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私からなにか言うべきかと考えていると、彼女のほうから口を開いた。
「あ、あの……」
けれどいつもと違う。いつものベスならこんな中途半端に言葉を切りはしない。
私は緊張してうわずり気味に、はい、と短く返事をする。
やはり違和感があった。普段の彼女なら目を合わせずに会話しようとはしないのだけれど、今は視線を落としたままだ。
この鉄のような女主人が視線を伏せたままなにかを言い淀んでいる。【常に】自分を見失わない、変わらないと思っていた彼女が。
空気を求めるように言葉を振り絞ろうとし、水に遮られるように言葉を飲み込む。
まるで溺れているかのような。
そんな仕草を三度繰り返した彼女は、そのまま目を合わせずに言った。
「やはり、今日はもう休んでください。いいですね。片付けは私がします」
それはいつもと変わらない声だった。けれども少し肩を落として項垂れた姿は今まで一度たりとも見たことがないもので、同様に俯いたままの顔は見ることができない。
今、彼女はどんな顔をしているのだろう。好奇心が頭をもたげる。この様子とおなじように見たことのない表情をしているのだろうか。それとも実はいつもと変わらない顔なのだろうか。
けれども、それを暴き立てるのは不義理というか、不誠実というか、少なくとも彼女は見られたくないのだろうから……ならば私はその意図を酌まなくてはいけないと思い留まる。
「わかりました、おねがいします。ごめんなさい」
それだけ告げると踵を返し、意識してゆっくりと自室へ戻る。
平静に。平静に。いつものように扉を開いて、静かに閉める。
完全に扉を閉めたことを確認して、そのままベッドへ倒れ込む。
疲れた。
僅かなひとときで一日分に匹敵するほど疲れた気がする。
あんな彼女を見る日がくるとは思わなかった。普段とは違う彼女をいつか機会があれば見てみたいと思っていたのは事実だけれど、反面そんな日はこないだろうという無根拠な確信もあったので衝撃は大きかった。
あのときベスはきっと、いや、確かになにか別の言葉を言おうとしていたはずだ。
それはいったいなんだったのだろう。そしてなぜ、言うべきは堂々と言い、そうでなければおくびにも出さない彼女があれほど迷ったのだろう。
今を失うことを恐れて雇った理由を聞けなかった私。もしかしたら彼女の紡ごうとした言葉もまた、なにかを恐れなくてはいけない、ともすれば今を失ってしまうような不安を抱いた内容だったのだろうか。
だとしたら今日、私たちはお互いに今を守るために言葉を飲んだ、と考えてもよいのではないだろうか。
そうであれば、たとえそれが臆病の産物であったとしても、私は嬉しかった。
彼女もまた、今の生活を壊したくないと望んでくれている、ということなのだから。
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