10 桜塚の秘めた事。(※BL描写有り)
桜塚航真は、端的に述べて慈善の人だ。
小学校から中学三年までボーイスカウト活動、中でも奉仕活動に熱心に取り組んできた。
男社会の中の規律正しい生活というのも、その頃に刷り込まれるように身に着けた。
だが、中学三年の秋に退団した後は、その反動のように自身の趣味嗜好に忠実に生きるようになった。例えば可愛いものへの興味を男らしさで抑圧することをやめた。
結果、部屋の一角がキャラクターグッズで埋め尽くされた。青木舞雛との面識もこの頃からである。
そして今は、ボーイスカウト時代に知り合った保護犬の里親会の運営者の伝手で、明星園高校の最寄り駅近くの保護シェルターでボランティア活動をしている。
毎週3日、放課後にシェルターに行き、ケージの清掃や洗い物、犬たちの散歩に従事している。週末には譲渡会や交流行事の手伝いもある。
シェルターの仕事を終えて帰る頃、ちょうどダンス部を終えた舞雛達と合流し、買い食いをしたり、キャラクターグッズを扱ったギフトショップなどへ寄ったりして帰る。
その日もそのように寄り道をしつつの帰り道であった。道中の話題は、最近ダンス部で話題になっている動画だった。航真はまた動画アプリの新曲や配信者の話だろうとたかを括って聞き始めたが、なんと睡眠導入動画だという。
それを見て横になるとすぐに寝付けて、夢には必ず好きな人が出てくるという。
航真はさほど興味を示さなかったが、駅で別れた後、舞雛はリンクを送りつけてきた。
そしてその夜は、今年最初の熱帯夜でもあった。
なかなか寝付けず、航真は半ば胡散臭いと思いつつも送られた動画のリンクを開いた。
それはいわゆるサイケデリックなビデオドラッグの類のようだった。マーブリングのような揺らめく色彩とエキゾチックな打楽器の三分ほどの前衛的な映像である。
それを見終えると、たしかに水の中にでもいるように平衡感覚がとろんと鈍くなるのを感じた。そのまま横になると、体はベッドに溶け込むように沈むのを感じた。
ボーイスカウト時代、夜通し歩き通すオーバーナイトハイクから帰った朝のような感覚だった。まぶたが重くてたまらない。
どうにかスマホを枕元に置くと、そのまま毛布をかぶる間もなく眠りに落ちた。
そして、夢を見た。
少し生臭い川の水の匂い、まるで緑の壁のような背の高い茂みがさざめいている。蚊取り線香と制汗剤の匂い、木漏れ日が肌を炙るように熱い。
夢の中は、夏の日だった。
既視感、いや、確かな記憶があった。時々思い出すこともあるが、月日が立つほどに少しずつもやがかかるようにおぼろげになっていた記憶だ。
それが現在の出来事のように、生々しく思い出されていた。
場所は地元の一級河川の河川敷だ。藪が深い中に樹齢何年かもわからないうすらでかい木が一本生えている。
そのうねるような大木は裸足でくみつけば、楽に登れた。
その木に、航真にとって唯一無二のその人と登っていた。
安定した太い枝の根元に足をかけて二人はすいすいと登っていく。
中学生二人で登っても揺るぎもしない。河川敷の主のような木だった。大型台風のたびに藪が泥水の中の水草のように見えるほど冠水しても、この木だけは腐りも折れもせずに毎年残っていた。
その木に、二人で登って、中程の枝から地平線のような藪の上端部を見渡した。
……とても熱い日だった。
中学2年の7月の下旬、既に夏休みに入り、ボーイスカウトではこれからキャンプもある。
とても充実した、だけど振り返れば少し悲しい日だった。
他でもない一番好きな人と、二人きりで過ごした最後の思い出だった。
その人は、八月から家族で隣県へ引っ越してしまう。
家を買うのだそうだ。『今度はマンションじゃなく一戸建てだから犬が飼える』などと無邪気に喜んでいるのが寂しかった。
航真は、犬より自分を選んでほしかった。自分とずっと一緒に居てほしかった。
出会ったのは小学校の3年の時だった。
ボーイスカウトには年齢別に組織が分けられており、当時は2人とも紺の制服のカブスカウトだった。彼は1つ年上で、けれど学年一体の大きかった航真よりは小柄だった。彼は、鷹揚な人でいつも優しかった。
その優しさに甘えるように親しむうちに、ただの仲良しから特別な気持ちを持つ相手に変わった。一緒にいると、視界が狭くなるように、世界が2人だけになっていくような気がした。それが嬉しくて心地よくて、なんともいえない興奮があった。
それがいわゆる恋愛感情だと気づくまで、数年かかった。いや、気づく必要もなかった。
