5 アプリ越しの指示

 空のはずの自分の机の中から出てきた物を見て、尸遠は戦慄した。

 マニキュアかリキッドリップの類と思しき鮮やかな小瓶である。ものが消えたと騒いでいる女子はいわゆるギャル風で、まさに持っていそうな類のものだ。

(なんでこんなものがこんなところに)

 そう思っている間に、スマホのメッセージアプリに更に着信が来る。

 アプリのグループ名は『非常用直通』。

 机を確かめろという先ほどの指示に続いて、こう送られてきた。

『持ち主はわかるな。授業が始まる前に渡せ、余計なことは言わなくていい』

 尸遠の考えている通りならば、今まさに騒いでいるギャル風の女子だ。

 小さく息をついて、意を決してそれを握りしめて席を立った。

 次の授業までそう間はない。騒ぐ輪の端に歩み寄って、握りしめたものを差し出した。

「これ?」

 手を開いて見せながらそう尋ねると、ギャル風の彼女はぱっと顔を輝かせた。

「そうそれー! マジ探してたの、ありがとー!」

 大げさなくらいに感謝されて、急に照れを感じた。恐縮してろくな返事もせず、そそくさと自分の席に戻った。

 背にしたギャルの輪は、

「ちゃんとしまっときなよ。見つかったら没収だよ」

「しかたないじゃん。さっきはばたばたしてたんだから」

 などと言い合っている。まるで盗まれたり隠されたりという意識のないやりとりだ。

 尸遠は席に戻ると携帯を触れ、返信を入力した。

『助かった。ありがとう』

『また何度かある。その都度連絡する』

『まだあるの?』

『お前を攻撃する手口が変わった。しばらくは辛抱だ。乗り越えればいいこともある』

『信じるよ?』

 そういうと、先方はややあって、プリンの絵文字のスタンプを送ってきた。

『また報告にいくね』

『残りの授業も頑張れ』

 尸遠は了解のスタンプを送って返し、携帯をしまった。

 手口が変わった、という言葉が頭に残った。

 これまでは尸遠の持ち物を盗まれ捨てられる、というのがいじめとしてのパターンだった。

 それが、他の人のものを盗んで自分の机に仕込む、下手をすれば盗み癖の疑惑がつくようなやり方に変わったのだ。

 胃が鈍く痛むのを感じて、腹をさすった。


 さて、ひとつ疑問が残る。

 メッセージアプリの相手の正体である。普通に考えれば、いじめ集団に属しつつ陰ながら尸遠を援護する何者か、といったところだろうか。

 だが実際はより身近な人物、尸遠の祖父、世界的芸術家の巻島一元かずもとだった。

 どういう仕組みで尸遠の祖父が机の中を察知したのかはいずれ述べる。

 ただ、孫の緊急時には毎度今回のように、直ちに取るべき行動を『緊急用直通』を介して指示してくれた。

 そして尸遠も指示に従えば、必ず問題は最小限で解決した。過去には誘拐未遂から旅行先で家族とはぐれた時まで、何度も救われてきた。


 そして実際に祖父のメッセージの通り『クラスの誰かの持ち物が消え、尸遠の机の中にそれがある』という事件は数日に渡って生じ続けた。

 その多くは持ち主を特定しづらいものだった。自転車の鍵や、携帯の外付けバッテリー、化粧品、使い込まれていない文房具などである。

 それをその度、尸遠は祖父からの指示の通りの言葉を添えて、直接返却した。


 一度、スティックタイプの口紅を返した時にだけ少し揉めた。

「ちょっと! 減ってるんだけど、あんた使ったんじゃないの?」

 と疑われたのである。このときも内心恐々としながら尸遠は

「そんな色に興味があるタイプに見える?」

 とすまし顔で逆に聞き返した。返した口紅の色は濃いめの赤である。

 すると向こうは少しうろたえ、尸遠の全身を見渡した。

 露出度を抑えに抑えたジャージに黒ヒヨコのような髪、声色もやや低い。

 トランスジェンダーやノンバイナリは体の線を隠したがる。特に尸遠のような短髪頭は女性の体で生まれたそうした人々のステレオタイプな髪型でもある。

 それをまじまじと見てから、言い返してきた女子は頭を下げた。

「ごめん」

「いいよ……それと、もう少し軽めの色の方が似合うと思うよ」

 そういうと、相手生徒はすこし驚いた顔をして、それからにこりと微笑んでくれた。

「やっぱり? 貰い物で捨てられなくて……あんまり使ってないの」

 尸遠はにやりとして、

「のろけなくていいから。大事にしときなよ」

 と言うと、恥ずかしそうに笑って頷いてくれた。

 ……このやりとりも祖父の指示通りだ。

 こうして尸遠は『よく落とし物を見つけてくれる人』として周知されるようになった。


 一方、その状況を好ましく思わない人々がいた。他ならぬ正体不明のいじめ加害者だ。

 そして一学期中間試験を目前に控えた頃、その日も『緊急用直通』に着信があった。

『今日だけは机の中身を見ずに捨てろ』

 だが、尸遠はその指示を見る前に、机の中に手を入れてしまった。

 それは円筒状に丸まったポケットティッシュの包みに似た、しかしそれよりも小さななにかだった。

 掴みだしてみると、それは妙にずっしりと重くほのかに生臭い。

 さらりとしたビニール生地のような防水シートの表面に柄のように印刷された大手衛生用品メーカーのロゴで、それがなにかようやくわかった。

 生理用ナプキン、しかも手に持っている感触からして使用済みである。その防水シートの包みの外面には、黒のサインペンでこう書かれていた。

『ヤリマンのゴミ女』

 尸遠はそれを見て頭が真っ白になり、しばらく固まった。

 それから無表情でその汚物を手に廊下に出て、教室から離れた一階のトイレに入った。

