3 半年前。
2020年5月某日――東京の私立明星園高校襲撃の約半年前。
関西の某高速道路の高架下。
街路樹に並んで植えられた生け垣のツツジが夜露に濡れながらつぼみを膨らませている。夜明けまでまだいくらかある、東の空がかろうじて薄ら青いような時間であった。
突然、コンクリートの柱の合間の暗闇が明るくなった。
仕掛け花火かグラインダーの火花のように、火の粉が落ちている。その火花は姿見ほどの大きさの輪となった。
火花の輪の中は暗闇で、そこから輪をくぐるように青い衣に革サンダルの足が出てきた。
全身現れた服装は青を基調としたサーカスの道化師のように奇抜で、顔には白い仮面をしている。続いてもう一人、濃い紫の生地に銀の飾りのフードローブ姿の者が出てくる。こちらも同じくらい現実離れした服装である。
この場を誰かが目にしたら、大道芸師が稽古でもしているように見えただろう。
だが二人の通った火輪にはなんの仕掛けもない。紛れもなく輪の中の虚空から現れた。
その輪の向こうは、『地球』ではない。どこか遠い宇宙の果てというわけでもない。地球とは違う摂理と大いなる力が巡る、いわゆる異世界であった。
火花の輪も、世界を渡る術で異世界の技能、いわゆる『魔法』によるものだ。
そして二人は、地球のどの言語系とも異なる言葉で何かを言い交わした。
青衣の仮面の者がぱっと手を払うと、火輪は花火が燃え尽きるように消える。火の輪が生じた真下にはザラメのような鉱物状の魔力触媒の残滓が浅く積もっている。
青衣の仮面は紫の衣の者に頷いて、周囲に人がいないか確かめるように動き出した。
一方で紫の衣はひざまずき、足元に積もった触媒を砂の山のように寄せ集めた。そしてその小山から一握り掴んでぱらぱらと落としながら、何かを唱える。
これは二人が交わしている言葉とも違う響きをしていた。声も地球の人には聞き取れない音色だった。それは現代地球人は感知すらし得ないもの、別世界の『魔法の呪文』だ。
紫の衣の唱えた呪文に、粒の山はまるで火薬のように一瞬で燃え尽きて煙になった。
「よし。おおよそ、この世界の事は解った」
紫の衣は、低い枯れた声で唐突に日本語でそう呟き、フードを下げた。露わになった顔は痩せた老人で、目が縦2段の2対、即ち4つある。
老人は「ディエリ」と声をかけ、青衣の仮面を呼び寄せた。
そして仮面の額に手を当てて、再び地球人には聞こえない呪文を唱えた。
仮面がまるで溶けるように、あるいは蒸発でもするように青い衣の顔面に染み込む。白い仮面は、クリームのように溶け広がって、双眼の若い日本人男性風の顔に変わる。
「おお、わかります。ここは日本、いや、大阪、かな」
言葉もたどたどしいながらも日本語に変わっていた。
「そうだ、衣も目立たぬものに変えよう」
そう言うと、紫のローブは、裏地が表に出て白い襟シャツと黒のズボンに変わった。履き物は革靴に、紫の生地は脇へ集まってカバンに、銀細工は左手首で腕時計に変わる。
老人が服を変え終えると、ふうと息をついた。
「お似合いですよ」
青衣がそういうと、老年男はふっと笑み、それから青年の胸をとんと突いた。
途端に、彼の青い衣も姿が変わる。襟から裏返って黒のシャツに変わり、青い衣はサルエルパンツとリュックに。錦糸は足元でスニーカーに。そうして普通の出で立ちである。
だが、二人の出で立ちには現代地球人として決定的に欠けているものが一つあった。
青年は自分の体を撫でながら、顔を曇らせた。
「なんだか肌に張り付くようで、少しそわそわします」
「それはじきに慣れる。それよりもこの空気の空しさよ」
老人も、まるで寒々しいとでもいうように目を細めて両腕をこすった。
「ええ、精霊の気配も微かですし、魔素に至っては皆無です」
「どちらも滅んでいるか、滅びかけているのだろう」
