4 巻島尸遠の勝負

 2020年、春。

 巻島尸遠は奇妙に見られがちだった。

 常に不織布マスクをし、よく手を洗っていた。そのふるまいから潔癖症気味の気質の持ち主かと思えば、昼休みになると学食のそばのゴミ箱を漁っている。

 何を探しているかと言えば、捨てられたマンガ雑誌だ。

 尸遠自身は裕福な家の出身だった。

 代々裕福というわけではなく、祖父が世界的芸術家として一代で名誉と財を成した。両親はその権利管理や作品売買を携わる会社を経営をしている。

 その点で、本来ならば成金的な御令嬢の身の上なのだが、校内ではとてもそうは見えない。

 髪は顔なじみの先輩からは『黒ヒヨコ』と呼ばれるような散髪を一ヶ月忘れた坊主頭風のベリーショート、校内では常にジャージである。いつもずるずると垂れる袖をしょっちゅうたくし上げている。

 小柄な背丈のせいもあり、中学男子が高校構内に紛れ込んでいるかのようだった。だがいざ顔を間近で見ると、真っ先に目につくのは校則で許されているとはいえ、一年にしては多すぎる耳のピアス穴である。

 そんな子が昼休みの生徒が集中する学食のゴミ箱を漁っているのだから、学年男女を問わず目に残る。

 それを面倒見の良い性分の先輩などが気遣って声をかけるせいか、やたらと顔も広くなった。連休前の頃には、顔馴染みの先輩が1年4組の教室前を通りすがったついでで、尸遠に声を掛け、読み終えたマンガ誌を恵んでくれるまでになっていた。

 ただ、この顔馴染みの先輩というのが罪のない曲者であった。校内で顔がいいことで評判の2年の男子だったのである。

 それが毎週決まった曜日の授業の合間にわざわざ教室までやってきてジャージ姿の黒ヒヨコに「ほらよ」と漫画雑誌をよこしていく。

 傍目にはそれがどう映るだろうか。

 ――ここで巻島尸遠の、あまりおおっぴらにはしていない話をする。

 尸遠はいわゆる性的少数者であった。区分けとしてはノンバイナリと呼ばれる性自認である。生まれた体の性別は女性になる。校内での性別区分も、一応は『女子生徒』として割り振られている。

