39,ヨルト商店/鎧戸の閉じた店内・早朝


 鎧戸が閉まり、日射しの無いヨルト商店。冷えた外気を昇ったばかりの太陽が温めてはいるものの、店の中にその熱が届く事は無く、空間一杯にきりりとした冷気が籠っている。


 そこで、勘定台へ据え付けられた電灯の下、ヨルト商店の店主──ヨルトが、帳簿に何やらものを書き込んでいた。

 黙々と筆を走らせていた彼だが、何か気配を感じ取ったのか、目線や作業はそのままに、やや小さく声を漏らす。


「おや、早いじゃないか。もう一、二時間くらい寝ていたって、寝坊にはならないよ」


 向けられた言葉の先には、二階へと続く階段を灯りも無しに降りるラルフの姿があった。帳簿を閉じたヨルトは彼の方を向き、自身の元へ来るよう指を折る素振りをして見せる。


「昨日はよく眠れたかい?」

「……それなりに」

「あら。もしかして、僕と同じ部屋が不満だったりしたのかな?」

「……どういう意味だ」

「ハハハ、冗談だよ」


 へらへらと笑うヨルトに、ラルフは少しだけ眉を寄せる。


「で、どうしたんだ。何か僕に用があるんだろう?」


 変わらず薄い笑みを浮かべるヨルトに、ラルフは静かに口を開いた。


「……ここから二本西の通りに、見ない風体の人間がで物を売っていた」

「…………」


 ラルフの言葉を耳にしたヨルトの笑顔から、束の間、不敵さが消える。


「食い物だけじゃない。常日頃使うようなものから嗜好品まで、行き摺りの人間全員に配り歩いていた。

 ……昨日の午後、客が一人しか来なかったのはその所為か」


 何の躊躇いも無く淡々と言葉を発し、真っ直ぐ、射抜くようにヨルトを見つめるラルフ。しかしヨルトはそれを物ともせず、また普段の薄い笑みを浮かべる。


「さあ、それはどうかな。君の想像に任せるよ。

 ただ一つ言えるのは、報酬の心配は無用という事だ。遠慮する必要も無い。依頼の契約が終わり次第、提示した額をきっちりと払わせてもらうとも」


 帳簿を持って立ち上がったヨルトが、ラルフの背を軽く叩いた。


「ささ、部屋に戻った、戻った。朝食が出来るまでゆっくりしていたまえ」

「…………」


 そう彼に告げ、ヨルトは階段を上がって行く。

 その背を少しだけ眺めてから、ラルフは彼の後を追うように階段を上って行った。




 ヨルト商店/店先・昼




「お客さん、来ないねえ……」

「来ないですねえ…………」


 閑古鳥の住処と化した、昼下がりのヨルト商店。軒先の長椅子に並んで座るハクアとリアが、物悲しい表情で客を待ち惚けていた。


「おいオマエ等、何ボーッとして──……って。そっか、昨日の商品は全部運び終わっちまったんだよな。ったく、調子狂うぜ……」

「おや、アラン。今日は元気が無いね。何かあったのかい?」


 ばつの悪そうに頭を掻くアランの両肩に、彼の背後から現れたヨルトが手を置く。


「いや、別に元気が無いワケじゃないけど。何時もならまだ終わってない商品の搬入がもう終わっちまってるからさ」

