11 巻島屋敷

 巻島尸遠は月に数日、祖父の家に泊まる。今回は一学期中間試験中の週末だった。

 朝の木漏れ日にも関わらず、肌を灼くようだった。家を出るときまでは濡れていた路面も、水たまりが残る程度に乾いて、汗が浮く無風の湿度となっている。

 これからどんどん暑くなる。そう考えるだけでうんざりするような午前だった。

 セミはさあ自分たちの時代が来たといわんばかりに、けたたましく鳴いている。

 市の中心街を行き交う人は誰もが、手足を出した薄着に帽子、日傘姿もめずらしくない。

 その街中に、緑豊かで間口の広い、門扉を閉ざした寺社のような屋敷がある。

 そこが尸遠の祖父、巻島一元の居宅だった。

 その電動制御の門扉の脇の潜戸の前で、尸遠はぐったりとした様子で立った。

 その出で立ちは着崩したオーバーサイズのTシャツに短パン黒い野球帽に黒の不織布マスクだ。足元だけは通学時と同じ、履きつぶしかけのスニーカーである。耳にはピアスが何本も挿してある。荷物は都心の洋菓子店の大きな紙袋とボストンバッグ、そして通学カバンだ。

 祖父の家に電車で来る時はいつもこのようなスタイルである。

 インターホンを鳴らす代わりに、スマホから屋敷の警備室の外線番号に電話を掛ける。

 呼び出し音の鳴る間にマスクを顎までずりさげ、潜戸の上のほうに設置された監視カメラに顔を見せて手を振った。

 通話がはじまるとまもなく、向こうから

『おはようございます、尸遠様』

 という声が来た。

「お疲れ様です。正面口にいるの、僕です」

 と言い返す間に、ガチッと潜戸の錠が外れる音がした。

 どもでーす、と礼を言って電話を切り、マスクを鼻上までずり上げて潜戸を通った。

 扉の中は、眩しいくらいの白い玉石敷きと芝生の前庭に、正面口、奥の車庫へと通じる石畳の車道がある。潜戸から正面口までは茶室の露地のように飛び石になっていて、石灯籠が立っている。

 この石灯籠は数年前からLEDランプ仕込みに改修されている。

 奥に見える屋敷も、和洋折衷屋敷でいかにも歴史ありげだが、建築は90年代である。

 それ以前は周辺地域一帯も駅前の再開発の前で、商店街と住宅地だった。地価バブルが始まる以前の80年代初頭、ここは事業失敗した町工場で、一元はその負債ごと工場と土地を買い付け、工場をアトリエ兼住居とするところから始めた。

 現在の庭付き屋敷と離れのアトリエに建て替えた後は、耐震補強や防犯強化、LAN回線埋設など数年ごとに細かな改修を繰り返している。

 門から天を見上げれば、周囲に林立する柱のようなビルに切り取られた空と、その外界と屋敷を隔てる緑濃い木々がある。

 尸遠は荷物を担ぎ直して飛び石の上を歩き出した。すると屋敷の正面脇の使用人口からサンダルの履きの若い使用人だか一元の弟子だかが飛び出して、駆け寄ってくる。

 尸遠はその顔を見て驚いた。見慣れぬ顔という事以上に、彼はマスクをしていなかった。

 ひとまず荷物を下ろして頭を下げると、向こうも急停止して深々とお辞儀した。

 それから尸遠が「おはようございます」と声をかけると、むこうも異国訛りの強い日本語で、

「オハヨゴザマス。おかえりなさいませ」

 と応え、ひゅいっと前歯を吹き鳴らした。途端、尸遠の三つの荷物はふわりと浮いて、彼の手元に寄った。

 これを見て「ちょっとちょっと」と尸遠が声をかける。

「それ、外では使わないで。上の方で、誰かがスマホ構えてても不思議じゃないから」

 そう言われて、彼はやや戸惑った様子でうなずいた。

「はい、気をつけます」

「あと、その紙袋はみんなへのお土産のお菓子だから、優しく持って」

 そう付け加えると、彼は嬉しそうに白い歯を見せて、うなずいた。

 二人はそろって屋敷の玄関に入った。


 ――尸遠の両親は祖父一元の作品の保存と権利管理を行う会社を経営している。

 国内外の大規模個展や作品の貸し出しなどがあれば、出張で数日家を空けることも少なくない。そのたびに尸遠は祖父の家に預けられた。

 祖母の巻島八重子は尸遠が幼い頃に他界し、祖父一元はそれ以来単身者である。単身といっても、いわゆる独居老人という状態からは程遠く、住み込みの弟子や使用人と暮らしている。

