36 遭遇
職員室は東棟一階にある。扉は二つ、中庭前廊下とカフェテリア側にある。カフェテリアは学生食堂、北棟昇降口に繋がり、学食の前を抜けると北棟階段と正面受付がある。
その職員室は、教員達が各席でまるで麻酔薬でも吸わされたようにぐったりとしていた。
その中で涼しい顔をしているのは二人、フォン・ラヌイとディエリ・ラヌイであった。
二人の格好は既に現代地球のものではなく、始めて地球に降り立ったときと同じ、紫のフードローブと青の衣に仮面という姿である。二人は既に帰り支度を済ませたのだ。
その格好でフォンは教頭席でパソコンに向き、ディエリは床に座して護摩行のように触媒を焚いている。
パソコン画面に表示されているのは、校内の監視カメラの閲覧画面だった。校舎外の監視カメラでは、先程まで『手駒』が次々とジャージの二人組に拘束されるのが映っていた。
一方で、既に勇者の転生者が北棟三階に上がったことも確認していた。北棟階段の監視カメラに、剥離した霊性を背から燻らせたジャージ姿の眼鏡の少年が今も映っている。
三階に配した幻術の領域は、教室に籠もった生徒を廊下に引き出し、最悪の事態においては人の壁として警官隊を阻ませる他に、名乗り出た者が自己犠牲心の持ち主や異世界に憧れて素性を騙る者でないかを見極める意図があった。
そして、現れたのは紛れもない本物だった。
「さて、そろそろ頃合いかの。校舎の外の者たちは先に連れて行ってやってくれるか」
フォンがそう言うと、ディエリは一つうなずいてぶつぶつと術を唱えて手を打った。
次の瞬間、窓の外に手持ち花火の燃えるような音が発った。
その時、校舎外で拘束された侵入者の周りの地面に火花の輪が生じていた。その輪の中に生じた暗闇にすっと落ちるように侵入者は消えた。だが、監視カメラの映像には術の火花も暗闇も映っていない。まるで地面に飲まれるように人が次々と消えた。
「先程から外の連中を取り押さえて回っている二人組、ヨウの後生と同じ服だな」
「おそらく、学校の指定の運動着かなにかでは」
「そうだとすれば、示し合わせてヨウの後生は陽動となっている可能性もある」
「ではどうしますか」
「お前はヨウのもとに行って、説得してみなさい。外の二人が校舎に踏み込んで来るようであれば、中に固めた者達と私でしばらく相手をして様子を見てみる。あれらの中には、いくらか前世で魔力を使えたものがいるからな」
そう言われて、ディエリはひとつ頷き、触媒に焚かれている火皿を掴んだ。
魔力触媒の燻煙は燃え尽きた線香のように止まり、火皿ごと青い衣の袖口におさめた。
「世界間を渡るのに十分な触媒を焚いておきました。頃合いを見て合図をください」
「そっちで話がついた時は携帯を鳴らしてくれ。それでこちらも合流する」
そういい交わして、二人は立ち上がり、カフェテリア側に出た。
すぐ先に見える昇降口では、靴がつむじ風に巻かれた木の葉のように転がっていた。
「二人組の片方は念動力使いか……すぐそこまで来ているようだ、急ぎなさい」
フォンにそう言われて、ディエリは小走りに学食の方へと走っていった。
フォンは手をすり合わせて、地球人には本来聞き取れない声で何かを唱えた。
途端、連なった下駄箱が両端からドミノ倒しにがたんがたんと傾いてぶつかる。それが靴の渦巻く一角に圧し掛かりかけた時、その両側二台が踏ん張るように傾いで止まった。
倒れる下駄箱の音に駆けつけるように、ひとりまたひとりと金属バットや角材を手にした大人達が現れ、それを取り囲んだ。
下駄箱が無数の靴で押し返されてがたんがたんと戻っていく。そうして露わになった真ん中を通って現れたのは青いジャージ姿の赤毛の大柄な少年だった。桜塚航真である。
ほどなく、全ての下駄箱の中身の三割ほどの革靴がふわりと浮き上がり、航真の側を回遊し始めた。そしてその半分ほどが四方に散り、数足ずつの編隊となって武装した部外者達を取り巻き、方々から蹴りつけるように突撃を始めた。
北棟三階の廊下に一歩踏み出して、遥歩は背中が炙られるような痛みを感じた。
それをこらえて、一歩また一歩と踏み出す。
背中に感じる痛みは、前世で幾度となく感じた痛みだった。魔法を身に浴びた時、心身に傷を追う代わりに感じた痛みである。その感触からして、ここは紛れもなく高濃度の魔術が付与された領域だった。いわゆる結界のようなものである。
(本当にこんなところに二人はいるのか?)