「そうかそうか。まあ、そういう日もあるさ、気にする事は無い。

 さて。皆、店番ご苦労様。そろそろお昼にしよう。ラルフ君、作業は一旦そこまでにしといてくれ」


 店の奥へと続く垂れ幕の内から出て来たラルフを目にし、アランは目を見開いた。


「ヨルさん、アイツあそこに入れて良いのかよ!?」

「良いんだよ、アラン。僕の指示で入ってもらったんだから」


 ヨルトの言葉を聞いても尚不満げな顔をするアランの横へ、何食わぬ顔で歩いて来たラルフが立つ。それと同時に、店先に座っていたハクアとリアも彼の元へと駆け寄った。

 全員が居る事を確認してから、ヨルトは、良し、と口を切る。


「全員居るね。さっきも言った通り、これから昼食なんだが。ハクア君、君は確か、路地裏に来たのは初めてだと言っていたね?」

「うん! 貧民街は何度もあるけど、路地裏は初めてかな」

「そうか。なら、今日の昼食はそこら辺の屋台で買って食べると良い。何、どの店に関しても銅貨三枚あれば買えるし、味も保証するよ」

「へ!? 良いんですか!? ありがとうございます!」

「ああ、存分に食べて来たまえ」


 予ねてより気にしていた屋台へ足を運ぶ機会を思わぬ形で与えられ、ハクアはやや驚きつつも、期待と喜びに胸を躍らせた。


「あ、じゃあ、ハクアさん! オススメの屋台、幾つか教えましょうか?」

「うん! どこどこ──……?」


 リアに声を掛けられたハクアが彼女の元へ歩み寄る横で、ヨルトは話を続ける。


「アランとヴァイム、そしてリアは何時も通り、ここで食べてもらうとして。

 最後に、ラルフ君。君も彼女と一緒に行って来ると良い」

「…………」


 変わらないまま自身へ向けられている筈のヨルトの笑みが、ラルフにとっては何とも疑わしく思えるのだった。




 路地裏/屋台の並ぶ通り・昼




 アレストリア帝国、シュダルト南西部、路地裏。

 大通りから三つ道を外れるだけでも警備隊の目は届かなくなり、五つも離れれば夜の大通りや貧民街と並び立つ程の魔窟と化す無法地帯。

 しかし、喧嘩が何時殺し合いに発展するかも分からないこの場所にも人があり、生活もある。常人ならば立っているだけで命懸けの路地裏で強かに生きる人々の糧。それこそが店であり、屋台であり、食なのである。


 大通りに比べれば数こそ少ないものの、片手間に食べる事の出来る料理や飲料を出す屋台店が圧倒的な割を占めて立ち並ぶ路地裏の通りで、ハクアが目を輝かせた。


「わあ、どれもみんな美味しそう! ねえ、どれが良いかな!?」

「……好きにすれば良い」


 早く食べたくて堪らない、と言わんばかりにそわそわと落ち着き無く尋ねるハクアへ、ラルフは溜息混じりに答える。


「ふへへへ、何にしよっかなあ」


 ハクアが道端に並ぶ色彩豊かな屋台のひさしを端から端まで見渡した、その時。首から胸にかけて白く大きな襟の付いた、裾の長い黒服──アレストリアではまず見ない、修道服と呼ばれる服──を着た一人の女が、彼女の背後から声を掛けた。