 特に尸遠と馴染みがあるのは、運転手の野木と数名の守衛に弟子、女執事の新発田。そしてここ数年は、尸遠が泊まるときの世話をしている若い女使用人の佐藤である。――


 屋敷に入ると、旅館のような幅広の土間に下足番を兼ねた守衛の一人が控えていた。そして上がり框の上には既に新発田と佐藤が出迎えに顔を揃えている。

 この三人も、マスクはしていない。

 新発田は尸遠が産まれた時には既に屋敷に勤めていた。歳は五十がらみで髪もいくばくか銀色がかってきている。

 屋敷全館にかかった空調の冷たい空気が、上がり框から尸遠のいる下足場に降りてくる。

 上段の二人と向き合って、尸遠はしゃんと背筋を伸ばした。

 二人はうやうやしく頭を下げた。

「お待ちしておりました。おかえりなさいませ」

「おかえりなさいませ」

 二人の言葉に、帽子を脱いだ。

「しばらくお世話になります」

 そう言って野球少年のように深々と頭を下げる間に、さっきの新顔はカバン二つを佐藤に渡し、ゼリーの詰め合わせ二箱が入った紙袋を捧げ持つように尸遠に差し出した。

 それを受け取る前に、尸遠は下足番が何かを差し出すのを待ったが、一向に出てこない。

 それを不思議そうにしながら、マスクを外してポケットにねじ込み、空いた手で洋菓子店のロゴの入った紙袋ひとまず受け取る。

 そして改めて新発田に差し出す。

「これは母から皆さんに。いつもの店のゼリーです。冷やして食べてください、って」

 新発田はうやうやしく受け取る。

「いつもありがとうございます」

 そこまでのやり取りを終えて、尸遠はふうっと息をつき、使用人一同もにわかに姿勢を緩める。

「それじゃあ佐藤さん、お荷物、お部屋にお運びして」

「はい」

 このやりとりを聞きながら、尸遠はシャツの裾を扇いで冷気を服の中に取り込む。

「尸遠さん、お靴を」

「あ、はいはい」

 そう言って下足番の前で塵だらけのスニーカーを脱いで、スリッパに履き替える。

「またこれ履いてるんですか。ご入学の際に買い換えられたのはどうしたんです」

「いやー、いたずらされて。新品はまたやられそうだから、学校はコレで」

「そうですか。大変ですね」

「まあ、今後はいくらかマシになりそうなんだけどねー」

 下足番とそんな言葉を交わす。下足番が靴の上をさっと手で払うと、まるで掃除機で吸ったように靴がかぶった泥の塵が消えた。

「そういうことでしたら、この程度にしときます。紐くらい替えますか?」

「ううん、そのままで。いつも悪いね。……あのさ、ここ手にシュってやつ、もういいの?」

 そう言われ、下足番は顔を上げた。その耳の警備連絡用のインカムが少し目を引く。

「あ、手の消毒ですか? 旦那様から、もう消毒する必要はなくなった、とのことで」

「ふうん。じいちゃん本人か新発田さんに聞いたほうがいい感じかな」

「そうしてください」

 ……先程の新顔、この下足番、そして主人の巻島一元まで、この屋敷の住人には他所には漏らせないある秘密があった。

 尸遠と下足番が世間話を交わす横で新発田が懐中時計でも見るようにポケットからわずかにスマホを出してのぞいている。

「それでは、後のことは佐藤に。お勉強は書斎なりお部屋なりご自由にお使いください。旦那様は夕方までアトリエだそうですから、お会いになるのはその後がよろしいかと」

「はーい、いつもありがとね」

「佐藤さん、尸遠さんをよろしくお願いします」

 そう言い残して、新発田はそそくさと奥に消えた。佐藤は腰を下げて尸遠に礼する。

「じゃ、後で守衛室遊びに行くから」

 尸遠は下足番にそう言い残し、佐藤に続いて屋敷奥の客間への廊下を歩き出した。

 佐藤が両腕に吊るしたカバンのうち、重くて担ぎ慣れた方、すなわち鍵付きの通学カバンのほうを、尸遠はさらうように引き取って、佐藤の半歩前を歩き出した。

「ちょっと、私の仕事なんですけど。あと追い抜かないでください」

