27 航真、途方に暮れる

 屋敷に着く頃には雨は止んでいた。門前で車を停めて尸遠が屋敷の警備室に電話をかけると、正門の門扉が自動で開いた。玄関先では下足番が待ち、車を正面口に誘導する。

 尸遠と代表が先に車を降り、玄関先に出てきたスーツ姿の新発田と挨拶を交わす。

 そして代表に車の中の航真が手招きされる。

(大丈夫だ。すぐに戻ってくるからしばらくおとなしくしてて、な?)

(はい、母上……狭い檻はあまり長く居たくないです。お早くお願いします)

(ああ、わかってる)

 狭いクレートの中の前世の我が子と言い交わして、車の後部席を降りた。

 航真は代表に連れられて、ケージの状況を見るために母屋へと通される。

 玄関先で眼光鋭い目鼻立ちのくっきりした日焼けした肌の老人に出迎えられた。

 航真は初対面だったが、その顔は、何度かサブカル雑誌や教科書で見たことがあった。この老人が巻島一元、尸遠の祖父である。

 二人は祖父と孫、そして新発田の三人に連れられて一階の南向きの一角に通された。

 ケージはいわゆるサンルームと呼ばれるような、大窓の部屋の隅にあった。大型犬用の業者製最大サイズのもので、中にはすでに寝床用のマットまで用意されている。

「……性格次第ですが、屋敷の中では繋がずにおくつもりです。それが難しい場合……」

 新発田の説明を航真は代表のお供としておとなしく聞いていた。話は犬の生活の当面の方針、ワクチン接種の予定、自治体への届け出などに及び、一通り確認を終えたところで、代表は納得した様子を見せた。

「そうですか。おおよそ問題なさそうですね。そろそろ連れてきましょう」

 そう促されて、航真は先回りするように車へ戻った。クレートを開き、首輪にリードをつないで車から降ろす。

(いいか、飼い犬っぽく振る舞ってくれ)

(え、母上が一緒じゃないんですか?)

(事情が変わった。お前はしばらくここに置いてもらう)

 これをきくや、大犬は玄関先に座り込んできゅーんと鳴いた。航真はなんともいたたまれない顔をして、仕方なく出会った時のように抱きかかえて屋敷に上がった。

(私はいやですぅ、母上と会うために世界を渡ってきたのに!)

(たのむ、我慢してくれ。おとなしくしてればきちんとご飯ももらえるから)

(食べ物など自分で取れますぅ)

(そんなに痩せて何を食べて生きてきた? せいぜいネズミや小鳥だろう? そんなんじゃ体を壊しちまう。それじゃあ駄目だ)

「あらあら、どうしたの?」

 様子を見に来た代表にそう問われて、航真は苦笑した。

「俺と離れると分かったらしくて、急に座り込んで駄々をこねはじめたんです」

(せめて体力が回復するまでこの家で英気を養うんだ。ひどくされたら逃げてくればいい。俺の匂いはわかるだろ? 俺の家に逃げてくればきちんと迎えてやるから。な?)

 そう諭されて、サンルームの入り口に降ろされると、大犬はしっぽを垂らしてとぼとぼとリードに引かれるままに部屋に入った。

(またこの網の小屋に入るんですか?)

(すまん)

(ほんとにひどくされたら脱走しますからね? 母上)

(ああ、それでいい。それでいいから)

 そう交渉を重ねると、大犬は自らケージの中に入り、すんなりとマットの上に座った。

「あら、いい子ねぇ」

 代表にそうおだてられる横で、一元がケージの戸口にかがみ込んで、そっと手を入れた。

(噛むなよ)

 航真が眼光を飛ばしてそういうと、前世の息子はジト目でふんとそっぽを向いた。

(噛みませんよ。こんなジジイかじってもおいしくなさそうですし)

 そして、落ち着いたまま一元の手に撫でられるままにした。一元が手を引っ込めると、大犬はケージの隅に置かれた水のボウルに顔を突っ込んで、ぺちゃぺちゃと水を飲んだ。

(そうだ、その調子だ。偉いぞ)

(おだてたって駄目なんですからね。いつか脱走するんですから)

