第6話 妹と歩んだ。七日間の軌跡①
わかっていたことだ。
四六時中ずっと一緒には居られない。陽葵には陽葵の生活がある。
でもそれは、僕とて同じこと──。
「ヘイYO! 真由美真由美! まっまっママ由美! まゆまゆみ由美ママ由美! 真由美チャーン! 真美ちゃん由美ちゃん真由美ちゃあん!」
今日も今日とて真由美ちゃんをビートに乗せて刻み込む!
「由真ちゃん! 美由ちゃん! 真由美ちゃあん!」
……いや、待て。おかしいぞ。
…………………………………。
どうしてこんなにも、今日の僕のビートはキレているんだ。
このキレの良さなら、日に3万回は真由美ちゃんを刻めてしまえそうだ。……真由美ちゃんを刻み始めて以来の快挙じゃないか。
……もしかして、僕のビートは成長している?
いや。そうじゃなくて……! どうして僕はまだ、真由美ちゃんを刻んでいるのだろうか。
……おかしい。
雨は止んだはずなのに──。
「美由ちゃん! 由真ちゃん! 真由美ちゃぁん!」
もう刻む必要はないはずなのに。まるで呼吸をするみたいに、ついつい真由美ちゃんを刻んでしまう。
思えば、この頃の僕は真由美ちゃんを刻んでばかりだった。
習慣として体に染みついてしまっているのだろうか。
でも明らかに昨日までとは違う。
今日の僕のビートはキレキレだ。
「ヘイYO! 真由美真由美! マンマ真由美! まままママ由美まゆみ!」
このキレの良さは本物だ。もし仮に『真由美ちゃん刻みコンテスト』なるものがあったとしたら、入賞できてしまうのでは?
うん。今の僕ならできる。
だってこのキレの良さは、ホンモノ!
ならば僕の部屋はステージ。遮光抜群のカーテンを観客席と見立てて──。
手を伸ばし、ビートを刻む!
「真由美真由美! Heyチェケマンマ真由美真由美! ヘイMAMA! YUMI真由美!」
なんだこれ。最高の気分だ!
まるでアーティストになってしまったような気分だよ!
「真由美真由美! 真由美MAYUMI! まっまっ真由美! マンマMA・MAYUMI! ママまYUMI! MAMI!」
止まらない。真由美ちゃんを刻む口が止まらない!
「マンママッマママーン真YU美! ママゆみママみ──…………」
そして二万回ほど真由美ちゃんを刻むと──。
玄関が開き、閉まる音。
そして、階段を上る音。
来る! 陽葵の足音だ!
「チェケラ!」
優雅な時間を提供してくれた遮光抜群のカーテンに感謝のお辞儀をして、ドアの前で陽葵が来るのを待つ。
「ただーいま!」
「おかえり! 陽葵!」
「わぁ! 出迎えてくれるなんて、はーじめてだ♡」
「当たり前だよ! だっていい子に待っているように言われたんだから!」
さぁ、早く。陽葵、早く!
「ふふんっ。そうなんだ♡ いい子に待ててえらかったね! いいこいいこ♡」
あぁ。これだよこれこれ。僕はこれを待っていたんだ!
「えらいえらい。お兄ちゃんはえらいぞ〜!」
もっと。もっとだ!
もっとたくさん頭を撫でて「えらいっ!」って言って!!