 制服については『性別違和』の診断書を学校に提出済みであり、ジャージ通学、男女両性の着やすいほう、あるいは併用した着用も認められている。

 ただ尸遠の場合、体型にも悩みがあった。乳房が同世代平均よりかなり大きいのだ。

 他は背が低いことを除けば人並みなのだが、いずれにせよ男女どちらの制服を着ても胸周りが目立つことには変わりはなかった。

 それが本人の自意識と噛み合わず、中学の頃から辛い思いをしてきた。耳のピアスなどは、その頃の悪戦苦闘の中での自傷行為の名残である。

 例えば着衣が薄くなる夏が来るたび、ブラのサイズが大きくなるたび、死にたい気持ちの波が来た。

 カッとなって手首など切れば騒ぎが大きくなるのは想像がついた。

 性別違和で通い始めた病院の精神薬も、強い薬は処方されたくなかった。

 けれど何かでごまかさなければいられず、その手段としてピアスの痛みを選んだのだ。

 『学校指定のジャージをオーバーサイズで着る』というのも、その悪戦苦闘の中で見出された妥協点だった。

 高校側は最初は渋ったが、『事情のある子』ということで最終的に受け入れられた。

 だがこんな話は生徒の状況を把握する立場である担任教師相手でもなければ、わざわざするような話ではない。――

 クラスの大半からは、尸遠を『趣味で髪をベリーショートにしてジャージを常時着ている変わった女子』として見ていた。

 そう、尸遠は他の生徒から女子として見られている。

 ここに先の面倒見がよく見た目も良い先輩が悪い意味で絡んでくる。『憧れの先輩』が、変な1年と馴れ馴れしくしている。外形的にはそう見えていたのである。

 これが彼とすれ違いざまに目が合うだけで一日幸福でいられるような、さらに言えば声をかけられる日が来ることを夢に見るほど期待している生徒の目には、どう映るか。

 嫉妬だ。その負の感情はいつしか具体的な形となって生じた。


 5月頭、連休が明けて間もない頃、突然に尸遠の持ち物が消えた。

 最初に消えたのはペンケース。体育の授業の後、それは机の中から消えていた。

 ペンケースなどそうそう失くすものでもない。そう思いながらも学校受付の遺失物届、自分のロッカー、移動教室の順路、今朝から体育の授業のあとまで、自分が歩いたすべての動線まできっちり探した。それでも見つからず、その日の残りの授業は、隣の席の子にシャープペンと消しゴムのかけらを借りてしのいだ。

 ペンケースが戻ってきたのは放課後だった。職員室に呼び出され、担任から手渡された。

 帰りのホームルーム後の掃除の時間、他のクラスの生徒が見つけてくれたという。

 出てきた所は、食堂前の廊下に設置されたゴミ箱の底からだった。

 高校入学と共に買い替えたばかりの、褐色の合皮製だった。そこに上履きで踏みつけたと思しき埃の靴跡がくっきりとついていた。

 シャープペンから蛍光マーカーまで中身は一式揃ったまま、消しゴムには『1の4巻島』と名前も書いていた。

 掃除当番の生徒がこれを見つけた際に『これはいじめではないか』と考え、直に職員室に届けたのだ。

 尸遠もこのあたりについては敏感なところがあった。

 発見場所が学食前の廊下のゴミ箱と聞いて、これがメッセージ性のある悪意ある行いだと直感した。

「いじめとか、そういうのがあるんだったらきちんといいなさいよ」

 担任の40前後の女教師はそう言いながら、ペンケースを拭いて手渡してくれた。

 それから毎日、1日に1つ、持ち物が消えるようになった。

 見つかるのは決まって学食前のゴミ箱だった。

 それでは飽き足らず、下ろしたての通学靴を油性ペンで汚され、画鋲を仕込まれるようになった。

 尸遠はこれを受けて、靴を中学で履いていた使い古しのスニーカーに変え、下駄箱ではなく鍵のかかるロッカーにしまうようにした。


 ――素直に担任に相談すれば解決するのだろうか。

 一度はそう考えた。だが、犯人が特定できていない時点で有耶無耶になって終わりだろう。

 それとも学校に掛け合えば教室に防犯カメラでも取り付けてもらえるか?

 いや、無理だ。仮に設置されたとしても、そのときは手口が変わるだけだ。それなら手口が分かっていて探す場所も絞り込める分、まだ今のままの方がいい。

 ただ素知らぬ顔でゴミ箱を漁り、自分のものを拾えばいい。そして悪意ある行為を雨に打たれるように過ごせばいい。

 なによりそれ以上に、いじめられているという事実に屈したくなかった。


 対策の更新は続けた。

 通学カバンを鍵のかかる業務用ボストンバッグに買い替え、消しゴムや蛍光ペン類などにもクラスと名前を書いた。

 机の中には物を置かず、鍵付きロッカーかバッグに収納する。バッグも学校では自転車用のチェーンロックで机の脚枠とつなぐ。

 そこまですると流石に持ち物が消えることはなくなった。

 最初にペンケースが消えてから10日、尸遠はいじめに打ち勝ったのだと確信した。


 だがそれもつかの間、授業の合間の時間、クラスの女子グループの一つがざわついていた。

「私のリップが無い、どっかで落としたかも」と。


 その声が尸遠の耳に聞こえたちょうどその時、ポケットの携帯が短く震えた。

 メッセージアプリのグループ名『緊急用直通』に着信があった。

 内容はこうだった。

『机の中を確かめろ』

 おそるおそる中に手を入れると、そこには見覚えのない鮮やかな化粧品の小瓶があった。

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