25 来訪者、接近遭遇する

 天気予報は正確だった。雨は授業中も止むことはなく、下校時間になっても降り続いた。

 尸遠と航真は学校の最寄駅から、駅の反対側の住宅地に向かう。だが直接シェルターには向かわず、ひとまず駅前の中華そば屋に入った。

 豚骨まぜそばが人気の店である。航真は大盛り、尸遠は並盛のネギ多めを頼んだ。

「ほんとに今日来るのか? この雨のなかで、多分犬の散歩もあるぞ?」

 注文を待つ間に航真がそういうと、尸遠は苦笑してうなずいた。

「もうコンビニでレインコートも買っちゃったもん。……じいちゃんの犬の件もあるし」

「んー、正直高齢者が大型犬を飼うのはおすすめしないんだけどね。噛まれたら大事だし」

「まあそう言わないで、そういえば青木さんはシェルターに行ったことはないの?」

 青木舞雛の名を出されて、航真は半笑いになった。

「一度犬の風呂の日に来ちゃったことがあって、それ以来来てない」

「そんな大変なの?」

「うん。洗うのはいつも来てもらってるトリマーさんにやってもらうから慣れたもんなんだけど、その後乾かすのが全員総出でさ。ドライヤーを同時に何台も使うから油断するとブレーカーが落ちるの。で、真っ暗になった途端に犬も猫も大騒ぎ」

 そんな話をしている間に注文したものが出てくる。店先には短いながらも行列が出来ている。二人は手を合わせてから、いそいそと食べた。店を出ると、雨は小降りになっていた。傘をさして歩きながら、航真はすんすんと鼻を鳴らした。

「どしたの?」

「いや、なんか獣臭くないか?」

 そういわれて、尸遠は躊躇なく航真の傘の下に頭をつっこんでにおいを嗅いだ。

「ううん、別に、動物園とか小学校のうさぎ小屋とかそういう系統の臭いはしないよ?」

「いや、そういう感じの臭いじゃなくて、なんていうか、ライオンの糞みたいな」

 これに尸遠は失笑した。

「ライオンの糞って。……今食べたのの匂いが自分でかおってるとかじゃなくて?」

「いやそれもあるんだけど……なんか、いつもと違う臭いが、今日ずっとしてるんだよ」

「えー、どっかで野良猫とかハクビシンのウンコでも踏んだんじゃないの?」

 そういわれて航真は靴底を見てみるが、路面の雨水に洗われて泥すら付いていない。

 これをみて航真は首をかしげながら、再び、傘二つ並んで歩き出した。

 そんな二人に、背後から凝視する気配があった。それは雨に耐えるカラスのように街灯電柱の上に身を屈めている。そしてふいに飛び降りるように地面に降り立った。その姿は巨大な猿か、小柄な人影のように見えたことだろう。

 雨音で二人は気付いていない。

 そのなにものかは、前肢を濡れたアスファルトにつくと、ネコが毛を逆立てるように身を包んだ黒い毛皮を膨らませた。そしてその全身は、黒い痩せ狼のような姿に変身した。

 その『獣』は、人には聞こえない声で天に向かって吠えた。

 航真と尸遠は、びくりとして足を止めた。まるで二人だけがその声を聞いたようだった。

 航真がまずぱっと後ろに振り向き、尸遠がそれにつられて見返るように後ろを見た。

 その真っ黒な大きな獣は、二人めがけて駆け込んできてきた。

 尸遠が身をすくめて傘を盾にするようにする一方で、航真はカバンも傘も落とし、立ちはだかるように前に立って両腕を広げた。二人とも反射的にそう動いていた。

 そして、巨大な獣は飛びかかるように路面を蹴った。

 尸遠が「ぎゃっ」と悲鳴をあげて身を屈める一方で、航真が「おっし」と声を発した。

 次の瞬間には、巨大な獣は航真の腕の中に抱きとめられていた。

 尸遠がビニール傘の越しに見たのは、航真が熊と相撲でもとっているような様だった。

 彼は払腰のように黒い獣を横倒しに転がし、そのまま覆いかぶさって抑え込む。

 獣と航真揉み合いながら、なにか言い交わしているようだった。その会話の内容はわからないが、その『声』だけはたしかに尸遠は聞こえていた。

 だがほどなく、航真は『普通の声』で尸遠に呼びかけた。

「大丈夫かー」

 傘をずらしてみると、立ち耳の黒い大犬を、航真が地面に組み伏せている。

 抑えられている大犬は、はあはあと舌を出して息をしている。その喉元に首輪はない。

 黒い犬の息遣いの合間に尸遠はかすかに、祖父以外から聞いたことがなく、また自身も祖父の前のほかでは発したことのない声でなにか語りかけているように聞こえた。

 尸遠はそれを聞こえないふりをして、おずおずと「大丈夫」と返事をした。

「そっか。よかった。さっきから臭ってたの、こいつの臭いだ」

 航真は大犬を抑え付けたまま雨の中犬の首元を撫でる。その手は掴みうる犬の首輪を探しているようだった。そうして指に触れたのは、無国籍雑貨の店で扱っていそうな、荒い繊維の紐と鮮やかな石を綴った、ネックレスめいたものだった。

