15 二人の食卓

 食堂は二間に分かれている。間にある引き戸を開け放てば大きな広間になる造りだ。

 一元が弟子らと共に食事をする際には開け放っているが、今夜は違った。

 尸遠が来ているからだ。そういう時は引き戸を閉め、巻島家と弟子は別で食事をする。

 もっともこの半年は感染症の到来時の対応習慣に備え、この引戸は閉じたままだった。一元は一人きりで食事をし、弟子も時間をずらし席の間隔を空け、無言で食べていた。

 黙食の指示も解除となり、一同に介しての食事は、心弾むものがあった。今夜も弟子達のテーブルはその空気に満ちているようで、時々戸板ごしに笑い声などが聞こえてきた。

 尸遠と一元は二十帖弱の部屋で丸テーブルの向かいに座り、黙々と食べていた。

 二人とも空腹のうちは食べることに集中して口数が少なくなる傾向があった。二人きりの時は心得たもので、いただきますと発した後は最後の茶と菓子まで、無言のこともある。

 その日の夕食は刺し身を主菜とした涼やかなものだった。

 それでも祖父は昨晩の酒の影響がまだ残っているのか、今夜は酒を控えて湯呑の茶を飲みながら食べている。彼は椀の飯には手をつけず、吸い物と刺し身、副菜の野菜の煮浸しやほかの小鉢まで平らげたところで

「最近学校のほうはどうだ」

 とナプキンで口元を拭いながら尋ねて来た。

 尸遠はふふっと含むもののある笑みをして吸い物の椀のふち越しに祖父を見た。

「見えてるんじゃないの?」

「わしが見通したことと、お前の実感はまた別のものだ。それに『天眼』はわしの身に起きることを見通すもの。話を聞かなければ、話してもらえなかった未来が来ることになる」

 これは二人にとって決り文句のようなやりとりだった。

 尸遠はこれを受け止めて、ふふと笑み、軽く口元を拭った。

「いじめはあれっきりなくなったよ。ロッカーの鍵も番号式に替えたから、壊されないし」

「それはよかった」

「あと、毎朝が少し楽しくなった。誰かと待ち合わせて学校いくのって悪くないね。ただ、お昼がちょっと……」

「嫌なのか?」

「ううん。僕は黙って食べるのも悪くないと思ってるんだけど、桜塚さんっていう男の子が、すぐ話題を振ってくれてさ。女の子と食べてるときと違って、気を使わせてる気がする」

「そうか」

「うん、それにもうひとりがあんまりおしゃべりなタイプでもないから」

「人にはそれぞれ、適したペースがある。じき慣れる」

「うん。……それとも、そういうふうに『見えてる』の?」

 これにああと唸って少し遠い目をした。それから再び孫を見て、

「それもなくはない。だが大抵は共に過ごす相手のペースは、時間をかければ自ずと見えてくるものだ。あとはそれとどう折り合うかだ。桜塚という子は、そこで相手に同調を強いるタイプのようには『見え』ない」

「それはそうかも……居て気楽なんだよね。なんか大きな犬と一緒にいる感じ」

「あまりべたべたと甘えるなよ」

「別にべたべたはしてない」

「お前は友達としての男運は悪くない。だがお前を女として見るものも少なくないはずだ」

「ああ、尻軽に見えるってこと?」

 これに一元はむせるように咳をした。

「ごめん、言葉が悪かったね」

「……わかっていればいい」

 尸遠が含み笑いしながら料理を平らげると、頃合いを見た給仕担当の厨房見習いが、果物の盛り合わせと紅茶をワゴンに乗せて運んできた。尸遠が佐藤と下着を買いに行ったついでに買い込んできたものである。

「で、じいちゃんの方はどうなの?」

 二人の目の前の膳が手早く片され、水菓子と紅茶に取り替えられる。

「わしか、とくに変わりない。医者も血圧以外は心配ないと」

 給仕は会釈をし、ワゴンを押して厨房へと下がっていく。

「……そうじゃなくて。昨日、倒れそうになるまでお酒飲んでたって聞いたよ」

「誰がそんなことを」

「誰でもいいでしょ。何かあったの?」

 そう心配する孫に、祖父は目を細めて笑んだ。

「確かに昨日は飲みすぎた。だがそれだけのことだ」

 そう言う祖父を見て、尸遠は立ち上がった。そして一元のすぐ隣の席の椅子に座る。

「いいから話して。それとも僕じゃなくて新発田さんになら話せる?」

「いや、話して聞かせるようなことじゃない。何事にも代償は伴うという話だ」

「じいちゃんの力が原因で何かあったの?」

「まあ、そんなところだ。昨日も宴会などすべきじゃなかったかもしれない。だが、意識して仲を取り持たなければならない関係というのもある。昨晩はそういう類の場だった」

 それをきいて尸遠はため息をついた。これまでも何度かあったことだった。

 『機関』について、一元は尸遠に詳しく話したことはない。だが政府の役人や外交官が、世界的に著名とはいえ一介の芸術家のところに年に幾度も訪れるものではない。

 そういう人々の出入りや異世界から来た人を何人も公然と保護できているこの巻島の屋敷の存在。それらについて尸遠が考えうる範囲でも、異世界からの来訪者を監視し管理する秘密結社のようなものがあることは分かっていた。