「そうなると魔力は持ち込んだ触媒のみ、あとは『地球』の方法に合わせるしか……」
「ああそうなる」
「では、せめてスマートフォンかタブレットなどほしいところですね」
そう、二人ともに携帯電話がないのである。これに、老人は苦々しく笑った。
「あの種の端末を無から生み出すのは、触媒や術の負荷に見合わない。こちらで調達しよう」
「あと、円はどうします?」
「通貨か。術で触媒を黄金に変えても純金取引には身分証明が必要だ。偽造でも作れるが通信インフラとデータセンターをハックするとなると魔力でやるには触媒の消耗が激しい。通貨を偽造するにしても同様だが、そもそもそんな消耗品に触媒を費やすのは惜しい」
老人はぶつぶつとそう言うと、ため息をついて顎を撫でた。
「手頃な人間に『制伏』の術を掛けるか」
これをきいて、青年は仕方ないとでもいうように肩を落とした。
「やはり、そうなりますか」
「ああ、一番手っ取り早い。裕福な者を狙って携帯の新規契約なりタブレットの購入なりをさせよう。朝を待ち人気のあるところへ出る。勤め人なら金銭の融通だけでも見込める」
そう言うと、老人は鞄から化石の欠片のような触媒を取り出して、自分の額に当てた。それは液状の樹脂のように、どろりと、暗褐色に膨張し変質した。一部は額に垂れてそのまま肌の色に代わり、4つの眼のうちの2つの眼窩を塞ぐ。
暗褐色のままの流体は残る双眼を覆い、端が伸びて耳にかかった。いわゆるサングラスの形になって、硬質化する。
次に腕時計をした手先を払うように振った。今度は腕時計が水飴のように長く滴る。時計だったものは白くなり、細長い棒状に固まった。垂れた先のほうが赤く染まり、手の中と先端が黒い樹脂になる。そうして、いわゆる視覚障害者用の白杖に変わった。
「私は盲人として過ごす。視覚も封じる」
「目が見えないのは不都合では?」
「見えることを看破されるほうが厄介だ。視覚に頼らず、魔素や霊性を感じて動くことは魔導修練の基礎。人間に魂があるかぎり霊性はついてまわるし、ある程度は心得もある」
そう言って、老年の男はサングラスをくいっと下げて、瞳孔の白く濁った2つの眼を見せて不敵に笑んだ。
「それにこの国は善人が少なくない。この様なら向こうから世話を焼きに寄ってくる」
青衣は少し考えて、苦々しく笑んだ。
「困っている盲人を装い、気遣った者が寄ってくるのを狙うわけですか」
「ああ。人聞きは悪いが、我らには他に安易で追跡を避けられる手もない。それに、直接触れれば触媒なしで『制伏』の幻術は処せる。身内のふりをさせれば怪しまれることもない」
「なるほど、いろいろと都合がいいわけですね」
「ああ。やむを得ん。何しろ我らの旅は『双龍の輪』を救うことに繋がる」
「『勇者』であった我が兄上の生まれ変わり、この世界では『転生』と呼ぶほうが通りが良いようですが、その痕跡を探す旅ですからね」
「『転生』か、娯楽界隈で使い古された言葉で、いささか陳腐ではあるがな」
「では、兄上の生まれ変わりを見つけてからはどのように動きましょうか」
「まずは、前世の記憶を取り戻させる。その上で『双龍の輪』の現状をお伝えする。かの世界から魔物が絶滅する事の危うさは、記憶さえ戻れば理解できるはずだ。その上でお前の力で、我らと共に今の身のまま『双龍の輪』へとお戻り頂く」
高架下の天井と、通りの向こうの住宅地の屋根の間の狭い空は、地表の明かりを照り返した夜の曇天から白い早朝の雲に移ろいつつあった。
「出勤が多くなる頃までここで『勇者』の痕跡の在り処を探る。それから駅へ向かおう」
そういって老人は座り込んで鞄から触媒の塊を出し、青年は「はい」と応じた。
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