向こうもそういう人だと気づいたのは、ロープ結びを教わってる時だった。
寒い日で、身を寄せ合うようにして、指が時々触れ合い、視線が交錯する。寒くても、胸の中で焚き火でもしているようにぽっぽと熱くなるのを感じた。
少し恥ずかしくなって、なんとなく照れ笑いなどをしてしまうこともあった。
その先輩も同じような感じで、ずっとそうしていたかった。
先輩は、自身が男社会の中では嫌悪されやすい要素の持ち主だと気づいていた。
子供特有の半分悪口の言い合いみたいな冗談の応酬の中で飛び交う、ふとしたゲイやオカマ、という言葉に対して、少しの寂しさを隠していた。それが別に2人に向けて放たれたものでなくてもだ。
航真はそれを見て、自分もふと湧く悲しさをごまかしたくて、もっと大げさな言葉で場に割り込んでいって場の空気を変えた。
先輩はそういう事もあって、カブスカウトまでで団を抜けた。
航真には、団を抜けたあとも連絡をくれた。
最初は『ゲームでもやりにこないか』と電話で家に誘ってくれた。
この誘いは、いつ思い出しても気持ちが明るくなるほどに、本当に嬉しかった。当時は先輩の退団でもう会えないと思い込んで、悲しみに沈み込んでいたから尚更だった。
小学校も中学校も隣の学区で、遊ぶのはいつも放課後。自転車で土手上の長い道を風を浴びて走って彼の家へ向かった。
夏になるたび、この河川敷には虫取りや釣りに来ていた。
彼が中3、航真が中2のその日は、そんな日々の最後の日になった。
ひとつ上の太枝を見上げると、彼が腰掛けている。
めくれたシャツの裾から、生々しい大きな青あざが見えた。
「どうしたの、それ」
当時の航真は、びっくりして聞いた。
「ああ、別になんでもないよ」
彼は声変わりを迎えきったばかりの、まだすこし違和感のある低い声でそう言った。
「なに、どっかでぶつけたの? 自転車で転んだとか?」
彼は少し困った顔をして、それから観念したようにため息をついた。それから少し声のトーンを低くして言った。
「ううん、殴られた」
驚いて、それから猛烈に頭の中が熱くなった。
「誰に」
興奮して聞くと、彼はへらっと笑って、木を降り始めた。
「そんなのどうでもいいよ」
そういう彼に続いて、航真も木を降りた。
「どうでもよくない。俺が殴り返してやる」
中2のときにはもう170センチ以上あった。ボーイスカウトでも体格がいいからと荷物を多めに持たされがちな分、体力にも自信があった。
「やめといた方がいい。相手、空手やってるから」
「だったらなおさらダメじゃん。君はそういうのやってない。そういう人を殴るのはただの暴行だ」
降りきって、彼はなにかが言い難いという風にため息をついた。同じ話題は続けたくないときの反応だった。それでも彼は丁寧な人だから、きちんと返事をしてくれた。
「ああ、そうだよ。ただの暴行だ」
裸足で、湿った硬い草の上に降り立ってから、率直に聞いた。
「いじめ?」
彼は木漏れ日すら避けるようにうつむいて、ただうなずいた。
「学校には相談したの?」
彼は口の中でも冷ますように頬をすぼめて息をして、頭を振りながら笑ってみせた。
(ああ、そんな顔しないで。わかってる。そういう顔をするときはすごく腹を立ててる。怒ってる自分がイヤでそんな顔をする。小学校の頃からずっとそう。わかってる)
「相談は、したよ。もし僕が、将来有名人になっても、あいつらには絶対恩師ヅラはさせない」
言うほどに真顔になる冗談だった。聞いているこっちは、たまらなくなって彼に歩み寄った。
「教育委員会は?」
「まるでダメだった。家族とも裁判しようかとも話したんだけど。あいつらのことでこれ以上嫌な思いするくらいなら、犬を飼いたいって言ったらさ、親父が間に受けちゃって」
「……引っ越しのほんとの理由、それ?」
航真がそういうと、彼は芝居かがった声を作った。
「ああ、お前には騙して悪いが……」
この冗談にくすりとして、航真はため息をついた。
「ほんとだよ。まったく!」
そう言ってそのまま彼のシャツの裾をつまんで、大きくめくってその中に頭を突っ込んだ。
「ちょ、やめろ」
ふざけるふりをして、彼の殴られたところをはっきりと見たかった。
彼はばっとシャツの裾から航真の頭を押し出す。
シャツから手を離し、間近で真顔で彼の目を見た。
長いまつげのくりっとした可愛い目だった。
「ちゃんと見たい」
真面目にそう言うと、彼は黙って、そっとシャツをめくって見せてくれた。
