②
間違っていると知りつつも、そんな生活がさらに二日も続けば──。
──全肯定よちよち六日目の朝。
「行ってらしゃいママ!」
学校に行く
なんてったってこの部屋は芳醇な残り香でいっぱいだ。ひとりでも寂しくはならない!
だから僕、いいこに待てるもん!
なんて、思っていると……。
「もぉ。陽葵はママじゃありません!」
あっ……。
「ごめん。ついうっかり……」
まただ。また、やってしまっていたのか。
──うっかりお母さん。
「あのね、お兄ちゃん。陽葵はママになりたいんじゃなくて、お嫁さんになりたいの! だからママって呼んじゃ、イヤ!」
けれども、すべてを肯定してくれる陽葵も『うっかりお母さん』に関しては寛容ではない。
それが僕の心にブレーキをかけ、
「う、うん……。気をつける……!」
「いいこいいこ♡ 早く陽葵を
しかし問題は山積みだ。
これは陽葵の口癖でもある。以前までの僕なら「バーカ!」とお兄ちゃん風を吹かせている場面。
しかし今は、元気よく返事をすれば頭を撫でてぎゅーってしてもらえることを体が覚えてしまっている。
だから──。
「うんっ!」
元気よく返事をせずにはいられない。
「元気に返事できてえらいね! いいこいいこよちよち♡ ぎゅー♡」
「うん。僕、いいこ! 陽葵ぁ……もっと。もっとして!」
「もぉ。甘えん坊さんなんだから♡ でもだーめ。学校に行って来るからいいこに待ってること。約束できる?」
「……うん。いい子に待ってる! だから返ってきたらいっぱい撫でて褒めて!」
「いいよぉ♡ たぁーくさんしてあげる♡ じゃあ陽葵は学校にいってきまーす!」
「うんっ! いってらしゃーい!」
………………………………。
誰だこの情けない男は。まるでショタ。下手したら赤ん坊だぞこいつ。
……あぁ僕だよ。よもや今の僕はコレモンなんだよ!
わかっているのに、止まれない。
陽葵を前にすると、甘えたくて甘えたくて仕方がなくなってしまう。
その思いは日々、強まる一方だ。
しかしそれと同時に〝このままではだめだ〟という気持ちも強まっている。
僕の中では常時、このふたつの思いが綱引きをしている状態だ。
そしてその綱引きはひとりで居るときに限り、完全に後者が勝るようになった。
正直、僕自身の進退はこのままでもいいと思っている。それこそお兄ちゃんでいることへの拘りや思い入れも薄れてきている。……それくらいに、陽葵のましゅまろは温かくて心地がいいんだ。
けれども陽葵がだめなんだよ。どうしようもなく、だめなんだ。
ここ最近……。というか僕が塞ぎ込むようになってから、家と学校の往復しかしていない。
学校が終われば真っ直ぐ家に帰って来て、休日は一日中僕の側に居てくれる。
僕が陽葵の時間を縛りつけてしまっていることは明白だ。
こんなの、許されるはずがない。
陽葵は不出来な僕とは違って、運動も勉強もできて美形スタイルの持ち主で──。兄のお眼鏡を抜きにしても顔だって超可愛い。
雑誌の表紙やTVCMに出ていても不思議じゃないくらいに、可愛いんだ。
さらには大っきなましゅまろまで兼ね備えている。
はっきり言って、勝組だ。パーフェクトガール。
そんな持って生まれてきた妹が、僕みたいなダメなデブに構って時間をムダにするのは間違っているんだ。
……以前の僕なら、こんな風には思わなかった。ちゃんとお兄ちゃんをやれていたと思うから。
でも今の僕は違う。もう、お兄ちゃんではなくなってしまった。
こいつはいい歳した、ベイベちゃんだ。
それもとびきりしょうもない、大っきなベイベちゃんなんだよ。
こんな大っきな赤ん坊が、パーフェクトガールである妹の大切な時間を奪っていいはずがない。
真由美ちゃんは言っていた。
「あんたの一秒とわたしの一秒はぜんぜん違うの」
「まじ時間の無駄じゃん。13年間を返して?」
本当にそのとおりじゃないか。
一日と二日の差が曖昧になってしまった今の僕と、パーフェクトガールである陽葵とでは兄妹であっても比べる以前の問題だ。
それでも僕はお兄ちゃんだ。
もう、かつてのお兄ちゃんではないけれど、赤ん坊になってしまったけれども──。
胸の中にはずっと、消えずに残っている。
兄として生を授かり、お兄ちゃんとして過ごした日々の記憶は決して消えやしないんだ。
……だから、終わらせないと。陽葵を僕から解放してあげないと……。一日でも早く、僕は──。以前のお兄ちゃんに戻らなければならない。
その強い気持ちが、僕にビートを熱く奏でさせる。
「……Heyヨー」
あのとき──。奇跡は起こった。僕はオムライスを食べることができた。
だからもう一度。力を貸して、真由美ちゃん。
「マイクロフォンチェケチェケ……マユーミMAYUMI」
……違う。そうじゃないだろ。
願っていてはだめだ。その力をいつでも自由に引き出せるように、自分のものにしなければだめなんだ。
でなければ過ちは繰り返される。
たった一度の奇跡ではどうしようもない。奇跡を奇跡ではなく、日常に。当たり前にしなければ、ここから先へは進めない。
陽葵は優しくてとっても良い子だから。
僕が一度や二度「いいこいいこ」「よちよち」「えらい」を断れたとしても、きっと「無理しなくていいんだよ」「陽葵がずっと側に居てあげるから」って優しく包み込んでくれるんだ。
そして確実に僕は──。「ママー!」って抱きついてしまうんだよ!!
