13 新発田
尸遠は執事室の扉を叩くと、中から「どうぞ」とよく通る声が帰ってきた。
戸を開いて顔を見せると、新発田は老眼鏡を鼻のあたりにかけて、パソコン画面とにらめっこをしていた。それが現れたのが尸遠とわかると、ぱっと笑顔を見せた。
「どうしました」
「ううん、なんとなく」
そう言うと、彼女は一瞬あぜんとした顔をして、ふっと力を抜くように笑った。
「なんとなくで来ないでください。……なにか冷たいものでも持って来させましょうか?」
「ううん、お構いなく。お仕事続けてくださいな」
「それでは、失礼して」
そう言って新発田は眼鏡をかけ直し、画面と手元の領収書の束を交互に見比べはじめた。
「ここもいよいよ男所帯になってきたね……小暮さんの代わりになれそうな人、いないの?」
小暮とは屋敷に勤めて8年になる女性の使用人である。今は住み込みではなく通い勤めで、既に結婚して産休および育児休暇期間中である。
子育ての経過次第だが、順調ならばあと2年ほどで巻島屋敷での『保護契約』は終了し、その後は一般人として地球で生活することになる。
「探してますよ。『機関』にも打診はしてますが、旦那様が他所へ譲ってしまうんです」
これに、尸遠はなにか悟ったように相槌を打った。祖父の予知能力『天眼』である。
「ああ、なんか他の人と問題起こしちゃう未来が見えてる感じ?」
「さて、それはどうだか……なんでも『ここより幸せになれる環境がある』方ばかりだそうで」
皮肉っぽく言うのを聞いて尸遠は失笑した。
巻島屋敷は比較的ホワイトな労働環境である。
使用人達は実労働の時間とは別に、日本での生活や再就職する上で必要な知識や技能の習得するための時間が一日のスケジュールに組み込まれている。
実際、使用人の広間の本棚は運転免許の参考書などと共に絵本から小学校の漢字辞典、十進法の掛け算の早覚え表などがある。
皆、暇さえあれば読み書きの練習をしたりスマホで日本の法律や資格や税制について熱心に調べたりしている。
「まあ、こればかりは仕方ありません。それよりこれを、小暮から昨日届いたんです」
そう言いながらスマホを触り、そして差し出して見せた。
まだ首も座っていないような赤ん坊の画像が表示されている。
これに尸遠はぱあっと顔を輝かせて、小さく声をあげた。それを見て、新発田も笑む。
「小暮さん本人はどう? 旦那さんとかうまくやってそう?」
スマホを返しながらそう尋ねられて、銀髪の彼女は不敵に笑んだ。
「うまく行かないようだったら、旦那様がお許しになりませんよ」
これに眉をひそめる尸遠。
「なんていうか、ふつー恋愛結婚に雇用主の許可とか居る?」
「まあ、旦那様はお力で見通せますから」
「そりゃそうだけど……」
尸遠にとって新発田は本当に話しやすい相手だった。
新発田の方が年上にも関わらず彼女は常に敬語だったが、その口調はいつも柔らかで、何でも相談できた。
それこそ初潮が来たのも屋敷に泊まっていた時で、最初に打ち明けたのも新発田だった。
その時も新発田は穏やかな態度で、尸遠を落ち着かせながら手際よく屋敷の女使用人達に指示を出した。着替えと生理用品を手配し、帰宅時は生理用下着の替えまでくれた。
――そして尸遠の性自認に最初に理解し、両親にわかるように話してくれたのも新発田だ。
そういうこともあって、尸遠は新発田に懐いていた。
祖父はその間どうしていたかというと、何事も素知らぬ顔で通していた。そうするのが最適と『天眼』の力で既に知っていたためである。
「そういえばさ、マスクと消毒、解禁になったんだね」
「ええ。中国のコヴィドの発生の可能性が完全に消えたそうです。昨晩は当屋敷にて『機関』の担当者と連携各国の関係者を労う宴会がありました。ここにあるのがその宴会の請求書です」
そういって、新発田はデスクの紙片の束を指差す。
「そんなときに悪いね。……僕、今からでもどっかビジネスホテルにでも移ろうか?」
「いえ、そのご心配には及びません。尸遠さんならいつでも歓迎ですよ」
「そっか、けどそういうことなら、昨日から泊まりじゃなくてよかった」
「そうですね、勉強どころではなかったかもしれません」
これに尸遠は渋い顔をした。
「万が一余興で僕の力を使ってみせろなんて言われたらたまったもんじゃない」
これに、パソコンのキーボードを叩きながら新発田はふっと笑った。
「そのときはそのときで、厨房で用意できたでしょうね」
「なにそれ、トリの丸焼きでも踊らせろと? 勘弁してよねー」
「それで、今夜のご夕食はどうなさいます? 旦那様と同じでよろしいですか?」
「うん」
「ただ、少しもの足りないかもしれません」
「え、じいちゃん、医者になんか言われてるの?」
「いえ、今朝は二日酔いのご様子でしたので、今日は控えめにと仰せつかってます」
そういわれて、尸遠は仕方ない言うようにうなずいた。
「足りなければ、夜中にコンビニでも行くよ」