白い肋骨に、赤黒いまだらな痣が浮いている。握りこぶしのあとがはっきりと分かる、四角い痣だった。
「さわってもいい?」
「ああ」
彼は少しためらってから、そういった。その顔はこころなしか照れている。
そっと、生傷を確かめるように触れるか触れないか程度に手を当てた。
「治りかけでもう痛くないから、大丈夫だよ」
それをきいて、指の肉が彼の肋骨を感じるくらいの加減で触れた。
汗が乾いて、さらさらとほのかに冷えていた。そっと手で覆うと、なんだかたまらなくなった。
気がついたときには、そのまま彼を抱きしめていた。
彼も何もいわず、シャツをめくっていた手を、自分の背中に回してくれた。
その時の蚊取り線香と日に熱せられた彼の髪の匂いは、多分一生忘れない気がする。
なんとなく、自然な流れの気がして、そのまま彼の頬にキスをした。
彼はびっくりした顔をして、鼻が触れそうなほど間近で目を見た。
その口元がにわかにすぼまるのを視界の隅に見た気がした次の瞬間、唇と唇が触れた。
一瞬何が起こったのかわからなかった。
けれど、キスを返してくれたのだと気づいて
(ああ、いいんだ)
と理解した。映画で見るキスシーンが、なぜ二回にわけてするのかわかった気がした。
自分の中にまるで熱風が吹き上がるような感じがして、たまらず唇を重ねていた。
唇だけではない、肩を抱いていた腕は彼の全身を感じたくて、背に、腰に、尻にと動き回っていた。それは向こうも同じで、全身でひしと抱き合っていた。
河川敷の高い藪の中の木の下で、誰も見るものなどいない。だからこそ自由になんの気後れもなくそうすることができた。
唇を吸い合い、息を継ぐついでのように、自然と互いに舌を絡めあっていた。唾液の匂いは甘く感じた。
すわりの良い体の位置を探すように、抱き合ったままゆらゆらと互いの体のすり合わせる。
その拍子に、デニムとナイロンの互いのズボンの股間が擦れ合った。
その時気づいた。彼のデニムの前がやけに膨らんでいるのを。
そこで思い出した。
離れて暮らすようになったら……これが最後の機会かもしれない。
そう思ったら、航真の手は自然と彼のズボンのベルトを緩めようとしていた。
どういうことをするのかは、なんとなくわかっている。まだやったことはない。うまくいくかもわからない。
けれど、せめていままでずっと優しく慈しむように愛してくれてきた彼の本能を自分で受け止めたかった。
だが、そこで彼は舌を触れ合わせるのをやめて、少し顔を離した。抱擁を交わしていた手は、ズボンを脱がせようとしている航真の腕を掴んで抑えていた。
「だめだ、それはだめだよ」
「なんで、僕は大丈夫だよ」
気がつけば、航真の口調はにわかに幼くなっていた。いつもの『俺』も、初めて出会った小学生の頃のような『僕』にかわっていた。
「そうじゃない、そういうことじゃない。すごく嬉しいし、正直そうしたい。だけど、まだ、お互いに若すぎる」
「じゃあせめて、口で」
「ばか、それも同じだよ。僕らにはまだ早すぎる」
そう言われて、航真は燃え盛る焚き火にバケツの水でも浴びせられた気分になった。自分の中の高まりがぶすぶすと音を立てて燻りに変わっていくように感じた。
興奮が急激に引くと、今度は悲しいくらいの寂しさがこみ上げてきた。
やけになって、シャツを胸下までめくった。そして彼の痣と同じあたりを指差した。
「じゃあせめて、俺を思い切り殴って。その傷と同じくらいの跡がのこるくらいに」
大真面目だった。
だが、彼はそれを聞いて、まるで小さな子供でも見るように目を細めて微笑んだ。
そして、殴るかわりにぽんぽんと頭を撫でてくれた。
「俺達はヘンタイかもしれないけど、そんな趣味はないよ」
「別にヘンタイじゃないよ」
そう言い返すと、彼はふっと笑ってくれた。
その顔がどうしようもなく美しくて、寂しくて、切なくて、泣いた。
スマホのアラーム機能の音だと気づいて目が覚めた。脇腹がそわそわするほど感情の高まりがまだ心を揺らしている。寝返りを打つと、涙が目尻から頬骨に伝うのを感じた。
「夢に出てくるにも、程度ってもんがあるだろ」
桜塚航真は涙を手の底で拭いながらそうぼやいた。
スマホに手を伸ばす。午前七時一五分。一五分前に舞雛からメッセージが来ている。
『見た?』
『見た』
『どうだった』
少し考えて、返事を打つ。
『ちょっとさびしくなった』
返事はややあって、慰めを意味する絵文字が帰ってきた。
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