう。

 信用というものは、どれだけお金を払っても買うことはできない。

 そして。

 なによりも問題なのは、黒エルフ独立派勢力の〈ヤドリギと自由〉に魔法図書の複製本が納品されなければ、武装蜂起は早々に鎮圧されてしまうだろう。

 戦力を程よく均衡させて、オーベイロン王国の軍や警察に営業を仕掛けるチャンスが失われてしまう。

「はああああああ……」

 深く深く嘆息すると、デシーカは転がることをやめて身を起こした。

 美しい碧眼には、底冷えする光が灯っている。

「それで、あたしに喧嘩ふっかけてきたのはどこの誰なわけ?」

「それなんすけど」

 キルシェトルテは床に落ちている煙草を拾うと、吸い殻だらけの灰皿に突っ込んで火を消した。

「〈ムスペル・ジャベリン〉の複製本、五〇〇〇冊。拾ったから買い取って欲しいって連絡がきてるっす」

「それはまたご丁寧なこと」

 自分たちで奪っておいて、こちらにそれを売りつけようとするとは。

 だが、デシーカが逆の立場でもそうしたかもしれない。

 奪われた商品を買い戻せば納期には間に合う。

 利益はまったく出ないが、信用だけは守られる。

「足元をさ、見られまくってんじゃん。むー」

 デシーカは低くうなった。

 こちらが買い取りを拒否するなら、それをそのまま困っている〈ヤドリギと自由〉に売ればいい。格段に安く。

 それでオーベイロン王国のマーケットに橋頭堡を築ける。

 喧嘩相手のやり口は、実に鮮やかだ。

「キルシェ、ルールーを呼んで」

 ただ、少し勘違いをしているとすれば。

「もう事務所に呼んでるっす」

「よろしい。定期的にわいてくる、あたしを舐めたこういうバカどもには、しっかりとわからせないといけない」

 デシーカは単刀直入に言った。

「戦争をしましょう」

「ひひ。らじゃー。過激なデシーカちゃん、好きぃ〜」

 彼女は大胆だし、好戦的なのだ。

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