第4話
「しゅ、修司さんと別れてください」
歳は20代後半だろうか。漆黒に染まったきれいな髪を後方に流し、低めの位置のお団子で纏めている。
かなり緊張した声ではあるが、まっすぐ私を見つめていた。
きれいな瞳だ。
私は前日に大きな仕事を終えていて、その日はコーヒーを飲みながら他局番組の録画をのんびり眺めていた。その時に、来客を知らせると内線があった。
「仕事関連じゃなさそうです。断りますか?」
対応したのは仲良くしている受付の女の子だった。私へと取り次ぐ電話の最中で、同一人物からのチャットメッセージがパソコンの画面に浮かんだ。近頃の若い子は優秀である。
その日のアポイントはなかった。テレビ局に訪ねてくる人たちの中には、すこしばかり危険な奴らもいる。一週間前にも、某暴力団の名を語る二人組が私に会いに来たばかりだ。受付の子は私の身を案じてくれたのだろう。
そうでなくても、急な来客は時間の無駄になることが多い。普段なら、居留守を使っていたはずだ。だけど、その日は手持ち無沙汰だったこともあり、私は受付ロビーに降りた。第六感というやつかもしれない。
祐奈の姿を見て、何かあると思った。だから会社の外のカフェに誘った。
祐奈は突然の訪問を詫びると、私に修司と別れるように迫った。
修司と祐奈との出会いは2年前。彼が高知県に出張した際に出会ったらしい。
修司が弱音を吐いた温泉旅行から数カ月がたった頃だ。
海の近くの水族館でふたりはたまたま出会った。日中から酔っ払っていた
ちなみに、修司が日中の水族館にいた理由はただのサボりだ。
修司はマジメなくせして、平然とこういうことをする。本人の中では「人に迷惑をかけてないから問題ない」ぐらいの感覚なんだろう。
私は学生時代と変わっていない修司のエピソードを聞いて、少し笑ってしまった。私はその時点で、祐奈のお願いを受け入れることを決めていた。そして、祐奈にそれからの経緯を詳細に語るように促した。
ふたりはその日の晩に居酒屋で再会する。祐奈の方からぜひお礼にご馳走させてほしいと願い出たという。
祐奈は田舎らしさを残した可愛さに加え、素直さと実直さがにじみ出ている。彼女の誘いを初見で断れるおじさんなど存在しないだろう。夫を奪われたはずの私でさえ好印象を抱いている。
修司にとっても彼女との時間は満更でもなかったはずだ。ふたりはカウンターに座り、他愛のない会話を交わしながら、酒と食事を楽しんだ。
だが、祐奈のお礼は不発に終わる。2時間ほど経った頃、修司は祐奈がお手洗いに立った際に会計を済ませ店を出た。「楽しい時間をありがとう」と店主に伝言を残して。当然、祐奈の分も支払った。
普通であれば物語はここで終わる。
だが、祐奈も修司に似て、ヘンに真面目であった。助けてもらったのに、また奢ってもらってしまっては、気が済まなかった。
後日、祐奈は修司の会社宛てにお礼の品を送る。
これで、二人の間に縁ができた。義理堅い修司はすぐに祐奈に連絡し、次の出張の際には食事をごちそうすると約束した。以降、高知に行った際には必ず夕食をともにするようになったという。
ちなみに、祐奈が送ったのは、5万円相当の海の幸の詰め合わせだった。
水族館で働いていながら魚を送る祐奈のセンスがツボに入って、私は飲んでいたアイスコーヒーを吹き出しそうになったがどうにか堪えた。
そこから恋愛関係になるまでに約1年かかる。その間の出張は少なくとも5回以上、こんなにかわいい女の子と二人っきりで食事をしていたにも関わらず、何も手を出さないとは。
これもまた、実に修司らしいのだが、多少は甲斐性を見せてほしいものである。
祐奈は修司と会うたびに彼に惹かれていった。でも、妻帯者であることは知っていたから、先を望んでもいなかった。
一線を越えた夜、修司はかなり酔ってたという。酔った彼の誘いを祐奈は罰を受ける覚悟で受け入れた。
そして、一晩を共に過ごし、修司の精神が限界に近いことを知った。
修司は不正に手を染めたことを悔やんでいた。彼が務める企業の製品データの改ざんである。直属の上司からの頼みで断れなかったという。
指示ではなく、“頼み”であったのがまずかった。修司は指示であれば突っぱねただろう。しかし、上司も上層部から与えられたノルマを達成するために必死だった。就業後の人がいないオフィスで土下座し、涙を流しながら不正への協力を求めた。
修司は情に弱い。とても弱い。即答こそしなかったが、最終的には協力を承諾した。自分が協力しなければ、部下に話が行くことに気づいていたせいもある。不正は二人だけで留めることを条件とした。
普段の修司の働きぶりが良かったこともあり、データの改善は予想以上の相乗効果を生んだ。ノルマはいとも簡単に達成した。
後にも先にも修司がデータを改善したのはその一回だけだ。ただその一回が彼を苦しめた。対象機器のトラブルを起因としたシステムダウンが導入先で発生したためだ。
上司の計らいもあり、回避できないトラブルとして処理され、修司のキャリアに傷が付くことはなかったが、取引先のシステム責任者の左遷という処分が、修司の心に重くのしかかった。
それまでと同様に、顧客に対して不誠実な営業を続けている自分も修司は許せなかった。罪を償うどころかむしろ重ねている自分を責め続けた。
「修司さんは今の生活を捨てるべきです」
祐奈の主張に私は同意した。大好きな夫との離婚を浮気相手に約束したのだ。
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