魔術に侵された先輩達が、教室の戸口から一人また一人と出てくる。
それが道を塞ぐのを見て、遥歩は顔をしかめた。
(無理に通って、先輩たちが怪我するような魔術が仕掛けられてたら洒落にならない)
そう思い、遥歩は一度階段まで引き返すことにした。
閉ざされた防火シャッター脇の防火扉を押し開けて階段に出ると、背中の痛みがすっと軽くなるのを感じた。どうやら結界の範囲はこのシャッターで区切られているようだ。
階段に座り込み、ふうと息をつく。額には霧を潜ったような汗が張り付いていた。
それを手で拭うと、階下の方の防火扉が開け閉てされる重たい音がした。
びくりとして身をすくめた。
ここでは隠れる場所がない。そう思いながら、ひとまず三階側の踊り場の隅に屈んで身を潜めた。手すりの間にはめられた飾りの鉄柵越しに見下ろした中三階の踊り場には、相変わらず金槌を手にした女が呆然とした顔でぐるぐる歩き回っている。
(あの女の手から金槌だけでも取り上げて、武器にしといたほうがいいか)
そんな考えが一瞬よぎったが、それを実行するより先に、二階から中三階へと登ってくる頭が見えた。
その姿を見て、遥歩は唖然とした。
青い衣に暗い枯れ草色の髪、体格からしておそらく男。仮面をしているが、その後姿の体格には見覚えがあった。
男は踊り場に来ると、金槌女の肩をとんと突いた。次の瞬間、女の体の周囲に仕掛け花火のような火花の輪が生じ、それをまたぐように女はゆらりと一歩踏み出した。
火花の輪を通ると同時に、女は手品のように消えた。そして輪もぱっと燃え尽きる。
男は、屈み込んで火輪の下にかすかに残った燃え滓のような灰をつまんで何かを確かめてから、頭の後ろで結んだ仮面の留め具を外した。
露わになった二対の目の横顔は見覚えがあった。いくらか年をとっているが、間違いない。
前世の双子の弟だ。
「ディエリ」
思わずその名をつぶやくと、青年はすっとこちらを仰ぎ見た。
階段を早足で上がってくる。そして、角の隅にかがんだ遥歩と遭遇した。
「今、なんと?」
前世の世界の言葉ではなく、日本語だった。それが遥歩には少し意外だった。
『ディエリ、なぜニホンゴを話せる』
遥歩はとっさに前世の言葉でそう口走っていた。
それを聞いて、青衣の青年は満面の笑みを見せ、両手を広げて迫ってきた。
遥歩が戸惑って身をすくめると、彼は両腕で背中を丸めた遥歩を抱擁した。
『ずっとあなたを探していました。ヨウ』
遥歩はその感触に敵意はないと感じて、安堵と同時に、気まずくなって咳払いをした。
青年はぱっと体を離して、階段のあたりまで下がり、深々と一礼した。
「お元気そうで何よりです。兄上」
遥歩は立ち上がり、側に歩み寄った。背丈はディエリの方が大きかった。これは遥歩が成長途中というのもあるが、ディエリもヨウも一般的な日本人男性より身長があるせいだ。
遥歩はひとまず階段に腰掛けた。ディエリも自然ととなりに座る。ディエリは目線を合わせるようににわかに背を丸めた。
「俺は死んだ。今は元廣遥歩だ。もうあなたの兄の、ヨウ・ラヌイではないよ」
ディエリは一瞬目を見開いて、何かこらえるように目をうるませて黙った。それから何かを飲み込むようにうなずいた。
「確かに、そうといえばそうです。けれど、あなたはこうして私を思い出してくれた」
「いつから探してた」
「あなたが亡くなって、半年と経たないうちから……父上が青衣衆の道院においでになられ、ヨウを探したいから来てくれと……転生しても、あなたには消えない痕跡があったので、それに関わる話を異世界からの渡来人から耳にするたびに、その世界へ向かいました」
それを聞いて、遥歩はジャージの上を脱いで、ティーシャツの袖をめくって背中を見せた。赤く樹形の腫れ物が浮いている。
「これか」
ディエリはうなずいた。
「ほかにも護符とか、そういう追跡可能なものを辿りましたけどね……地球に来たのは、地球からの転移者が魔力や魔術について迷信やまがい物程度の知識しか持ち得ないので、逆に埋もれているのかもしれないとヤマをかけたからです。この世界は異世界の存在を伏せた社会を構築しているようなので、前世を思い出すことを一般化させるところからはじめました。その下地づくりにいろいろやったんですよ。物乞いや詐欺師のような真似をして暮らし、想い人が夢に出てくる動画や、雪景色を夢で見られる動画を作ったり」
