19 昼飯と流行りの動画について
その日、遥歩は夏服ではなく冬服の長袖ワイシャツで登校した。明け方見つけた背中のミミズ腫れが収まらなかったからだ。
季節は既に梅雨入りが発表されていた。だが雨はほとんど降らず、晴れが続いていた。
授業の合間の移動教室のために、三人は廊下をだらだらと歩いていた。
まだ午前中なのに、窓ガラス越しに射す日差しは強い。
特に尸遠は太陽が恨めしいようで、日焼け止めクリームを出して首や手の甲にすり込んでいる。何気なく二人にもクリームを差し向けたが、どちらも遠慮した。
「将来シミになっても知らないよ」
「その時は日サロ通うから大丈夫」
そう軽口を叩く航真の横で、遥歩は大あくびをした。
「俺は日焼けより、昼飯食ったら授業中寝そうなのがしんどい」
特に話題もない都合から、尸遠がそれとなく尋ねた。
「元廣、なんで長袖着てんの?」
「だるんだるんの長袖のお前がそれを聞くのか」
即座に言い返されるのを見て、航真がぷっと吹き出す。尸遠は春と変わらずオーバーサイズジャージを着続けていた。
「他に着るものがないから。で、元廣はなんで長袖なん? 洗濯失敗したとか」
尸遠は至って平然と答え、そして重ねて聞いた。
「いや、今朝見たら背中が真っ赤に腫れててさ。半袖着れない感じで。毛虫かな」
それを聞いて、航真が同情して渋い顔をした。一方尸遠は、ふうんと相槌を打ちつつも、どこか上の空のような目でぼんやりと遥歩の頭上のあたりを見ている。
航真はその反応に気づかず、話を続けた。
「そんなひどいの? それで長袖着てたら、汗かいて痛くない?」
「いや、それが赤くなるだけで痛いとかかゆいとかは無いのさ」
「マジか、なんかのアレルギーかね。息苦しいとかは?」
遥歩は眠たげな顔で首を横に振る。
「それも全然。寝不足以外一切問題なし」
「今朝の部活は?」
「体調悪いって連絡して休んだ」
「……あんまり酷いようなら、いい医者探してもらおうか」
尸遠がおもむろにそう言った。
「ん?」
「いや、うちのじいちゃん顔広いから。他にも何かあるなら……」
そう言いかけて、尸遠が懐に手を入れる。取り出したのはスマホである。『非常用直通』にメッセージが入っている。一瞬アプリを開いて内容を確認し、再び懐に戻した。
「電話?」
「ううん。うちのじいちゃん」
これに、航真が茶化してふっと笑う。
「紫綬褒章の」
「そうそう。親が両方とも出張中でじいちゃんのとこ泊まってんだけど、もう忙しくて」
「え、なんかあんの?」
「うん、じいちゃんからレッスン受けててさ、それが最近ちょっとハードなの」
「へえ」
「けど、今日はそれがなくなった」
その言葉に、遥歩は突然真顔になった。
「どうかしたの」
「え、いや……なんか、午後に急に予定が入ったって」
これを聞いて、遥歩はほっとした顔をした。
「なんだ、よかった。一瞬『急に倒れた』とかかと」
これに尸遠はあははと笑って手を払う。
「ピンピンしてるよ。あのさ、近いうちに、桜塚が通ってるシェルター遊び行っていい?」
航真はこれに一緒おやっという顔をして、にやりとした。
「いいけど、帰る時毛だらけになるよ」
「そうなの?」
「うん、犬と猫だらけだもん。この時期は、毛が生え変わるからなおさら」
「そっか」
「あと、初対面でも容赦なくドッグトレーニングの手伝いを期待される」
これに尸遠はくすりとした。
「それは大丈夫」
「なに、ペットでも飼う気なの?」
「うん、じいちゃんがね。大きな犬を迎えたいって、できれば保護した子とかでって」
「んー、柴犬くらいの体格の子なら何頭かいるから、そこから考えてくれると嬉しい」