+++
そんな日が三日も続けば──。
心は満たされて、現状に満足してしまうのは仕方のないことだった。
日中はビートに明け暮れ。
夕方になれば妹に甘え狂う。
遮光抜群のカーテンは尚も光を閉ざしているけれど、僕の部屋はもう暗闇ではなくなった。
朝起きれば、陽葵が電気をつけてくれる。
あの日以来、僕の部屋は常夜灯すら点いていなかった。
僕は暗闇に愛される存在。そうでも思わなければ、遮光抜群のカーテンを死守することはできなかったんだ。
でも、電気の明かりなんて些細なこと。
陽葵が側に居てくれる。それがなによりも光を照らしてくれるんだ。
僕にとって陽葵はお日様のように、生きていく上では欠かせない──絶対的存在になっていた。
だからこそ。とっても困った状況に陥ってしまったんだ。
+++
──全肯定よちよち四日目のお昼。
「ほーら、陽葵特製オムライスだよ! あーんだよ。あーん♡」
「うっ……」
今日は待ちに待った土曜日。
学校が休みの日ともなれば、陽葵と一日中一緒に過ごせるドリームデイ。……なのだが、困った事態に直面していた。
僕は陽葵の言う事を守りたくて仕方がない。だってそうすれば「いいこいいこ」「よちよち」「えらい」の幸せいっぱいスリーコンボが放たれるから。
だけど、こればかりは……。
「ほーら、お兄ちゃん? 美味しいよ? 食べよ♡ あーん♡」
スプーンを口元へと運んでくれるけど、胃がNOサインを出して頑なに拒む。意識とは反対に僕の口は開いてはくれない。
「もぉ。ちゃんと食べない子はわるいわるいだよ? ゆっくりでいいから。お口開けて? ほら、あーーーーん♡」
「うっ……うぅぅっ……!」
やはりどうしたって開かない。
良い子の対極である悪い子と言われれば即座に口を開きたいところだが……だめなんだ。
雨は止んだ。だったら食べられてもいいはずなのに……。僕は未だ、ご飯が喉を通らずにいる。
まるで刻み続けるビートのように、染み付いた習慣が変わることを恐れ拒んでいるようにも思えた。
……雨は止んだけど。虹が架かかるまでにはまだ少し、時間が必要なのかな。
ごめんよ。陽葵……。せっかく作ってくれたのに……。
「ごめん。まだちょっと……無理みたい……」
「ん〜。だめかぁ……。じゃあ特別に♡ 陽葵がもぐもぐして柔らかくしてあげましょお! お口移しだよぉお兄ちゃん♡ これなら食べられるよね♡」
え。
「もぐもぐもぐもぐ♡ まっへへね。おにいひゃん♡ 食べやふいほーにやらはふしゅるひゃら♡」
……あっ。あかん!
これは冗談ではない。陽葵はやると言ったらやる子だ!
「だ、大丈夫! 僕、急激にお腹ペコリンになったからそのまま! そのままで柔らかくせずにそのママ食べたい!! そのままそのマーマ!!」
「もぉ……。じゃあ、はい♡ あーん♡」
ほっ。少しふてくされているようにも見えるけど、なんとか特大の過ちは回避できた。
とはいえ、どうせ戻してしまう。お腹だって壊す。
身体がそれをわかっているから、危機管理センサーが働いているんだ。
……困ったぞ。
でも、口移しなんて……。絶対にだめだ。
ここ最近の陽葵を見ていると、どうにも僕を赤ちゃんかナニカと勘違いしている節がある。だから平然と口移しだなんて言えてしまうんだ。
だってどう考えても、第二次成長期を終えた兄妹が至って良い行為じゃない。
ここは僕がしっかりしないと。こんなになってしまったけど、陽葵は僕をまだお兄ちゃんと呼んでくれている。
しかし今の僕では、お兄ちゃんを発動することはできない。これまでの結果が既に物語っている。
だからここは……。根性! 気合! そして願う!
開け! ひらけよぼくのくちぃぃ!!
うあああああああああ!
おおおぉぉおぉおおお!
もう、やけっぱちだった。
まゆみまゆみまゆみ!!
まゆみまゆみまゆみ!!
さらに心の中でビートを刻む。
頼む、ビートの神様。僕に力を貸してくれぇぇええええ!
まゆまゆままゆみ!
まっまんままゆみ!
──そして奇跡が起こる。いや、もしかしたら奇跡ではないのかもしれない。毎日刻み続けた真由美ちゃんの力なのかも、しれない──。
『ウィーン。ガシャン。プシュー!』
…………あ、開いた! 動くぞ、この口!
だったら急げ! 食らいつけ!
──パクッ。モグモグ。ゴックン。
「……あっ」
もう、無我夢中だった。口移しだけはダメ、絶対。その気持ちが奇跡を起こす。……いや、これもまた。真由美ちゃんを刻み続けた事での、なるべくしてなった当然の結果なのかも、しれない──。
「わぁ! えらいねお兄ちゃん♡ ちゃんと食べられたね!」
「……うん。すごく美味しい。美味しいよ陽葵!!」
およそ三ヶ月半振りに、ご飯がまともに喉を通った。……あれほどまでに食べられなかったのに、おかわりをしたくて仕方がない!
「ふふんっ。よかったぁ♡ ちゃんと食べれてえらいね! お兄ちゃんはえらい! えらいぞ〜!」
「うん! 僕、えらい!!」
「じゃあもうひとくち食べよっか! はい、あーん♡」
──パクッ。モグモグゴックン!