「もし、そこのお嬢様」

「へ? 私?」

「……!」


 女の姿を目にしたラルフが、僅かながらに目を見開く。


「はい。銀の髪の美しい、そこの貴女。もしや、ひもじい思いをなさっているのでは?」

「え? う、うん。お腹は減ってるけど……」

「では、こちらをお受け取りください」


 そう告げた女は腕に提げていた籠から掌大の大きさをした麺麭パンを取り出し、それをハクアに差し出した。


「対価は要りません。腹がくちくなる事は無いでしょうが、今日という日を生き抜く糧にはなる筈です」

「…………」


 突然の出来事にぱちくりと目をしばたかせたハクアだったが、直ぐに彼女は女に笑顔を向ける。


「ううん、私は大丈夫。ちゃんとお金持ってるから! だからそれは、お金が無くて食べるものに困ってる人に渡してほしいな!」

「まあ。そうなのですね」


 輝かんばかりの笑顔を向けられた女は、微笑みを浮かべながら籠に麺麭パンを戻す。


「貴女の清く美しい慈愛に、感謝を。どうか、良き日をお過ごし下さいませ。女神フェウスの御加護があらん事を」

「? うん! ありがとうね!」


 女から向けられた言葉の意味を今一つ理解出来なかったハクアは、しかしその善意だけは汲み取り、去り行く彼女に手を振った。

 女の背が人混みの中へ消えていった頃、ハクアの横からラルフが現れる。


「あれ? どっか行ってたの?」

「いや。……あの女」

「うん。不思議な人だったなあ。でも、お金に困ってる人達に食べ物を配ってるみたいだし、きっと良い人なんじゃないかな。

 あ! あれ、もしかしてリアちゃんの言ってたお店かな!? 行ってみよう!」

「……おい」


 早々に話を切り上げ、目当ての店へ一直線に駆け出したハクアをラルフが呼び止めようとするも、その声が彼女に届く事は無く、長く息をついた彼は早足で彼女の後を追った。


 そして。「ギルド」と違い、献立表メニューの無い屋台での注文にやや戸惑いながらも、無事に包み紙二つ分の昼食を手に入れたハクアは、程良く日の当たる場所に位置していた道端の長椅子へ、ラルフと共に腰を下ろす。


「あのお店のおばさん、一つおまけしてくれたんだ。ラルフも食べる?」

「……要らない」

「そっか。食べたくなったら何時でも言ってね」


 そうラルフに言って、ハクアは包みの一つを半分程まで剥がす。すると中から、香辛料や柑橘の果汁で味付けされ、よく焼かれた小間切れの肉が薄い生地にくるまれているものが、白い湯気とともに顔を出した。