あぁ、わかっている。僕って人間がどれだけクッソタレでしょうもないベイベちゃんかわかっているんだ!
だから僕は、奇跡を日常に変える!
そのために必要なのは真由美ちゃんを刻むこと!
だったら刻め! 真由美ちゃんを刻み続けろ!
この声が枯れようとも! 喉が壊れようとも叫び続けろ!
「……チェケチェケ。準備はいーかい真由美ちゃあん? いーかいいーかい真由美ちゃあん。マイクロフォンチャン……マユミチャアン……マユミチャアン…………」
研ぎ澄ませ。僕の部屋はステージ。遮光抜群のカーテンは観客席──。
イクゼ! 放つぜ! カマすぜぇっ!
これが僕のビートだ!
「Heyヨー! マユミマユミ! マンマ真由美! チェケチェケ由美ママユミ! マユーミゴーゴGO!」
いいぞ。初手から素晴らしいキレだ。
今日も僕のビートはキレキレだ。
さぁ、もっとだ! もっともっとイクぜ!
ヒアウィーゴー! フォオオー!
「マンマ真由美! ママMA由美! ユママユミ! 美由ミユYUMIマユッミー……──」
+++
そして二万八千回ほど真由美ちゃんを刻んだところで──。
玄関の開く音。階段を上る音。
来た! 陽葵が帰ってきた!
「センキューフォーベルマッチ! イェー! マタ・アシタ!」
遮光抜群のカーテンさんに感謝のお辞儀をして、ドアの前で陽葵が来るのを待つ。
けれども昨日までとは違う。
今日の僕は──。
今日の僕ならイケる!
奇跡を日常に変えられる!
大切な妹だからこそ、僕はもう一度──。お兄ちゃんになれる!
さぁ、始めようか。
ここから先はずっと、お兄ちゃんTIMEだ!
イッツショータイム! チェケラ!
「ただーいま♡」
「おかえり陽葵! 僕ねっ! 今日もいい子に待ってたよ!」
いよしっ! うっかりお母さんはしていない!
ちゃんと陽葵と呼べている!
見たか! これが、二万八千回分の真由美ちゃんの力だ!!
「ふふん。えらいえらい♡ よちよち♡」
「うん! 僕、いいこ!! 撫でて撫でて!」
あっ──。れ?
気づいたときにはもう遅い。
第一声から既に、やらかしてしまっていた。
うっかりお母さんをやらかさない。そんな小さな目標のために、僕は今日一日、熱いビートを刻んでいたわけではない。
……のに。
寸前で意識が刈り取られた。
目の前の撫で撫でに心を持っていかれた。
「ほぉら♡ ぎゅーだよぉ♡ 夕飯の時間までベッドでいちゃいちゃしようね♡」
「うっ……ちょっ……あっ……──。うんっ! するぅ!! するするぅ!」
そして今日もまた。幸せいっぱい夢いっぱいの「いいこいいこ」「よちよち」「えらい!」の全肯定ループに突入する。
些細なことで褒められ甘やかされる。最高の時間が始まる。
「偉いね! すぅはぁ息が吸えてえらい!」
もっと、もっと褒めて……。
「すぅはぁすぅはぁ! すぅすぅはぁっ! ほらみてみてー! 僕、たくさん息吸えたよ!」
催促するのは当たり前。
「いっぱい息が吸えてえらい! お兄ちゃんはえらい! よちよち♡」
息を吸うことでたらふく褒められたら、次。
──パチクリパチクリパチクリ。
「みてみてー! 僕、たくさんまばたきできたよ!」
「わぁ! すごいね♡ えらいえらい♡」
「僕、がんばってまばたきしたんだよ! もっと褒めて!」
「うんうん♡ えらいえらい♡ お兄ちゃんはいいこ♡」
「もっと! もっと褒めてひなた!」
「生きててえらい! ぎゅー♡」
こうしてただひたすらに、ベッドの上で甘え続ける。
幸せだ。ずっとこのまま。
お爺ちゃんお婆ちゃんになっても、陽葵とずっと──。
間違いだとわかっているのに、今日も幸せいっぱい夢いっぱいに眠りに就いてしまう。
……かに、思えた。
ましゅまろにうずまりながら、僕は心の中で真由美ちゃんを刻んだ。
(まゆまゆ真由美。まっまま真由美。チェケラ。まゆまゆみ。チェケラ……──……)
僕の決意は固かった。
この夜。僕は一睡もせずに──。朝になるまで真由美ちゃんを刻み続けた。
(ちゃんちゃんマユちゃん真由美ちゃあん! マユちゃんユマちゃんミユユちゃーん……──……)
そして奇跡は日常へと、あんよを始める──。
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