「いいえ、そういうことなら、お夜食を用意させます。無理なダイエットなどをなさっていないというのは、喜ばしいことですし」
「せめて背が伸びてくれればいいんだけどね。余計なところにばかりつく」
それを聞いて、新発田は困ったように眉を曇らせた笑みを見せた。
「……また大きくおなりに?」
「うん、胸がちょっと……下着も、先月買い替えたとこ。まあ、くよくよしても仕方ないことだよ。胸から太る体質だと思って割り切る」
尸遠はそう言って鼻で笑った、しかし新発田はやや困り顔のまま、スマホ画面を操作してどこかに電話をかけ出した。
「そういうことでしたら、一度ドレスのサイズを見たほうがいいかもしれませんね」
「うう……そこまで大きくなってはいないと思うんだけどね」
「……もしもし佐藤さん? 尸遠様がドレスのサイズをお試しになられるのでご用意を……尸遠さん、この後のご予定は?」
「ないよ」
「では部屋でお待ちください」
尸遠はげんなりと息をついて新発田に拳をつきだした。これに新発田もグータッチを返す。
そして尸遠は彼女の事務室を出て、部屋に戻った。
今度の泊まりは中間試験が終わるまでの予定だった。学校も祖父の屋敷から通う。
なお両親は、来年予定している海外個展のための作品搬出の打ち合わせと、国内のビエンナーレの展示の設営の監督のために揃って期末試験明けまで家を空けている。
尸遠の荷物が最低限なのは、数日分の着替えを祖父の屋敷に置いてもらっているためだ。大半は、オーバーサイズの服ばかりである。
またそれとは別に、昨晩のような祖父の賓客がある晩に泊まった時に備えたフォーマルな服の用意もある。
尸遠のフォーマル服は、上半身は布面積の多いケープに、ぴったりとしたパンツスタイルのコンビネーションドレスだ。典型的なノンバイナリ向けの準礼装である。
――尸遠は男性ホルモン剤や、胸を平たく見せる補正下着などはつけていない。下着も体の性に沿ったものだ。
それでも人の視線というのは気になる。特に尸遠の場合、相手が男性のとき、胸元に視線が来がちな体型である。
学校では体育の授業の着替えなどで下着姿を見た女子でもなければ、尸遠の本当の体型を知るものはいない。
正装という意味では学校の制服でもいいのだが、こちらは意図的に避けていた。制服の夏服はジャケットがなく、女子用のブラウスにリボン、そこに身体女性のためのスラックスを履くことになる。
最も視覚的に目立つ形で、自分が性的少数者であることを露呈させることを強いられる。そんなものは視覚的な強制カミングアウト、もしくはアウティングも同然だ。
そのあたりを柔軟にカバーするのが、オーダーのパンツドレスだった。
佐藤は、尸遠より頭ひとつ背の高い、やや目鼻立ちのしっかりした色白の女性だった。
顔立ちだけでいえば、尸遠よりも佐藤のほうが品があるくらいである。その衣服はむろんメイド服などではなく、ポロシャツにチノパンという普通の夏場の家政婦の格好である。
「そんなに太ったように見えませんけどね」
「自分でもそう思いたいよ」
尸遠の部屋に戻るなりそんなことを言い合いながら、尸遠はそそくさと服を脱いだ。それに合わせて佐藤は手際よくドレスを出し、尸遠の体に着付けていった。
尸遠はドレスを着るときはいつも少し不思議な気持ちになった。
布の質感はいかにも女性らしい柔らかなもので、着心地も悪くないのだがそわそわする。
こうした服や黒紋付も自宅にないわけではないが、まず着ない。巻島屋敷でのなにかの祝いの席に参加したときに着る程度である。
ドレスに袖を通した姿を鏡で見て、尸遠は小さくうなずいた。
「うん、とりあえず着れそう」
「ええ、パンツドレスは大丈夫そうですね」
着替えを手伝ってくれた佐藤も、これにはうなずいた。そしてくるりと背中を向けて、彼女は大きく息をついた。
「けど、問題はそこじゃないです。見てください。何か足りないと思いませんか?」
ベッドの上には尸遠が持ち込んだ着替えが種類別にたたまれて並べられている。
「ん? 別に」
「足りないでしょ、下着が。ベアトップやビスチェがないのはまあ仕方ないです。けど、なんで普通のワイヤー入りブラが無いんですか。ブラトップとスポブラばかりですよ」
「いや、別にこれから爺ちゃんの仕事がらみのパーティに行くとかってわけじゃないんだからいいじゃん」
「いいえ。こういうことでしたら、下着まで合わせて用意しておかないと。今からですと、外商を呼ぶより隣町の専門店の方が早そうですね。体に合ったのを買いましょう。出かけますよ」
「車はどうするの」
佐藤はふふんと笑った。
「私もついに免許を取りました。新発田さんに車のキー借りてきますから、外出のご用意を」
その口ぶりからして拒否権はなさそうだった。
尸遠は苦々しく半笑いを浮かべて、着たばかりのドレスを脱ぎ始めた。
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