「えへへ、おいしそうだなあ。あったかいうちに食べちゃおっと。いっただっきまーす!」


 期待の眼差しをきらきらと輝かせながら、ハクアは手元のそれにかぶり付いた。


「んー! おいひい!」

「…………」


 舌鼓を打つハクアの横で、ラルフは腕を組んで船を漕いでいる。


 ────が。徐にその瞼が開かれた。

 ゆっくりと横へ向けられる視線の先には、もぐもぐと頬張ったハクアの姿がある。


 何気無い日常の、ほんの一時。

 見ようと思えば何時でも目にする事の出来る、実につまらない、ありふれた光景。


 しかし、それは何物にも代え難く。

 幸福に満ち満ちた彼女の表情に、ふと彼の口元が綻んで──────。


「?」


 不意に視線を感じたハクアが、ラルフの方を見る。しかし感じた筈の視線はそこに無く、あるのはただ、退屈そうに眼前の人混みを眺める彼の姿のみ。

 そして間も無くハクアの目線に気付いたのか、ラルフは彼女へと顔を向けた。


「……何だ」

「う、ううん! 何でもないよ」


 感じた視線は思い違いだったのかと違和感を抱きつつ、ハクアは最後の一口をぱくりと平らげる。


 ────ゆるりと過ぎ行く時の流れは、何時しか遠い思い出に。

 雑踏を眺め続けるラルフの目は、何処か遠くを映し出していた。




 ヨルト商店/屋根の上・夜




 焼けるような昼の日射しが影を潜め、暗い夜風が冷たく吹き渡る、シュダルトの夜。

 喧騒が消え、時折甘い嬌声が小さく響く路地裏を、屋根に座って俯瞰する青年が一人。ラルフである。


 風に靡くコートの裾もそのままに、彼はただ、路地裏の街並みを漠然と見下ろす。

 するとその背後から、フードと外套を纏ったヨルトが現れた。


「部屋に居ないと思ったら、こんな場所に居たのか。寒くないのかい?」

「……別に」


 よっこいせ、とラルフの隣に座ったヨルトは、ふっと彼に笑いかける。


「明日で一応最後だけど。どうだい、この路地裏は?」

「……最悪だ」

「アハハ、確かに。どれを取っても間違い無いね」


 やや不機嫌そうな表情をするラルフの言葉に、ヨルトは軽く笑い声を上げた。


「僕も正直、どうかと思うよ。ほら、今も聞こえただろう? ああいうのは本当、早々にやめていただきたい所だね」

「…………」


 灯りの点いた建物からと思しき如何わしい声に、ヨルトは困ったように肩を竦め、ラルフの眉間には皺が一つ増える。


「後は、そうだな。上下水道は辛うじて通じてはいるが、電気が真面に通じている場所はほとんど無い。そこら一帯の売春宿に灯っている電灯は全部、中心地区や大通りから無断で引き込んでいるものだ。最初ここに店を開いた時は本当、悪臭やら窃盗やらで毎日ウンザリしていたよ。懐かしいねえ。

 ……でもまあ、仕方の無い事だ。こうでもしなければここの住人は生活が出来ない。一般社会からは勿論、『ギルド』の恩恵からもあぶれてしまった彼等には、もうそれしか生きる手段が残されていないんだ。一昔前の貧民街とさして変わらない」


 金の入った麻袋を苦拗くすねたと思しき男が、閉じている筈の店──ヨルトの店とはまた別の店──から出て来る様を、ラルフは何気無く目で追った。


 暫しの沈黙の後、ヨルトが口を切る。


「ラルフ君。君には、大事なもの、って、あるかい?」

「は……?」


 唐突に投げかけられた問いに、ラルフは怪訝な顔でヨルトの方を向いた。


「あっはは。そう難しく考える必要は無い。何だって良い。人でも、物でも、何でも。信条や事象でも良い。そういうもの、君は何か持っているかい?」

「…………無い」


 俯いて口を噤んでいたラルフが、ぽつりと呟く。


「……そんなものは、無い」

「…………」


 返って来たラルフの答えにヨルトは目を丸くするが、それも束の間。どういう訳か、彼は普段の作り物のような薄い笑みとは違う、穏やかな笑みを浮かべた。


「そうか。なら、今からでも遅くはない。何であっても、幾つあっても構わない。これだけは、っていうものを、最低でも一つは持つと良い。こう言うと、それは執着だ、って嫌がる人も居るんだがね」


 ははは、と笑うヨルトだったが、次第に彼の眼差しから飄々とした気配が消えていく。


「……でも。拠り所というのは、言葉以上に大きな意味を持っているものだ。自分にはそれがある、そう思えるだけで、それが希望になる。例えそれを失う日がやって来たとしても、のと、のとでは、丸で話が違う。

 焦る必要は無い。急ぐ必要も無い。ただ、うかうかしている暇は無い。大層なものでなくたって良い。何か、大切なものを。これの為なら頑張れる、そんな理由ものを見付けなさい。それさえあれば少なくとも、、なんて事にはならない」


 静寂が、夜闇を吹き抜ける風と共に流れていく。


「……どうして急に、そんな事を」


 その風へ最初に声を乗せたのは、ラルフだった。

 意外にも思える彼の言行に呆気に取られたのか、ヨルトは、え、と声を上げる。


「あ、ああ。まあ、何だ。丁度君くらいの歳の頃の僕と君が、少し似ているように思えたんだ。だから、お節介かもしれないが、言っておこうと思ったのさ。実はこう見えて、もう四十は超えていてね。割と経験はある方だと自負しているよ」

「…………」

「ハハッ。驚いたかい?」


 何処をどう見ても二十代半ば程度にしか見えないヨルトの顔面を凝視するラルフに、ヨルトは思いがけず吹き出した。


「さて、そろそろ部屋へ戻ろう。シュダルトの夜は、夏でもよく冷える。温かいお茶でも一杯、淹れようじゃないか」


 そう言いながら立ち上がったヨルトは、開いた天窓──屋根上と室内を繋ぐ梯子が降りている──の方へと歩いて行く。


 ────アンタ、笑った顔が様になるような男になりなさい。


 つい一日程前、シンにも似たような口調で説教を食らった事を思い出したラルフは、浅く息をついてから天窓へと向かって行った。

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