「いや、たぶんもっとでかい犬だと思う」
「もっとって、レトリーバーくらい? それとも秋田犬並み? 東京周辺だとそのサイズの保護犬はなかなか聞かないけど」
そっかー、と相槌を打って、再び会話に間が生じた。
そしてその間を埋めるように、差し掛かった北棟四階の廊下で尸遠が足を止める。
二人は惰性で数歩進んでから足を止め、小柄な友を振り返った。
尸遠の視線の先は窓、階下の中棟屋上だった。日向で寝ている男子の先輩がいる。
「巻島、のぞきはよくない」
冗談半分に航真が言った。これに尸遠は駆け寄って殴るふりをする。航真は大げさに食らうふりをして応じる。
「別にノゾキじゃないし。あれ、多分サボりでしょ。ガチ寝っぽいけど大丈夫かなって」
「どうせユメ動画でも見て寝てんじゃないの? 三〇分で起きれるやつとかあるし」
航真がそう答えると、ほかの二人は少し厄介そうな顔でああと納得した声を出した。
「ほんとに流行ってるんだねえ」
「俺はあれは無理だ。昨日見ながら寝落ちしたら頭痛がして飛び起きた」
苦々しくそういう遥歩に、尸遠はほうと興味深げな声をもらして、にじり寄る。
「そんなやばいの?」
「え、見たことないの?」
「ない。噂は聞いてるけど、家族に止められてて……なんとなく不気味だし」
これに背後の航真が応える。
「うちは舞雛に勧められて一本見たよ。けど、それっきりだなあ」
「ふーん、青木さんは見てるんだ?」
「うん、新作出るたびに話してくれる。好きな人が夢に出る動画は何度も見てるらしい」
これをきいて尸遠は手を叩いて笑う。
「はー、あの子らしいねぇ。けど、夢に好きな人が出てくる、ねえ」
「興味ある感じ?」
「そりゃあ、多少はね。ただ嫌なことも思い出しそうで」
航真はまじまじとうなずいた。
「わかる」
「それ、聞いても大丈夫な話か?」
遥歩にそう問われて、尸遠はすこし苦そうにくしゃっと笑んだ。
「うん、大丈夫。ただ、なんていうか、告る前に失恋したんよ。中学の時好きになったのが、女の先輩でさ。さばさばした世話好きのかっこいい人で。ただ、彼氏いたんだよね」
これをきいて、二人はなにか共感したように相槌を打ち、それぞれ尸遠の肩に手を置いた。
慰められているのかと思って、二人の顔を見上げる尸遠。
だがそれに反して、ふっと遥歩がにやっといたずらっぽく笑んだ。
「桜塚、今のを言いふらすのはアウティングにあたると思うか?」
「さあどうだろう」
冗談半分に言う二人を、尸遠は睨み上げた。
「あ? 言ってもいいけど元廣に好きな子出来たら、言いふらすから覚悟しとけよ」
遥歩は鼻で笑い「別に誰にも言わねえよ」と肩から手を離して歩き出した。
……遥歩が、中学では苦痛だった剣道をなぜ高校で再開しようと思ったか。ほかに人間関係を作る術を知らなかったからだ。それに今は剣道着用の下着というものもある。
明星園は遥歩の通っていた中学からの同級の進学者は居ない。だから人間関係は自力で作らなければならなかった。孤立しないようにするには、再び剣道に戻るか、新しくなにか始めるしかなかった。そこで剣道を選んだだけのことである。
それでも昔とった杵柄はなかなかのものだった。五月の地区予選は個人戦でベスト8まで入った。顧問にはちゃんとやれば県大会も狙えると言われているが、そこまで剣道に打ち込む気が今更あるかと言われるとそれも怪しい。
特に今は、この二人との交流を大事にしたいという気持ちが強まっていた。
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