「……待った、ユメ動画も親父殿の仕業か」
「はい。前世を夢で追体験する動画を流すにあたって、その影響力を高めるためです」
遥歩はあきれて遠い目をした。
「動画のおかげで、一度痛い目にあったよ……そうか、あれは幻術への拒絶反応か」
ディエリはうなずいた。
「私達が兄上を見つける決め手になったのが、おそらくその痛い目です。今ももうもうと背中から立ち上らせていらっしゃる」
「……何を考えて探しに来たのかは知らないけど、今の俺は多分期待外れだよ」
「そう言わないでください。話だけでもきいてください」
そう言われて遥歩はうなずいた。
「そのつもりでここに来た……あっちで一体何があった?」
ディエリは少し考えて、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「ええと、こちらの世界で言う、環境問題、ですかね」
「それは犯行声明の動画で聞いたよ。『勇者式』の装備が軍隊にでも採用されたか?」
「それもあります。この一七年で『双龍の輪』の大気中の魔素は桁違いに増えています。武器製造に携わる鍛冶屋の多い地域では、窪地に瘴気が湧くほどです」
「魔物の世界はどうなってる」
「減少し、人間の入植領域が広がってます」
「魔物が狩りつくされ、縄張りの支配者が絶滅し、空いた土地を人間が開拓してる、と」
「そういうことです」
それを聞いて、思わず遥歩は顔を覆った。
「瘴気を減らすのに魔物が必要だって、向こうの世界の人間には知れ渡ってないのか」
「学のあるものは皆知っています。為政者も知った上で無視しているのです。そんな事よりも人間同士の戦争のために魔物の触媒を多用した武器を生産する方が重要だと」
「国益と防衛力の強化か」
「はい、まさにそうです」
「それで、元『勇者』に何をさせようと? あっちの世界に戻って、グレタ・トゥーンベリの真似でもしろと? 週に一度学校休んで、王宮の前で座り込みと演説会でもするか?」
それをきいてディエリは失笑した。
「まさか、その手の活動なら、あなたをわざわざ探したりはしないでしょう」
『スヴェン卿はなんと?』
『今はお勤めを嫡男シヴ殿に継がれて、ご隠居なされています。それでも聞く限りでは、スヴェン卿ご自身が生きているうちに臨界が発生する可能性があると』
『臨界』ときいて、遥歩は一層表情を暗くした。
臨界とは、世界が単独世界として存在するための自己保存の臨界である。例えば異世界からの侵略。あるいは自世界が単独で秩序を保つことができなくなり補填する要素を求めて異世界への侵略。多元並行世界との交流が交雑した集線地点化。もしくは世界そのものが破綻してしまったために、世界を統べる種族が異世界へ総難民化する事態である。
遥歩の前世の前世はこの臨界によって消滅した。消滅した世界の根幹となる存在が転生したのが、遥歩の前世『ヨウ・ラヌイ』である。『地球』で言えば、星そのものが転生したようなものだ。
「俺については?」
「……私も詳しくは知りません。ただ、魔物世界を再び統合する存在が必要だと」
「『魔王』か。それを殺しておいて、人間の手でもう一度擁立しようと」
「はい、できればあちらの人間世界と意思疎通が可能な存在とで」
そこまで聞いて、ようやく納得したようにうなずいた。
「それで『俺』か」
「はい……」
これを聞いて遥歩は呆れたように額に手を当てた。ディエリは続けた。
「父上とスヴェン卿のお考えは、あなたを新たな魔王とし、魔物世界を再統合させることです」
それを聞いて、遥歩は真正面から自分の二倍は年をとった前世の弟と向き合った。
「さっきも言ったが、ヨウ・ラヌイはもう死んだんだ。今の俺は元廣遥歩。勇者なんかじゃない。ただの高校生だ。それにこっちの世界はこっちの世界で問題を抱えてる。自分の世界のことはその世界で生きてるものの手で……」
そこまで言ったところで、階下から雷のような轟音があがった。
遥歩は思わず口をつぐみ、二人は立ち上がって階段の手すりごしにわずかに見える階下を見下ろした。ほんのりと白く煙っているように見えた。
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