18 遥歩と夏の夜

 中間試験明けの六月の上旬、元廣遥歩は軽めの災難に見舞われていた。

 自室のエアコンと除湿機がまとめて壊れたのだ。やむを得ず居間の床で寝ることにした。普段と寝床の雰囲気が違うせいか寝付けず、手持ち無沙汰に真っ暗な中でスマホをいじりだした。彼のネット上の身内はそう多くない。高校で交換しているのも先日の三人と担任以外では、剣道部関係者のみである。

 久々に中学時代の友らとやりとりを重ねていると、ある動画を勧めてくれる人が出た。

 開いてみると、最近流行っている『ユメ動画』というやつだった。その動画を見てから眠ると夢に動画タイトル通りの夢が見られる、という動画である。ネットで検索すると『催眠』や『新種のビデオドラッグ』などやや物騒な自動検索ワードを出してくる。

 遥歩は少しためらう気持ちをもちつつグループメッセージに書き込む。

『そんなに効くの?』

『効く』

 そう断言されて、寝返りをうつ。このまま寝不足で学校に行くか。動画を試すか。

 遥歩はメッセージを入力した。

『わかった。試してみる』

『いい夢を』

 イヤホンを耳に差し込み、動画リンクを開く。

 タイトルは『雪の森の夢を見る動画』だった。

 動画自体は五分ほどのものだった。どうやら同一投稿者の動画再生リストへのリンクだったようで、連続再生枠にずらっと『○○の夢を見る動画』というタイトルの動画群が連なっている。

(一本流して効かなかったちょっと嫌だし、念のため他の動画も流しとくか)

 そう思い、再生リストを連続再生で映像を流しはじめた。

 動画は奇妙なものだった。原色の幾何学模様がひたすらに画面を動き、音声はノイズ混じりの波の音のようだった。確かに『ビデオドラッグ』呼ばれるのも納得の映像だった。

 だが見ていると強烈にまぶたが重くなるのを感じた。どうにか一本目の動画を見通して、仰向けになって目を閉じる。

 体が寝床に融けるような感覚がして、気がつけば夢の中の雪景色にいた。

 だが本物の冬ほど寒くもない。心地よい感覚に、これはいい、と思った矢先だった。

 二本目の動画の再生が始まった。その途端である。

 遥歩の眠気は苦い記憶のフラッシュバックと共に一瞬で吹き飛んだ。

 ……リストの二本目の動画タイトルは『トラウマを克服する動画』だった。


 遥歩の生まれは関西だった。中学進学時、父の転勤を母と追う形で東京に越してきた。

 地元では幼稚園から十歳頃まで剣道を習っていた。子供剣道では県大会で準優勝したこともあった。

 それが小学四年の時、突然の親から道場へ行くことを禁じられた。

 ……中学の体育の武道の授業で、体育着の上から久々に防具をつけたとき、なぜそうなったのかの一部始終を理解するフラッシュバックを経験した。

 無垢だった子供の頃、自分の身になにがおきたのか。なぜ剣道を辞めたのか。それを客観的に思い出したのだ。

 体の内側から血が冷えていくような感覚だった。混乱して過呼吸を起こし、保健室に連れていかれた。念の為に病院で検査を受けるも異常はなく、心療内科の受診を勧められた。

 それ以来、学校の体育の授業で武道がある時期になると遥歩は学校を休むようになった。

 それでも不便はなかった。学校での勉強は元々理解が早い方で、小学校では授業を聞くだけでテストで毎度満点を取るような子だった。中学でも習得の早さは相変わらずで、学習範囲を聞いて自習する程度で、学校の授業に遅れる事はなかった。