 それを個室の隅のサニタリーボックスにつっこみ、そのまま声を殺して泣いた。

 その間、携帯が一度短く震えた。

 通知は、メッセージアプリの『緊急時直通』だった。

『私の指示通りに動いただけだ。お前はお前のままでいい。悪口雑言に流されるな』


 ――尸遠の初潮は11歳だった。14歳で自分がノンバイナリだと判明して以来、低用量ピルで生理を止めている。

 身長が伸び悩む一方で膨らみ続ける胸や骨盤と共に、生理やそれに伴う体の変調が、自分の体から女らしさを強いられているようで苦しかったからだ。

 ピルの使用は別に隠すことではないと思った。だから昼食を一緒に食べてくれる女子には話していた。無論、性的な中傷を受ける根拠になるような目的での使用ではない。――

 その身の上で、使用済みナプキンとこのメッセージはこの上なく明確な悪意だった。

 流石に今回は傷ついた。今までこらえてきた感情の堰が崩れたように泣いた。

 泣きながら祖父の自宅に電話をかけた。3コールで電話が取られる。

「尸遠さん、お待たせいたしました」

 電話に出たのは祖父でもその親族でもない、やや声色の低い女の人の声だった。

新発田しばたさん?」

 声色で察して、尸遠はそう尋ねた。

 新発田とは、尸遠の祖父の巻島一元の屋敷を管理している女執事だ。尸遠とは干支3周ほど歳が遠く、物頃ついた頃からずっと一元の屋敷に勤めている。

「はい、新発田です。今日は如何なさいました」

「学校近くのバス停まで、迎えの車を出してもらえますか?」

「はい、何時頃にいたしましょう」

「できるだけ、すぐ」

「はい、できますが……」

「ごめんなさい、今日、早退したくて」

「いえ、わかりました、すぐにご用意します」

「お願いします」

 そう言って電話を切って個室を出ると、手と顔を洗ってマスクを付け直し、教室に向かった。

 途中の廊下で、いつもマンガ誌を恵んでくれる先輩と遭遇し、声をかけられた。だが、泣き顔を見られたくなくて、軽い返事と頭を下げるしぐさだけでその場を離れた。

 教室に戻ると、近い席のいつも一緒に昼食を食べてくれる子が、異変に気付いて声をかけてくれた。それにも空返事をして、荷作りをした。

 きちんとロッカーの南京錠も確かめ、担任には校内ICTアプリから『早退します』とだけ連絡し、返信を待たずに学校を出た。

 学校裏の自販機で乳酸菌飲料を買い、『明星園高校前』というバス停のベンチに座る。

 マスクをずらして一口飲んだ。

 ようやく人心地つく、そんな味がした。

 携帯電話を出した。2件メッセージの着信がある。昼食友達とさっきすれ違った先輩からだ。

『どうしたん? 具合悪い? 嫌なことでもあった?』

『さっき泣いてなかったか? 今週号、お前の机入れといたんでいいか?』

 びろびろに伸びた袖で鼻を抑え、ぐじゅっと泣き鼻を鳴らした。

「泣いてんのばれてるし」

 もう一口飲んで息をつく。それでもまだ死にたいような嫌気がまだもやもやとしているのを感じた。

 短い人生ながら、死にたいと思うことは少なくなかった。ピアスの穴の数がその証拠だった。

 手早くそれぞれに返信を打つ。

『ありがと、今日は調子悪いから帰る』

『いつもあざす。明日、こちらから取りに行かせてもらいまっす』

 相談するなら今だ。それはわかっている。

 だが、先輩に話したところで余計な心配をさせるだけだ。クラスの子にも守って欲しいわけでもない。どちらとも気楽な関係でいたかった。それにそもそも、こちらは攻撃をしてくる相手の顔すら知らないのだ。

 昼食友達からの返信が届く。

『なにかあったら話せよ』

 その言葉に花束のスタンプを貼って返す。

 先輩からはしばらくして、『心の壁』を意味するスタンプと壁にタックルするスタンプの連投。そして『今日はこのくらいで勘弁してやる』というスタンプが返ってくる。

 どちらも優しかった。凍てついた心がほんのり温くなった気がして、また少し涙が出た。

 その涙を袖に吸わせてくぴくぴとジュースをすすっていると、白いセダンがバスの停車位置を外した所に止まり、ハザードランプをともした。

 尸遠には見慣れた車、祖父の家からの迎えだった。マスクをつけ直し、車に歩み寄った。

 後部席のドアを開くと、運転席の後ろの席には色黒で彫りの深い目のぎょろっとした禿頭の老年の男が座っていた。塗料で汚れたツナギ姿で、顔には不織布のマスクをしている。

 この人こそ尸遠の祖父、巻島一元だった。

「じいちゃんまで来たの」

 一元は、黙ってスプレータイプの手指除菌液のボトルを出して差し出した。尸遠はそれをひと吹き手のひらで受け取り、揉み手のように指先にすりこんだ。

「……戻ったほうがいいかな?」

 一元は少し考えるようにマスクの上端をつまんでずり上げた。

「今日は戻ってもお前にふりかかっている問題は解決しない。それとも皆勤賞が欲しいか?」

 尸遠は少し考えて、それから車に乗り込んだ。

 祖父はほっと息をついて、ティッシュの箱を孫に差し出しながら運転席の背を軽く叩いた。

 車は発車した。バックミラー越しに見える運転手も不織布のマスクをしている。

「明日もしんどいぞ。だが、いいこともある」

 そう言う一元に、尸遠はマスクをずらして鼻をかみ、力なく笑んだ。

「それが気休めでも、なんとかするよ」

 そう言われて、祖父はなにかいいたげに片眉を上げて、それからふっと笑んだ。

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