 彼はぎょっとした顔でしばらくその首飾りを見つめた。

「……知ってる犬?」

 尸遠がふとそう問いかけると、はたとした顔で首をぶんぶんと横に振った。

 犬はとたんにくうんと鼻鳴きする。その鳴き声に航真は少し困ったような顔になる。

「この子、名札も鑑札もない。放し飼いの脱走かもしれない」

「え、どうすんの。っていうか、大丈夫なの?」

「ん? 大丈夫そうだ……あ、悪いんだけどさ。俺のカバンと傘もってくれるか」

「どうするつもり?」

 そう問いかける尸遠の目の前で、航真は犬の前足を正面から自分の肩にかけた。そして尻と背中に手を掛け、いっきに担ぎ上げる。まるで大きな子供でも抱きかかえるようだ。

「とりあえずシェルター連れてく。近所の飼い犬ならスタッフさんが把握してるはず」

 その瞬間、尸遠の懐でスマホが震えた。

 取り出して画面を見るとメッセージアプリのグループ『緊急用直通』からである。

『大きな犬と遭遇したはずだ。その犬はうちで預かる。施設についたら連絡をくれ』

 尸遠は訝しむように目を細めて、犬と画面を見比べた。

「はやく、この子結構重い」

 そう言って航真は歩き始めた。尸遠は慌てて携帯をしまい、彼の傘とカバンを拾った。

 航真は、なにやら犬に耳元でささやきかけているようだった。その内容は聞き取れなかったが、その『声』は確かに聞いた。尸遠が知る中で彼が今まで一度として発したことのない、そして異世界人の集う巻島屋敷のほかでは聞いたことのない音色の『声』だった。

それを聞こえないふりをして、尸遠は訪ねた。

「もし、近所の犬じゃなかったらどうするの?」

 航真は抱えた黒犬の重さがつらいのか、険しい顔をしてうーんと唸った。

「最悪、うちでしばらく預かるかなあ」

 尸遠は直感した。この犬と彼はなにかある。そして自分に話していないことがある、と。


(母上、母上、ずっとお探ししておりました)

 雨のそぼ降る中、桜塚航真は内心当惑していた。……まず、クマのような狼のような犬が飛びかかってきたのに対して、とっさに体が動いたこと。

(母上なのですよね? 姿かたちも臭いも違いますけど、この感覚は確かに母上です)

 ……次に、首に巻いていた首飾りは、夢の中で末っ子に与えた形見の品だったこと。

(母上、お返事ください。あと、一人で歩けます。抱いて頂かなくても大丈夫ですよ?)

 ……そして、この犬の『言葉』がわかることだ。厳密には、この犬が発する『思念』が頭の中で言語変換されて理解できる。それはまさに昨晩見た夢の中の魔物の対話法だった。

 航真はため息をついた。

「重いの? 一旦休む?」

 傘を天に突き出すように差してくれている尸遠に聞かれる。

「このまま行こう。シェルターまでそんなにないから」

 ほほえみ返す余裕もなく、そう答えた。

 ……航真は、昨晩の夢はただの夢、自分の想像力の産物だと割り切っていた。だが、こうも露骨に現実との接点が生じてしまうと、本当にただの夢だったのか疑わしくなってくる。具体的にどういうことか……要するに、自分の頭がどうかしたという事だ。

(この小さい人間は何物ですか? なんで若いメスの匂いがするのに毛が短いんですか?)

「とりあえず、おとなしくして」

 そう囁きかけるも、犬はすんすんと鼻を鳴らして、

(そこの灰色の柱とその上を渡った黒い蔓はなんですか? 至る所で目にします)

 などと電柱と電線を仰ぎ見るばかりで、こちらの声がまともに通じている風はない。

 仕方なく、航真は試みることにした。『前世』の『話し方』である。

(母上というのは、俺のこと?)