「いつもと同じ部屋でしょ? それに僕は慣れてるから」

「そうですけど……そういえば、またピアスお増やしになりました?」

「気がつくねえ」

 尸遠はそう言ってへらっと笑った。学校にいる時とは様子がだいぶ違う。やはり小学校の頃から毎月のように話していて、気を使わなくてよい相手だと色々と具合が違うのだ。

 佐藤はふっと鼻で笑うような顔をした。

「気づきますよ。一体いくつ耳に穴が必要なんですか。いつか切り取り線みたいにちぎれてもしりませんよ」

「そこまでたくさん開けるつもりはないからダイジョーブ」

 佐藤は実の名前ではない。佐藤はその名同様、顔立ちもありふれた日本人女性だが、これも色々凝らしてそう見えるようにしている顔であって、素顔ではない。

 彼女の故郷は『虹天秤』という『地球』と平行存在する異世界である。そこから難民として単身地球の日本に流れてきた。

 その身元を引受けたのが尸遠の祖父、一元であった。

 この屋敷の人間は新発田を除いて全員、この佐藤に似た出自をした人々だ。

 ――というより、屋敷の主である巻島一元自身が、出生名をターゲン・カゾートという異世界の出であった。


 カゾートの生まれは『天樹上盤の国』という異世界である。14才から20才近くまで王宮の直属機関に奉公していた。

 ターゲンの家系はある遺伝性の強い秘術家の家柄だった。

 絶対的な予知能力『天眼』と、死者の使役と葬儀を司る『死霊術』の二つの秘術である。

 『天樹上盤の国』が平定されて400年、『天眼』と『死霊術』の使役者は『全聴院』という王宮直属の機関に奉公する決まりとなっていた。『天樹上盤の国』の国家運営は『全聴院』の未来予知の啓示を奏上とした王政によって行われてきた。

 だがカゾートが19の時、天眼継承者の非嫡出子達と王弟派が結託した反乱の兆しを見せ始めた。王弟派に真っ先に狙われたのが全聴院の分断であった。

 この展開が後にクーデターとなることを全聴院上層部は事前に予知していた。王にも再三注意するよう進言してきた。

 だが王はこの予知を軽視し、また全聴院独自の予防策としての全聴院の意思統一にも失敗した。

 それが王弟派の力を蓄えさせることに繋がって翌年、事前の予知の通り、王弟派によるクーデターが生じた。

 瞬く間に全聴院本院は焼き討ちにあった。

 その時、地方の分院に出向していたカゾートを含めた若い『天眼』使い達は、散り散りに『異世界』へと落ち延びたのである。

 カゾートは世界間の渡航の代償として『死霊術』の素質を失って『地球』に渡ってきた。

 それが地球の西暦で1960年代の終わり、半世紀も前のことになる。

 そして地球に逃れた後、カゾートは『天眼』の能力を駆使し、最良の未来へと通じる最大公約数的な選択を取り続けてきた。

 その結果が、尸遠の亡き祖母の巻島八重子との出会いから始まる、現在の世界的芸術家としての立場と名声である。


 ――いわゆる『異世界』は『地球』の各国の政府としては、公的には存在しないことになっている。それと同時に一元達のような異世界から来た者を受け入れる仕組みがあった。

 その知識や能力を国家の繁栄や、世界秩序の維持に利用するためだ。

 一元もそうした組織を介して、日本国籍と戸籍を入手した。

 そして巻島一元は現在、芸術家としての活動と並行して異世界からの難民を地球での生活に順応させる活動に力を入れている。

 その直接的な方法が、屋敷での雇用ないし弟子として養うことだ。佐藤も下足番も運転手の野木も、そうした適応訓練中の身である。――

 

 したがって、尸遠自身も、ターゲン・カゾートの孫という異世界にルーツを持つ身であった。そしてターゲンの血筋に伝わる素養の一端は、尸遠の身にも受け継がれていた。

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