14 巻島屋敷にて、一元の電話
巻島一元は芸術家としての作業中は電話の類いを持ち込まないように心がけていた。
彼の創作活動は作品や表現対象と向き合うことではない。
あくまでも『天眼』に基づく最適解をなぞる作業である。
それは例えば、どちらの足から踏み出すか、いつ何に触るか、弟子への指示の言葉、スケッチの線一筋。どう振る舞いどう作ればどんな未来につながるか。それを慎重に辿る。
一つの指示ごとに生じる未来の誤差的な変化に対し、綱渡りのように繊細な調整の挙動を積み重ねる。その連続した微調整と前進が集約された産物として、作品が完成する。
作り上げた作品の未来の評価を予知し、最大公約数的な最良の未来に通じるタイミングで公開する。あるいは、再び一から作り直す。その繰り返しだった。
それを続けなければ、最良の結果から未来は立ち所に逸れてしまう。『巻島一元という作家』においていえば『その時点で最高の作品』を作り出し続けることができない。
……一元は手を上げて、ため息をついた。
「今日はこのへんにしようか」
これを聞いて、作業をしていた弟子らの間からため息が漏れる。一元の言葉は『今日は期待値に達する制作に至らなかった』という意味の作業終了の指示だった。弟子たちは、徒労感のある顔で作業道具をまとめ、ロッカー室で作業着を脱いでアトリエを出ていく。
一元はこれを見送りながら、ツナギのポケットから電子蒸気式タバコを取り出し、カチカチと電源を入れた。
小さな機械に熱が通うのを待つ間に、目の前のゴミの固まりのような作品を見つめた。
どこがどう悪いのか、どこがどう良いのかは本人にもわからない。だがこのままでは最良の評価には至らないという結果だけが見えている。
予知能力は、しばしば正解が判っているテストを受けるようなものだと思われる。だが実際にやっていることはその日の自分のベストタイムを知った上で、マラソンを走るようなものだ。繊細に気を配りながら全力で走り切ることでようやくベストタイムを出すことが出来る。そして気を抜けばタイムは悪くなり、見える未来も悪くなったタイムに変わる。
蒸気タバコを一息吸い込み、白い息をもうもうと吐き出した。この一服も久々だった。
喫煙は亡き妻の習慣だった。癌を告知されても彼女は吸い続けた。一元がノンタールの蒸気タバコを吸うようになったのは自身の死期の未来予知が少しずつ集束してきたのと向き合う中で、余命を知っていた妻が何を感じていたのか知りたくなったからだ。
『天眼』の限りでは、あと十年ほどで自分は死ぬ。原因は脳だ。脳梗塞か脳出血か事故による外傷か……未来は分岐している。だがどの行く末も、脳へのダメージが原因で死ぬという点で一致していた。
あるいは先週までの半年余りは、二〇二〇年中に死ぬ未来も見えていた。
SARS2という中国湖北省より発生した新型感染症が同省省都武漢にて確認され、そこから呼び名を変えて世界的に蔓延する。この病気は潜伏期間中にも感染が広がり、人から人への感染で二年で二億五千万人以上が感染、五〇〇万人が死ぬ。
『天眼』によれば、ワクチンは最短でもウイルス発生から一年で開発される。だが、一元自身はその国内摂取に間に合わず感染し、重篤な肺炎症状を起こして死亡する。
イスラエルやアメリカなどワクチン摂取開始の早い国に移ることができればワクチンの効能によって軽症で済むだろう。
だが、そもそも『天眼』のような高精度未来予知は各国が奪い合って求めるほどの異世界技能である。まず国内の『機関』が国外流出を嫌って出国を許さない。そのような選択をすれば、その移動の飛行機内で一元は『機関』に暗殺されるだろう。
そうであれば、他に出来ることは国内で死を待つか、この緊急事態を『機関』に強く訴えて『事前の策』を取らせることだけである。
そしてこの世界的危機は、一元だけでなく世界中の『未来予知技能』を持つ異世界転移者から提起された。そして各国の『機関』に相当する組織が連携し、中国政府に干渉し、武漢市に感染源となる媒介生物が持ち込まれる前にウイルスの封じ込めに成功した。
その過程で、湖北省のある地方集落の数百世帯が監禁された。それはほどなく同地域の大量発症に繋がり、発症者は治療を受けたが一〇〇人以上が亡くなり、また数種の媒介生物が地域一帯から駆除された。これが結果として感染症発生の可能性を大幅に引き下げたが、それでもなお最近までは余談を許さなかった。
そして先週、ようやく『天眼』から完全にSARS2の発生する未来が消えた。SARS2回避の未来予知は一元だけでなく、世界中の未来予知技能者から報告された。
あとに残ったのは、中国の封じ込めの過程を断片的に報じる報道だった。
それは現在『生物兵器の漏洩とその証拠の抹消のための虐殺』という陰謀論を伴って、世界中で報じられている。日本国内でもマスコミやSNS世論が、強く非難している。
その実、裏では世界中が『湖北省の虐殺』を求めたことを誰一人として知らず、誰一人として漏らさないままに、である。
昨晩、この巻島屋敷ではこの『完全封じ込め』の成功を祝う宴が催された。
そこには中国と米国、ロシア、ドイツ、スペイン、インド、インドネシアの外交官の姿もあり、暗躍した異世界来訪者管理組織の規模の大きさが如実に表れていた。
……一元はこれまで、作品制作に、感情を持ち込むことを抑えてきた。
彼にとって、創作は表現活動ではない。未来へ向けて可能性と選択を集束させる作業だ。
だがこの一作だけは、自らの気持ちを込めたいという思いにかられていた。未知のウィルスへの勝利の裏にある、多くの命への追悼である。大震災のような避けても避けきれぬ天災とはわけが違う。自分たちが率先して『解決』を求めた結果の百人余りの人の死だ。
……そのせいもあって、昨晩は溺れるように酒を飲んだ。そして、その宿酔と欲求に揺さぶられながら制作に向き合った分、今日の出来は悪くなった。
今日の出来で世に出したとしても、巨匠カズモト・マキシマの新作としてそれなりに価値はあるだろう。だが同等の出来の作品が続けば数年で自分は『衰えた作家』と評価する声が出る。その声がどこから上がるか、どのメディアが取り上げ、どのように広まるか。そこは幾重にも揺らぎがあるが、確実に評価する声は低くなる。それだけは見通せている。
……おそらく『天眼』を株式投資や賭博、近年なら暗号通貨の売買に使えば今の数千倍の私財を蓄えることも簡単だっただろう。それほど正確かつ厳密に未来が見通せる。だが、それをすることは経済という地球の人間界の摂理に異世界の技能で干渉することになる。『機関』はそれを防ぐための組織であった。
一元が芸術家となったのも、他に『天眼』を駆使して許される活動がなかったからだ。
……弟子が全員離れのアトリエを去ったのを見届け、一元は蒸気タバコを止めた。
よいしょと立ち上がると、固まっていた腰が、にわかにきしむように痛む。
それをさすりながら自分もロッカー室に入り、ツナギを脱いで普段着に着替えた。
年季の入った柔らかなデニムにポロシャツである。最後に片隅に立て掛けた杖をとり、スマホをとった。ロック画面は妻が褒めてくれた初期の作品の図録画像だ。
メッセージアプリの着信が入っている。孫の尸遠からだった。内容は見なくてもわかっていた。一元はふっと笑んで、アプリを開いた。
『吉祥寺まで佐藤さんと買い物に来てる。なにか欲しい物ある?』
『果物をたくさん』
そう返信した。自分が食べたいからではない。昨晩よく働いた使用人達を労うためだ。
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