 再び剣道を始められたのは、高校に上がってから、心療内科での治療の成果だった。


 二本目の動画の音声がイヤフォンから流れる一方で、遥歩はうなじから背中全面にかけて、熱っぽい痛みを感じていた。頭の中では、不快な記憶が止まらぬ幻覚のように回る。

 堪らず叩くようにしてテレビのリモコンに触れて、電源を入れる。耳を払うようにしてイヤホンを乱暴に外し、スマホを掴んだ。

 再生されていた動画は止まり、同時に頭に渦巻いていた不快な幻覚は止んだ。

 うなされて飛び起きたように息を荒くして、スマホの画面を見た。

 停止された動画のタイトルを見て、苦々しくため息をつき、動画アプリを終了させた。

 皮肉にも程があると思った。克服どころか人生最大のトラウマを思い出させられたのだ。

 それは中学三年かけての治療で乗り越えた悪夢のような経験の記憶だった。

 小学校の途中で剣道を辞めた原因、そして中学三年間結局剣道は出来なかった。

 ……遥歩は、いわゆるスポーツ指導の場における性的いたずらの被害者だった。


 小さい頃、家から幼稚園の道の途中に、剣道道場があった。

 幼い遥歩は親に入門したいとせがんで、そこの幼年クラスに入った。

 その道場は地元剣道界隈では名の通った道場で、剣道大会での成績優秀者を多く輩出していた。毎年在籍する誰かが県大会上位、国体の近畿ブロック、全国大会へ進出していた。

 同道場は伝統的な方針から稽古着の下には下着をつけなかった。遥歩も他の子も、まるで水着の下になにも着ないのと同様の感覚でこれを受け入れていた。

 遥歩は道場に入って間もなく、頭角を表した。反応速度、足さばき、目配りから動きへの連携、いずれも同世代の中で抜きん出ていた。

 入門して数ヶ月で、小学生に混ざって稽古をするようになった。そして小学校に上がってからは上級生に混ざって、選抜グループでも稽古するようになった。

 その選抜グループに入った頃から、指導員の一人から熱心に指導を受けるようになった。親が送り迎えを出来ないときは送迎をしてくれたし、稽古が連日になった時は『マッサージ』をしてくれることもあった。

 無垢な子供だった遥歩は、これを特別扱いと受け止めてより打ち込んだ。そしてそれに伴う成果を子供向け剣道大会での優秀な成績という形で示してきた。

 その中で、異常に最初に気付いたのは遥歩の母だった。

 家でやけに自分の尻や内股をさする息子を見て、どうしたのかと尋ねた。

『いつもしてくれるマッサージ』と遥歩は答えた。そしてありのままを話した。

 稽古後、股関節を柔らかくするために内股や尻をさすられる、と。

 母親はすこし嫌な予感がして、いつもはしない質問を重ねた。

「タオルとかは当てないの? パンツは?」

 すると、一人息子の遥歩は屈託のない顔で首を横にふった。

「そんなのしないよ、稽古着脱いですぐだもん」

 そして、まだ子供の遥歩は屈託なくこう続けた。

「ぼくの番が終わったら『先生も疲れたからやって』って言われるから、同じようにしてあげるんだよ」

 母親はぞっとした。次の稽古の日、母は仕事を休んで自分で息子を道場まで送った。そして道場の責任者を尋ねた。それから数日と経たずに、事態は動いた。

 問題の指導員は解雇され、警察の事情聴取まで入った。地元新聞にも『剣道道場で性的いたずら』という小さな見出しで事件として記事が出た。その記事に道場の関係者や保護者は騒然とした。

 まだ十歳にもならない遥歩は、自分が被害者であるという意識はなかった。ただ、気がつけば、身近な大人達はその人を悪く言い、揃って遥歩を腫れ物扱いしていた。

 そしてある日、同じ選抜グループにいた先輩達から、こういわれた。

「お前のせいであの先生は首になったんだよ」

 これが一番衝撃的だった。そして小学五年の時、父が人事異動で東京に行くことになり、家族も一緒にどうかという話になった。その場で父親から剣道は辞めるように言われた。

 自分になにが起こったのか、説明らしい説明はほとんど受けないまま、全てがまるで理不尽に押し付けられるようだった。

 五年生になったら剣道はできない。そう考えたら急にまた稽古がしたくなった。

 そこで親に黙って道場に顔を出した。するとすぐに親を呼び出された。そして丁重に、『もう来ないでください』と、道場で一番偉い師範から頭を下げられてしまった。

 ……そして東京に来て、中学で貸し防具を身に着けた時、何があったかを思い出した。

 心が壊れそうなほどに乱れた。当時の動揺の反芻、本能的な全ての大人への不信、自分の身に起きた異常事態に気づく事が出来なかった幼い自分の愚かさへの嫌悪などだ。

 中学の三年、剣道から距離をとっていたのはその苦痛からだった。

 そしてその三年は、同時に同性愛者への憎悪に凝り固まった時期でもあった。これを剣道への忌避感と合わせて取り払ったのが、細やかなケアをしてくれた心療内科だった。

 同性愛者や性的少数者への嫌悪はいまはない。むしろ憎んでいた頃の自分を幼く感じるくらいだ。だが未だに小児性愛者や子供を悪用する大人に対する憎悪は消えていない。


 遥歩は自室に戻り、中学時代に処方された抗不安薬の頓服の残りを出した。それを一錠飲んで、自室のベッドで横になった。薬のおかげでどうにか三時間ほどは眠ることは出来た。だが、結局うなされるようにして目が覚めた。

 日が昇り切る前の明け方で、窓の外は青みがかっていた。時刻はまだ五時前だ。

 寝汗で不快な体をどうにかしたくて、シャワーを浴びに風呂場に行った。

 薄暗い脱衣場で服を脱いだ時、洗面台に映った自分の背中を見てぎょっとした。

 まるで入れ墨のような真っ赤な樹形の文様状のミミズ腫れが背中じゅうに広がっていた。

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