「えらーいえらい。じゃあもっとたくさん食べてみよーう! はい、あーん♡」
パクモグゴックン! ペロリンチョ! チェケラ!
「ひなた! もっと! もっとちょうだい!!」
「わぁわぁ。もぉ~焦らないのぉ!」
途中から褒められていないのに、僕は食べる口が止まらなかった。
最初は褒められてスリーコンボが欲しいだけだった。それなのに……。
美味い。美味すぎる。陽葵特性オムライス……!
そして、気づいたときには──。
「びなだぁ〜もっどぉ……。うぁぁあああ!」
「あらら……。また泣き虫さんになっちゃったね! 甘えん坊さんになったり泣き虫さんになったり忙しいね♡ でもそんなお兄ちゃんが陽葵はだぁいすき♡ ほら、あーーん♡」
違うよ、陽葵。これは天気雨だ!
だって僕の心には──。こんなにも綺麗な虹が架かっているのだから。
雨は止んだ。そして虹も架かった。
これもぜんぶみんな、陽葵のおかげだ。感謝してもしきれないよ。
だから僕は、お兄ちゃんに戻る。もう、戻れる準備はできている。
さぁ、始めよう。お兄ちゃんTIMEを!
陽葵が大好きだったあの頃の僕に! お兄ちゃんに戻ろう!
イッツショーTIME!
ここからは毎日がお兄ちゃん劇場だぜ!
「ごちそうさま! ありがとう陽葵。すっごい美味しかった!」
「ふふんっ。ぜんぶ食べれてえらいね! じゃあベッドに行こっか♡ がんばったお兄ちゃんにはご褒美をあげないとね! たーくさんいいこいいこよちよちしてあげる♡ ぎゅー♡ってずぅーっとしてあげる♡」
「あっ。ちょっ陽葵……あっ……」
う、うん。お兄ちゃんに戻るのは明日からでいいかな。
そう、明日から──…………。
いや、明日は日曜日だから。陽葵とずっと一緒に過ごせるから……。
お兄ちゃんに戻るのは月曜日からでいいかな!
+++
そして憂鬱な月曜日が訪れる。
土日の二日間。陽葵とずっと一緒に過ごした反動が僕に襲いかかる。
「うぅ……。どうして……どうしてなの……」
ひとり、部屋に残された僕は枕を濡らしていた。
陽葵は学校に行ってしまった。当然、夕方まで帰っては来ない。
「うぅ……ひなだぁぁ……僕をひとりにしたらやだよぉ……」
ましゅまろではなく枕に顔をうずめるしかない状況は、喪失感に拍車をかける。柔らかさは比べるまでもなく、ここに安らぎは存在しない。
「うぁぁあああ……ひなだぁぁ……うぅ……」
されども絶望の淵で、光は差す──。
「あっ。陽葵の匂いだ! なんで?!」
芳醇で甘美なパルファムが僕のベッドにもんもんと充満していた。
陽葵はどこにも居ない。学校に行ってしまった。それなのに、こんなにも近くに陽葵を感じる。どうして?!
くんかくんか。くんか! ……はっ!
そうか! おはようからおやすみまでベッドの上で「よちよち」されていたから、陽葵の残像がベッドに宿っているんだ!
それだけじゃない。部屋の中は陽葵の残り香で満ちている!
「なーんだ! これならひとりでも寂しくないね!」
そうとわかればやることはひとつ。
僕はビートを刻みだす。
「……ヘイYO」
「マイクロフォンチェケチェケ……」
僕の部屋はステージ。遮光抜群のカーテンは観客席。
さぁ、今日は二日ぶりのステージだ!
行くぜ! ヒアウィーゴー!
「真由美真由美真由美! まゆまゆマンマ真由美!」
今日も僕のビートはキレキレだ。
それでも、頭の中は陽葵でいっぱい。
……陽葵、まだかな。僕、お腹空いちゃったよ。
ママ、早く帰ってきて……。
「ヘイYO! マンマまゆみ! まっマンマまゆまゆまゆみ!」
されどもビートはキレキレだ。
二日間のブランクを全く感じさせない、見事なキレ。
そんな、キレキレのビートを刻み、足音に耳を澄ます。
「YOチェケ! まゆまゆまゆみ! マッンマまゆみ! チェケ! ままゆみままゆみ──…………」
そして、真由美ちゃんを二万五千回ほど刻み終えたところで、玄関の開く音。階段を上る音が耳に届く──。
来た! 陽葵が帰って来た!
