3


 もやもやとした気持ちを反芻してまた手が止まっていたらしい。ベスの小さなため息を感じて私は再び我に返った。


「やはり今日は本調子ではないようですし……」


 表情や語調こそ変わらないものの、今日はこれ以上私に仕事をさせないと決めたようだった。彼女は自分の食器を手に立ち上がる。


「待って、大丈夫私がっ」


 失敗だった。慌てて前のめりに立ち上がったのがいけなかった。疲労に焦りが加わって足がもつれ、重心を大きく崩してしまう。

 けれども倒れる衝撃を覚悟して身を固くした私を受け止めたのは床ではなく、ベスの身体だった。


 食器で片方ふさがっているので片手ではあったが、強く、強く抱き寄せられていた。姿勢を崩していた私は彼女の胸に半ばまで顔を埋めるようにしがみついている。

 転びそうになった驚きと抱きとめられた驚きの二重の衝撃に体が動かない。声も出ない。動悸はまるで早鐘のようで顔がのぼせたように熱い。

 彼女もまた、なにも言わなかった。そして微動だにしない。そこには体重の多くを預けているにも関わらず揺るがない不動の信頼感と、厚手の服に隠された豊かな感触があった。

 思い返してみれば私は昔から、彼女は心身ともに鉄でできているような気がしていた。当然そのようなことがあるはずはなく頓珍漢な思い込みなのは百も承知なのだけれど、それでも彼女は鉄だと思っていた。

 だから初めて触れた彼女の肢体からだが柔らかくて温かいことに、そんな当然の事実に気が動転してしまった。


 動けない私、動かない彼女。そのまま静かにときだけが過ぎて行く。


 トクン、トクン……。


 衝撃と混乱で真っ白になってベスの胸に埋もれるように縋り付いている私は、触れている彼女の鼓動を感じた。それをきっかけに意識が纏まっていく。

 それは私ほどではないにしても少し早く脈打っているような気がした。同時に、抱き寄せている腕は意外なほど力強く、そして今も緩む様子がないとも気付く。


 恐る恐る視線をあげた。


 彼女はじっと黙ってこちらを見ているのではないかと思っていた。きっと私が落ち着くのを待っているのだと。

 だから視線をあげれば目が合ってしまう。そうしたらきっと、止まっている全てが再び動き出す。

 そのきっかけを自分で作るのが怖く、でもそれを確認せずにはいられなかった。

 現実は違った。


 彼女は私ではなく天井を見あげていた。


 下からでは表情は伺い知れないけれど、こちらを見ないようにしているようだった。

 どうして。

 身を挺して私を助けてくれた彼女は、けれども私の様子ではなく天井を見ている。私も顔をあげておなじように天井を見あげたけれど、そこに別段なにがあるわけでもなく、ただその気持ちをはかりかねるばかりだ。


 ごくり、彼女の喉が鳴った。微かに呼吸が乱れているのを感じる。


 なにかいおうと口を開いて息を吸った刹那、すっと彼女の腕から力が抜けた。


「大丈夫そうですね」


 ベスは私が立てることを確認しながら体を離す。視線の合ったその顔は、なぜだか少し紅潮していた。


「はい、もう大丈夫……すみませんでした」


 彼女は返事に頷くと、すっと伏し目がちに視線を落とす。

 突然のことだったので彼女も少し取り乱したのだろうか。いつもと少し違う雰囲気に戸惑いを覚える。

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