16 尸遠の修行

 世界的芸術家巻島一元の朝は、別にさほど早いわけではない。だが孫の『稽古』となると話は別である。夜ふかしができる日は夜の十二時を回るまで、朝に都合がつく日であれば朝食前に二時間はしっかりと稽古をつける。

 何しろ一元は今年で七二である。睡眠は浅く、残された人生は限られている。

 アトリエは四十帖ほどの広い作業場とその三倍近い広さを持つ倉庫、更衣室、トイレなどが一棟に合わさった建物である。屋敷前庭側からの外見上は離れの平屋といった具合だが、裏口側は近代的なコンクリートの打ちっぱなしで、輸送トラック用の積み下ろし台がある。こちらから見ると小規模な倉庫かなにかのような具合である。

 稽古の支度は、弟子を伴わず一元のみで準備する。

 倉庫から大容量のプラスチック収納ケースと折りたたみのパイプ椅子を二つ台車に載せて出してきて、ケースの中身をアトリエの床に適当に並べる。

 椅子は上座と下座に向かい合わせに置く。むろん上座が一元の席である。据えた自分の椅子の周りには、ガス式のエアソフトガンの短機関銃とその弾やガスの缶、ゴムボール、そして格闘技の訓練に使うようなボクシングミットなどを適当に置く。

 下座側には、合皮のバッグに詰まった粉塵、羽毛枕、毛織物のスカーフを落とす。

 両席の中間には、革製のボクシンググローブと野球のミット二つ、革張りの野球ボール、そしてなぜかバーベル用の重りの金属の円盤を置く。

 それが済んだところで、時計を見る。午前六時まで一〇分。

 一元は自分のスマホから尸遠の番号に電話をかけた。

 七コールか八コール目で出る。

「はい」

「起きたか」

「……はい」

「そのままでいいから来なさい」

「……はい」

 寝ぼけて『はい』としか答えられない状態と思うような声だったが、毎度のことである。それから五分ほどした頃に、黒いひよこのようなぼさぼさ頭の尸遠がアトリエの玄関に現れた。サンダルにTシャツに短パン、手にはスマホと水のペットボトルという格好である。

 一元は尸遠がアトリエに上がってくるまでの間に道具部屋から湯呑と急須、そして電気式ポットをもってきてアトリエの隅のコンセントに電源をつないでいる。

「おはよー」

 大あくびをしながらそう言って上がってくる尸遠に、一元は返事の代わりにスマホの音量設定を変え、音声ファイルを再生する。

 ほどなく始まる軽快なピアノの音、流れはじめたのはラジオ体操第一である。

 小さい頃から稽古のある朝はずっとこれが朝の挨拶代わりである。

 尸遠は条件反射のように体が動く。一元も一緒に体を動かす。

 ラジオ体操が終わる頃には尸遠もそれなりに目が覚めている。もっともその目はとろんとしてまだ眠たそうだが、それでも上座の一元に向かって深々と頭を下げる。

「よろしくおねがいします」

「はい、よろしくおねがいします」

 一元も礼を返す。このやりとりも礼儀というより小さい頃からのなんとなくの流れだ。

 それから尸遠は足元のバッグを開き、ひっくり返すように中身を床にぶちまける。それは象牙色の陶器の小片のようなものがじゃらじゃらと混ざった灰だった。

 この灰は、鶏がらや豚骨などを灰になるまで焼き尽くしたものである。白い小片状のものは、燃え残った骨のかけらである。

 ……尸遠が祖父から継承した異世界『天樹上盤の国』の能力は、一元が『地球』に渡る際に代償として消失した『死霊術』の能力だった。

 これはいわゆる死体を駆使する能力であり、『全聴院』における天眼と対をなす護身および暴力的実力行使のための能力であった。

「さて、はじめるぞ」

 そう言って、一元は小声の念仏のようなものを唱えた。尸遠も声を合わせて全く同じものを唱える。これも稽古のルーティンだった。唱えているのは死霊術を駆使するための『呪言』である。『地球』出身の人間には本来聞こえない声で発せられている。

 内容は、使役するモノ達を命令に従うようにしつける上下関係の明示である。

 一元の声には用意された物品はどれ一つとして反応しない。だが尸遠の声には太鼓の響きでも伝うように震えている。床に撒かれた灰、革製品、羽毛枕、そしてスカーフまで。

 一元は発声と呪言を扱えても『死霊術』は発動しない。駆使するのに必要な先天的な力を『地球』に渡来する代償として失っているためだ。『死霊術』も『天眼』同様、遺伝的な能力に依存する異世界のものなのだ。


 一元が代償として失った力がなぜ孫の代になって復活したのかは定かではない。

 だが、尸遠が幼い頃よりこの力の兆候はあった。例えば乳児の頃、声を上げて泣くと料理や革製品などが地震のようにかすかに震えたのだ。これは『死霊術』の力の持ち主の徴候だった。

 尸遠の名が屍を遠ざけるという字で名付けられたのも、孫にこの能力が備わってしまう未来が『天眼』によって見えた。その実現の可能性を少しでも下げることをを願って名付けだった。

 なにしろ孫が『死霊術』をそなえて産まれてきた場合の未来、それは少なからぬ苦難を伴う人生であった。直接の因果関係はないが、それは尸遠の性自認についての複雑さを抱える未来でもあった。……そして、尸遠は『天眼』の予知の通りに育った。


