第2話

 修司は優秀だったから学者として生きる道もあった。恩師である教授も彼を高く評価し、修士課程への進学を薦めた。


 本当は探求の道を極めたかったのもしれない。だが彼は就職の道を決めていた。


「遊びは終わり。しっかり稼ぐよ」


 堅すぎるように見えた修司の大学生活は、彼にとっては他の大学生と同じく遊びの期間だった。彼が惹かれた分野は普通の仕事には活かせない。そのことは彼自身が一番わかっていたのだろう。


 アパートと研究室、そして図書館でほとんどの時間を過ごした彼は就職活動でかなり苦戦した。コミュニケーションに関する学術書や論文、自己啓発本をいかに読み込もうが、実際には役に立たないことを実証していた。


 エントリーシートも含めれば100社以上からの「お祈りメール」を受け取っていたはずだ。真面目な彼のことだから公務員に的を絞っていれば間違いなく合格していたに違いない。だが、公務員試験用の勉強に残された学生時代を費やすのが惜しかったようだ。彼は卒業論文にも妥協はなかった。


「ごめん。甲斐性のない男で」


 内定が一つも得られずに迎えた卒業式の後で修司は私に言った。


「知ってるよ」


 飽きれるように笑いながら応えた私に修司は悲しげな顔を浮かべたけど、私は彼を卑下したわけじゃない。彼が自慢だった。不器用でまっすぐすぎる彼が大好きだった。無職でも全く平気だった。私が稼げばいい。本気でそう思っていたから彼との将来に不安なんてなかった。なんなら大学院を受けなおせば良いと思ってた。


 結局、卒業式から約3週間後に修司の就職先が決まった。IT系の営業職で、研究室の教授の紹介である。本来、彼の研究室では推薦制度はないのだが、彼の将来を案じた教授が知り合いの経営者に頼み込んでくれたらしい。


「卒業式過ぎたら研究室に戻ってくれるかなと期待してたんだけどね」


 修司と二人でお礼を言いに研究室を訪ねた時、教授は苦笑いをしなからそう言っていた。私は心から感謝しつつも、ほんの少しだけ「余計なことをしてくれたな」とよこしまな思いを抱いていた。


 ちなみに私の就職活動は順調そのものだった。興味本位で受けたテレビキー局の試験をとんとん拍子で勝ち抜き、都内でADとして働き始めることが早々に決定していた。


 修司は、1ヶ月遅れのゴールデンウィーク明けから働き始めた。


 彼に営業職が務まるのかという私の懸念は杞憂きゆうに終わる。

 彼は1年後には営業部でトップの売り上げを残すまでに成長した。


「相手にとって必要なものを勧めるだけだよ」


 社長賞の報奨金を使い、中目黒のフレンチレストランでささやかなお祝いをした時、修司は照れくさそうに話していた。


 彼の仕事は法人宛に、業務効率化やセキュリティ対策など、デジタル戦略に関する各種システムや機器を提案する仕事だった。開発元は自社だけでなく、パートナー会社も含む。当然選択肢は多く、オプションも含めれば提案のバリエーションは無限大だ。


 大抵の営業マンは得意分野を絞って知識を磨く。もしくは接待を含めてた信頼関係の構築を図る。

 

 しかし、彼はそうしなかった。研究に没頭していた時のように貪欲に学び、可能なかぎり知識をため込んでいった。営業に出向く前の下準備も妥協しなかった。インターネットで得られる情報はもちろんのこと、新聞や雑誌、社史などの細かな資料に至るまで調べつくした。


 お互いの仕事終わりに外食に出かける際はよく国立図書館で待ち合わせたものだ。


 社会人2年目からは競合を含む多くの企業からの引き抜きの誘いも多くあったらしい。当然、彼は断り続けた。というより興味がなかったらしい。その時の仕事環境に満足していたし、恩師への義理人情もあっただろう。


 3年目に結婚してからも修司は彼らしく働き続けた。転機は7年目。お互い30歳を目前とした時に訪れた。


 私でも知っているような一流IT企業から修司に移籍の打診があった。彼がいた会社と取引のある会社であり、恩を売る意味で、古巣にとっても利益のある取引だった。この話自体も会社経由で修司へと伝えられた。彼の上司も教授も新天地での活躍を望んでいた。当の本人は乗り気ではなかったが…。


 転職の決め手となったのは私だ。収入が上がることに惹かれたのも事実だが、何よりも修司が評価されていることが嬉しかった。


「男なら一度は冒険しなきゃ」


 私は軽い気持ちで彼の背中を押した。


 何度か行われた夫婦会議を経て修司は転職を決める。住まいも埼玉県から都内に移した。


 その頃には、私はディレクターとしていくつかの人気番組を担当していた。興味本位で始めたAD職は大変ではあったが、毎日が刺激的で楽しかった。演者や上司との関係も良好で、かなり充実した日々だったと思う。


 だから修司の変化に全く気づかなかった。

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