「その人達は仲直りはできそう?」

 一元は力なく笑って、孫の頬をつまんだ。

「世界が滅びかけても手を取り合うことのないものというのは居るものだ。特にこの世界は、相手にふれることもなく傷つけることに長けすぎている」

「銃とか?」

「ああ、匿名のSNSとかな」

 一元は少し冗談めかして言うと、尸遠はふっと鼻で笑った。

「じいちゃんはSNSやらないと思ってた」

「やらずとも『見える』からな。まあ、気にすることじゃない。私には積み重ねてきたことと、それに対する誠実な評価がある。これは未来が見えるより価値があることだ」

 事実、二〇〇〇年代に日本で紫綬褒章を、一九八〇年代にフランスの芸術文化勲章を受勲している。これらは昨日今日の匿名の悪評で揺らぐような地位ではない。

 一元はしっかりとした目でそう言い切ると、何か疲れたとでもいうように背を丸めて懐に手を入れた。そこから取り出したのは蒸気タバコである。

「またそれ? ほどほどにしなよ。咳き込んでるくらいなんだから」

 尸遠は苦笑混じりにそう言いながら立ち上がり、自分の席に戻った。

「わしはガンでは死なん。それにこれにはニコチンもタールも入ってない」

「だったらタバコより紅茶飲みなよ。こっちだっていい匂いだよ」

 一元は少し笑って、カチカチとタバコの電源を入れた。尸遠も構わず食べ始める。

「SNSといえば、最近流行ってる動画があるそうだな。昨日の宴席でも耳にした。なんでも他のものとは比較にならないような強い催眠術の動画とか」

 それを聞いて、尸遠は口に入れたばかりの木苺を咀嚼しながら、うなずいた。

「それって五分くらいの短いやつ?」

「細かくは知らん。そういう動画なのか」

「うん。普通の睡眠導入動画って子守唄代わりに流すからすごく長いんだけど、その投稿主の動画は五分くらいで凄く効くんだって。……なんかおっかなくて、僕は見てないけど」

「そうか。見てないのか。ならよかった」

 意外そうな顔で木苺で赤くなった口元を拭う尸遠。

「やばいの?」

「弟子たちが言うには、地球のものではない呪詛や幻術の類が施されているらしい」

「……なんか、脳に影響出ちゃったりするのかな……僕が聞いた話だと、見る夢の内容まで指定してくるらしいのね。だから脳に直接影響する何かなのかなって。……しかも変な仕様でさ。コピーやダウンロードした動画だと効果ないらしいの」

「写しがきかず、原本のみに効果がある、ということか」

「そんな感じ」

 それを聞いて、まじまじと一元はうなずいた。

「……ともかくその動画、まだ大きな災難の兆候は見えないが、『地球』外の技能の込められた産物となるといい予感もしない。できれば見ないで置いてもらえるか」

 尸遠はこくりとうなずいた。

「ちなみに今いちばんヤバいのはなに?」

「うーん、異世界人が関わると『天眼』でも見通しきれないところがあってなあ。正直少し困っている。少なくとも香港はもう駄目だ。ほかに規模が大きくて深刻なのは、ミャンマーとウクライナか……アメリカも十一月の大統領選の前後や流れ次第で、来年色々とこじれる。それによってはアフガニスタン……まあ、あとは尸遠は知らんほうが都合がいいものばかりだ」

「じゃあ聞かないでおく」

 それをきいて祖父はにこりとした。

「そうしてくれ」

 孫は頷きながら早売の甘夏をじゅるじゅると食んだ。

「今夜は、このあとは勉強か」

「うん、昼間やりたかったけど、佐藤さんに無理矢理買い物連れてかれたから」

 一元はすうと一口タバコを吸い込んだ。

「楽しかったか?」

「うん。佐藤さん、思ってたより運転が丁寧だった」

「そうか……今夜は早めに寝てくれるか。そして明日の朝六時、アトリエにおいで」

 もわもわと蒸気を口から漂わせながらの言葉に、尸遠は少し嫌そうに目を細める。

「……やるの?」

 一元はひとつうなずいて蒸気タバコの吸口を咥えた。

「『力』があるからには身に修めなければ。不安定な力ほど危ないものもない」

 尸遠は口を尖らせて、残りのお茶をぐいと飲み干した。

「そんな顔しても駄目だ。……厨房に言って、明日の朝ご飯でプリン用意させるから」

 それを聞いて、尸遠はしぶしぶうなずいた。

 一元はその返事を見て蒸気タバコの電源を落とし、テーブルに立て掛けた杖を取ってよいしょと立ち上がった。

「ごちそうさん」

 と厨房めがけて声をかけて、一元は食堂をあとにした。

 それを見送って、尸遠はスマホを取り出し、空になったデザートの皿とティーカップを撮影した。それをSNSの揮発性投稿にアップロードする。

 それが済むと、ぱちんと音がするほど手を合わせて「ごちそーさまでした」としっかりとした声で言った。別に小学校低学年や幼稚園児の給食のような所作をしたいわけではない。こうしないと二人とも食べ終わったことが厨房に伝わらないのである。

 尸遠も席を立って食堂を出ようとすると、厨房から見習いが皿を下げに出てきた。

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