 航真と前世の息子の間だけの、人の耳には聞き取れない会話に一向に気づかず、代表は満足そうに微笑んだ。

「……大丈夫そうですね。フードの用意はありますか?」

 そう尋ねられて、新発田が隣室から封の切られていないままの動物病院で売られているような高級レーベルの大型犬用ペットフードを出してきた。

「ええ、結構ですね。それでは何かありましたらご連絡ください。私はこれで失礼を。念の為、彼を置いていきます。様子を見て、大丈夫そうなら帰らせてください」

「はいわかりました」

「じゃそういうことで、桜塚くん、あとよろしくね。ここから帰れる?」

「帰る際には最寄り駅まで、屋敷のものに送らせます」

「では、そういうことでよろしくおねがいします」

 挨拶もそこそこに、代表は乗ってきたワゴンで帰っていた。

 取り残された航真は、尸遠とサンルームにとどまった。

「じゃ、わしちょっと着替えてくるから」

 といって一元は部屋を出ていき、いつの間にか新発田も二人分の茶をサンルームに据えられたティーテーブルに置いて消えている。

 二人と一匹きりになって、航真は大きく息をついた。

「しかし、偶然ってあるもんだな」

 航真の言葉に、尸遠は微笑んだ。

「桜塚は、着替えなくて大丈夫?」

 そう言われて、自分の姿を見た。制服は雨に濡れたまま生乾き、ズボンにはびっしりと黒い抜け毛が張り付いている。

「ん? ああ、お屋敷を汚しちゃうか」

「いや、それはいいんだけど、雨に降られっぱなしだったでしょ。靴下とか、大丈夫?」

「俺のことはいい。それよりこいつのことが心配」

「ああ、飼い主見つかるか、とか?」

「いや、それはそこまで心配してない……もし懐かなかったうちで引き取るつもりだから」

 そう言われて、尸遠は少し言いにくそうに目を伏せた。

「……やっぱりなんかあるんだね、この子と」

「ん?」

 尸遠は少し考えた。

 航真が、雨の降る中、この大きな犬を抱き上げた時からずっと気になっていたことだ。尸遠には、断片的に『聞こえて』いた。航真とこの犬との間で交わされていた、なにかのメッセージのやりとりである。その内容は尸遠にはわからなかった。まるで饒舌な外国語を聞くような、そんなやりとりに『聞こえて』いた。

 それは尸遠の持つ祖父から受け継いだ『死霊術』を聞き取る感覚で受け止めるからそう聞こえるのであって、きっと別の異世界系の固有の呪術的な対話なのは間違いなかった。

 それはつまり、航真もまた異世界人であるか、何らかの方法で特定の異世界について知り得ているということだった。どちらにしろ、巻島屋敷の主の孫として、踏み込んだ事実を知りたいと感じていた。

 ……だが、それをどう切り出したらいいかがわからない。いっそのこと祖父のことを話してしまおうか。それとも自分が目の前で、死霊術の一部でも見せればよいのだろうか。

 こんな風に悩むのは、自分の性自認が人とは違うと気付いた時以来だ。そう考えて、はたとした。

 あの時と同じように、新発田に相談しよう。思い立って、急に気が軽くなった。

「ごめん、ちょっとおトイレ行ってくる」

 そう言って、尸遠はサンルームを出ようとした。

「おう」

「お茶、飲んでね」

「うん、ありがとな」

 そう促されて、航真はティーテーブルから冷たい紅茶と思しきグラスを片方をとって、ケージの側の床に座り込んだ。

 航真は前世の我が子と二人きりになって、ケージの扉を開けた。

 我が子はするすると一畳弱ほどの檻から出てきて、抱き縋るように航真に寄り添った。

(母上)

 犬のようだった体はするすると伸びて、中学生ほどの、性差もでるかでないかといった年頃ほどの体格の、毛皮のポンチョを着込んだ人間のような姿になった。

 その格好で、体を丸めるようにして航真に膝枕をしてもらう。

(ここは温いですね。こちらに来てから、こんなにお日様を浴びるのは本当に久々です)

(夏は暑くなるぞ。あとでさっきの人に頼んで、クーラーのある部屋に移してもらおう)

(夏は暑いものでしょう?)