 尸遠が最初に意識的に能力を使ったのは、五歳の冬の日だった。その頃、巻島の屋敷ではオカメインコを飼っていた。よく一階南側のサンルームに放して遊ばせていた鳥だ。

 その鳥が、尸遠が五歳のときの冬の冷え込んだ朝に亡くなっていたのである。

 そのことを新発田が尸遠の母の桜子に電話で伝えると、尸遠が

「おはかをつくるならいっしょにうちのおはなをあげたい」

 と言い出した。これを止める者はなく、その日の午後、尸遠は巻島屋敷に来た。一元と共に庭で咲き誇っていた寒椿の下に穴を掘って小鳥を埋葬するためだ。

 一元がその穴を掘っている間、小鳥の亡骸は尸遠の手の中にあった。尸遠は自らの手の中で小さくなった小鳥を温めるように息吹きながら囁いた。

「ほんとにおきないの? 『おきて』よ」

 と。その声をきいて一元はぎょっと目を剥いた。

 その声こそ『死霊術』の『呪言』に用いる、地球の者の耳には残らぬ声だった。

 小鳥はほどなく目を覚まし、むくりと起き上がった。その目は瞳孔が開いて白濁としらんでいた。そして、尸遠の手の中からぱっと羽を広げると、そのまま羽ばたいて飛んでいったのである。小鳥はそのまま『逃げて』行き、戻ることはなかった。

 これを見て一元は戦慄した。それは幼児にしてはあまりにも強力かつ明確な『死霊術』の行使だった。そしてこの日から能力を自覚して制御させるための指導を始めた。


 初めは、硬貨のように輪切りにした鹿角で遊ばせることからはじめた。次は鳥の羽、革製の人形と素材を変えた。それらで遊ばせると共に、合わせて死霊術の制御を口伝した。

 その流れはおおよそ現在も変わらない。違いがあるとすれば、より技巧的に複雑な使役、使役したもの同士の連携が重視されるようになっていた。

 具体的には、一元がエアガンで尸遠めがけて乱射する。この弾幕を灰の山で防ぎつつ、灰の一部を蠢く砂の人形のように駆使して一元の手から銃を奪い取る。

 同時に革製のボクシンググローブを透明人間の上半身のように動かしてシャドーボクシングをさせる。野球ミット同士でキャッチボール。羽毛枕にバーベルの重りを乗せて、そのまま浮遊させる。毛織物のスカーフに急須でお茶を入れさせる。……などといったことを、複数同時にこなさせる。

 この間、尸遠は別のことをする。今朝であれば、スマホの学習アプリでの中間試験対策の勉強だ。

 一元いわく『命の形跡があったもの』を『従属させて使役する』のが『死霊術』である。

 特定のものを操り人形のように集中して操るのではなく、自動制御に近い挙動のものを指揮するのが本質である。それを生きているように緩急柔軟な反応速度と力加減、精密かつ洗練された動きで行わせるのが『死霊術』の訓練の肝要だった。

 『天樹上盤の国』では死霊術の術士は罪人の死体を使役し、刑罰として労役をさせる。制御を誤れば死霊術の対象が壊れたり、力を加え過ぎて触れたものを傷つけたりする。それでは死体を労役に使うことはできない。むろん現代の『地球』で死体を扱うことは死体遺棄罪やら死体損壊罪など様々な法に触れ、また衛生面から考えても実践はできない。

 それでも生物由来の素材をやロボット、ドローンのように駆使することはできる。尸遠への指導はそのような方針で指南をすすめられていた。

 ……今朝の稽古をはじめて概ね一時間半ほどした頃、新発田が様子を見に来た。

「今朝も精が出ますね。ところで朝ご飯どうしましょう」

 これに一元が蒸気タバコをふかしながら

「ここで食べる」

 というと、尸遠はたちまちに「えーっ、シャワー浴びたい」と抗議の声を上げた。

 これをきいて、一元は「しかたない」とぼやいて、

「じゃあ三〇分くらいしたら、食堂に行くと伝えといてくれ」

 と返事した。尸遠は安堵し、つられるように使役した物どもが一斉にふらりと揺れる。

「こら、気を抜くな!」

 一元は白い息をもうもうと吐きながら一喝し、エアガンの弾倉を変えた。

「はいはい……」

「あと五分だ。それで終わりにしよう」

 そういって一元は黒い短機関銃を孫に向けて照準を睨んだ。引き金を引くと、がしゃしゃしゃしゃっという動作音と共に、プラスチック弾が秒間五発のペースで連射される。

 途端に灰の山から一握りほどが跳ね上がり、飛来する粒を掴み取る。弾丸が秒間五発なら、灰の塊も秒間五個。まるで大人数の雪合戦のような激しさである。

 灰は一粒の弾丸を掴むたびに床に落ち、磁石に寄せられた砂鉄のように灰の山に戻り、次の玉のためにすぐに跳ね上がる。

 尸遠はこの曲芸めいた景色に目もくれず、二次関数の試験対策問題に頭を悩ませている。

 撃ち尽くすと、灰の山はつむじ風のように立ち昇って彼の手元を包み、銃を奪う。それから捧げ持つように銃を返し、もとの位置に帰って灰の山に戻る。

 一元が空の弾倉を灰の山めがけて床を滑らせると、灰山はそれを受け取り、弾倉に弾の粒を詰めていく。限界まで充填されると、灰山の一端が一元に弾倉を差し出す。

 尸遠が巻島の屋敷に泊まりに来るたび、これが数時間は行われているのである。

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