「ヘイYOチェケラ! センキューベルマッチ! イェー! マタ・アシタ!」
優雅な時間を提供してくれた遮光抜群のカーテンさんに感謝のお辞儀をして、ドアの前で陽葵が来るのを待つ。
「ひ、陽葵……! おかえり!」
「ただーいま。お兄ちゃん♡ 今日もお出迎えしてくれてうーれし♡」
「陽葵……陽葵ぁ……!」
もはやましゅまろに飛び込まずにはいられない。
「もぉ。だめだよ〜! お外あついあついで汗びっしょりなんだからぁ! お顔汚れちゃうよ?」
あぁ、僕の顔なんてどうでもいい! どうなろうと構いやしない!
ワイシャツ越しのましゅまろも、これはまた風流なもので。夏を感じさせる一級品に仕上がっていた。
今日一日を学校で過ごした結晶。青春と思い出がふんだんに詰まった奇跡の産物。
本日の最高金賞、此処に極まれり──。
それでも、ほんのりと切ない気持ちになってしまうのは……。今日のましゅまろに後ろめたさがあるからだ。
おとさんは七月がデッドラインだと言っていた。
おそらく夏休みに入るまでのこと。……残された時間は僅かしかない。
このままじゃ、だめだよね。僕も学校に──…………。
「もぉ。本当にだめだってぇ♡ 今日は体育の授業もあって体中ベトベトなんだから……。シャワー浴びて来るから、いい子に待ってて♡」
う、うん。とりあえずそんなことよりも!
僕は早くいつものが欲しい!
もういい! 注文してやる!
オーダー方法はこの間の土日で覚えちゃったもんねー!
「僕、ひなたが帰ってくるのをずっと待っていたんだ!」
「うんうん。そっかそっか。ちゃんと待ててえらかったね! お兄ちゃんはえらい♡」
いつものきたー!
あぁ、これだよ。これを待っていた!
ずっとこれを待っていたんだよ!
「じゃあ陽葵はシャワー浴びてキレイキレイしてくるね♡ ただでさえ暑いのに今日は体育がんばっちゃったから……。だからいいこに待ってるんだよ♡」
行かせない。
おかわりの時間だ!
追加オーダーを開始する!
「あのね、僕! すっごい眠たくなったけど、寝ないで待ってたんだ!」
さぁもっと。もっと褒めてくれ!
「そっかそっか♡ いいこだね♡ お兄ちゃんはえらい! とってもえらい! じゃあ陽葵は……──」
へへっ。これだよこれこれ!
さらにもう一回おかわりだ!
「僕ね!!!! ひなたが帰ってくるのをずっとずっと待ってたの!!!!」
「うん。えらいえらい♡ お兄ちゃんはえらい♡ じゃあシャワー──」
「僕ね!!!!!!!!! ずっとずっとずっと待ってたの!!!!!!!」
おかわりの無限コンボ!
「うん。えらいえらい♡ 嬉しいよ♡ じゃあもう本当にシャワー浴びてくるから、このままじゃ汚いもん。だからいい子に待っててね!」
「陽葵ぁひなたひなたひなたひなたぁぁ! YOチェケひなたひなたぁああ!」
そして僕はまた──。過ちと知りながらも、陽葵をベッドに押し倒してしまう。
「あっ♡ ちょっと……だめ……♡ 落ち着いてお兄ちゃん! あん♡ そんないきなり……。本当にお布団汚れちゃうから! 今日体育があったから! だ、だめぇー♡」
これさえあれば、他にはなにもいらない。
かけがえのない確かな安らぎが、
+++
僕は陽葵に甘やかされるのにハマっていた。
まるで取り返しのつかない沼にハマっているようにも思えたけど、やめられなかった。
こうしている間は、嫌なことをぜんぶ忘れられた。そして、許されているような──。そんな気持ちにもなれたんだ。
だから今日も明日も明後日も──。
来年も再来年も。ずっと。ずっとずっと──…………。
その先も、永遠に。
こんな日が続けばいいな。……なんて。願ってしまうんだ。
間違っていると、わかっているのに──。
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次話、満を持してお兄ちゃんTIMEスタートです!
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