(東京の夏を甘く見ちゃいけないよ。干からびないように、ほどよい場所にいなさい)

(はい)

 そう応えた矢先、航真の前世の息子は、急に全身を丸めるようにして犬の姿に戻った。

(どうした)

 そう問いかける間もなく、サンルームの戸口の脇の壁がノックされた。

 見ると、白の襟シャツにスラックス姿の若い女の使用人が立っていた。

 胸元には銀のドームカバーのかかった丸皿を乗せたトレイを抱えている。

 彼女は何も言わず航真にすっと腰を下げるような一礼をしてから、その皿を大犬の前に置き、ドームカバーをとった。

 そこには首より下の羽の毟られた生のハトが二羽ほど置かれていた。

「彼にはドッグフードよりこちらのほうが口に合うかと存じまして、ご用意いたしました」

「あ、それはどうも……けど、あの、犬に鶏肉は、どうかと……」

「いえ、彼なら問題ないかと」

(母上、食べていいの?)

(いいけど、骨付きの鳥肉だよ? 骨大丈夫か?)

(それは大丈夫)

 そう応えると、前世の息子は犬らしく豪快に鳩の背肉にかぶりついた。そのままもしゃもしゃと食べ、まるで副菜のように頭や足先を食いちぎってゴリゴリと咀嚼する。

 その食べざまは、ややグロテスクでもあり、血の匂いが濃く感じた。

 なんとなく換気がしたくなって立ち上がろうとすると、さっきの女使用人がすでに換気窓を開きにかかっていた。

「あ、すみません。ええと……」

「いえ、佐藤と申します」

「はじめまして、桜塚です」

「では、桜塚様、ほかに何かございましたらなんなりと」

「あ、はい。ありがとうございます。今は大丈夫です」

「そうですか。では後ほど隣の応接室においでください。旦那様からお話があるそうです」

「そうですか。わかりました」

「では失礼いたします」

 そういって、佐藤と名乗った女使用人は会釈をひとつして出ていった。

(母上)

(美味しいかい?)

(うん、この鳥は美味しいです。それより気をつけて)

(何を?)

(さっきの女、心を読みます)

 これに航真はぎょっとした。

(……魔力を感じました。あの人は半分魔人です。戦えば手こずりそうです)

(そうか……喧嘩はするなよ?)

(はい。美味しいものをくれる間は我慢します。けど、ここはそんな人ばかりみたいですね。外にいた人も、私を撫でたジジイも、それぞれ違う世界の魔力や霊性の匂いがします)

 これをきいて、ぎょっとした。

(わかるのか?)

(はい、これでも母上が死んでから、いろんな世界を回りましたから)

 航真は半ば呆然とした。

(それと、母上とずっと一緒だった毛の短い女も)

(待てまてまて、巻島尸遠も異世界人だってのか?)

(いえ、あれはこの世界で生まれた人間の匂いです。ただ、何かの術の使い手のはずです)

 それを聞いて、航真は何か苦痛をこらえるように目を閉じた。信じ難い話だった。だが、信じ難いのは自分が、数時間前に拾った犬と会話しているのも同様である。

 だが、昨晩見た夢を含めて、ひとつの考えを受け入れれば全てまとまる。

 この世には地球と並行存在する異世界がある。そして、その異世界と地球は、何らかの方法で行き来することが可能だ。移動する方法は少なくとも二系統ある。ひとつは死後、全て忘れて転生してやってくる。もう一つはこの子のように、生きたまま渡る方法である。

 そしてなにより、昨晩見た夢は自分の想像力の産物などではなく、異世界の今の自分が生まれる前に発生した現実の出来事ということである。

「まるでそういう小説だよ」

 思わずそうぼやいた。だが、現実の猟奇的犯罪や政治的不祥事がそうであるように、現実はしばしばフィクション以上に考えられないことが生じるものである。これもその一種と捉えるよりほかにない。

 桜塚航真は深くため息をついて、冷たい紅茶をすすった。

 口の中が冷える感覚などほとんどわからない。かわりにほのかな渋みと喉越しのあとにほのかに鼻に抜ける涼やかな香りが、いくらか心を落ち着かせるのを感じた。

 だが本音をいえば、この氷入りの液体でいっそのこと顔でも洗いたいくらいだった。

「さて、どうしたもんかな」

 もしゃもしゃとしゃぶるように小さな手羽先を食む前世のわが子を見ながら、航真は何度目かもわからないため息をついた。

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