 夢の中と同じ感覚をイメージして発してみた。犬は驚いたようにびくっと体を動かした。

「ちょっと、暴れないで!」

 四肢を航真の腹や肩に押し付けられる形で抱かれた大犬は、興奮したようにしっぽをぱたぱたと振り、まるでハグをかわすように頭の位置を航真の首の右に左にと動かした。

(そうです! やはりお聞こえなのですね。よかった、通じないと思いかけていました)

 通じてしまった。

 航真は頭を抱えたい気持ちになりながら『我が子』を見つめた。

(まず落ち着いて! 君けっこう重いから)

 そう航真が発すると、『我が子』は(はい)と応え、航真の肩にかけた前足に力をこめて、自分からすがりつくような姿勢になった。途端に抱きかかえた腕がぐっと楽になる。

(ありがとう)

(いえ、こうしてると乳を吸っていた頃を思い出します。今の母上にはありませんけど)

(まあ、男だからね)

(私は父上が二人になったと思ったほうがよいですか?)

 航真は吹き出しかけて、こらえた。

(いや、そこは気にしなくていい。それよりどこから来たんだい?)

(お忘れですか? 私の父上は時空の魔狼です。私も時空を渡ることくらいできます。近頃母上を亡き者とした一派の人間がやたらと『我らの世界』と『この地』を行き来していたので、気になって追いかけてみたんです。そうしてこちらの世界に来ました。屍肉傀儡を使ってしばらく探って見ておりましたところ、忌まわしき下手人の匂いがする所があって、探ってみたら、母上と下手人が人間となって一緒にいらっしゃるじゃありませんか)

(下手人っていうのは、前世の俺と殺し合った『勇者』達のことか?)

(はい! 自分の角を魔術の燃料に殺されるとは無念極まりない死だったことでしょう)

 航真は一瞬返事に困った。正直にいって、昨晩見た前世の夢は映画でも見ているような半分他人事のような感覚でいたため、そこまで無念という実感もない。

(使い魔って?)

 送られてきたイメージは二つ、ネズミと小鳥のゾンビのようなものだった。

 ネズミの方は見覚えがあった。昨日の午前の授業中、教室に発生したあのネズミである。

 それに対し、航真は思わず目を丸くした。

(昨日のネズミは君の仕業か!)

(はい、あんなに大騒ぎされるとは思いませんでした。こちらの人間は軟弱ですね)

 ずばりそう言われて、航真はくらくらしそうだった。確かに、鶏すらシメたことがない。夢の中の人肉どころか親の亡骸すら食らう凄惨さとくらべれば、軟弱ではある。

(軟弱かぁ……まあ、軟弱だけど……ネズミは菌を持ってると思われてるし)

(菌というのは毒ですね。ネズミ程度の毒で死ぬほど弱いんですか。こちらの人間は)

(ああ、歴史的に人間はネズミが運ぶ病原菌で大量に死んでるからね。さっき君を抑え込めたのもとっさに体が動いたからで、そうじゃなかったらぶっ倒れてたと思う)

 そう応えると、腕の中の『前世』のわが子はくうんと寂しそうに鼻を鳴らした。

 その首に巻かれた手芸のような首飾りを見て、航真は少し申し訳ない気持ちになった。

(その首飾り、ずっと持っててくれたんだね。ありがとう)

(はい! 母上にお会いした時、お顔をお忘れになっているかもしれないと思ったので)

(忘れてたのは顔だけじゃないよ。君とこうして『話す』まで、ただの夢だと思ってた)

 そう言うと、犬の顔でべろんべろんと航真の頬を舐めた。

(わかってる、夢じゃない。こうして実際大きい体を抱っこしてるし、話もできてる)

「さて、これからどうしたもんかね」

 航真がそうぼやくように独りごちると、尸遠が顔を上げた。

「保護するんじゃないの?」

「するよ。するけどさ」

(……君には、しばらく我慢してもらわなきゃいけないことがある。まず、知らない人間に体重を量られて、爪を切られて、口の中を見られる)

 その思念を受けた途端、大犬は取り乱したようにばたばたと腕の中でもがいた。

(落ち着いて、心配ない。痛い事は何もしない。健康状態の確認と安全のためだ)

(なぜですか?! 魔力を搾り取るためですか?)

(君を犬として保護するための手順だ! というか、地球には魔法なんて存在しないから!)

(けど、けど、私は動物じゃないです。魔狼と女王の子です)

(それはわかってる! けどこっちの世界で上手く隠れるには犬のふりをしてもらうしかない。すぐに俺が引き取りにくるから、しばらくおとなしくしててくれ)

 そう諭されて、航真の腕の中の子はキュンキュンと鳴き始めた。

 そう言い交わしている間に、二人と一頭はシェルターの前にやってきていた。

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