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 この家にきて十日ほど、私がしている仕事と言えば日中は概ね風呂のための水汲みで、あとは食後に食器を洗うだけ。

 掃除や食事の用意、それから庭の手入れなど、本来私が申し付けられるべきであろう事柄のいくつもが彼女の手を離れていない。

 そしてその限られた仕事ですら私がしているから時間がかかっているのであって、彼女自身が行えば遥かに手際よく片付けられることに疑いの余地はない。

 彼女の生活は驚くほど小さく纏まっていて、人の手を、それも私のようななにもできない娘を年季奉公で雇ってまで借りる必要などまったくないようにしか思えないのだ。


 初日に考えていた疑問が再び頭をもたげてくる。

 必要性とは関係なく私を雇う理由はなにか。たとえば、私に強い恩義を感じているのだろうか。

 確かに雇っていた頃は少なからぬ賃金を支払っていたけれど、それは最初に雇用を決めた父の判断だし、おそらく我が家から彼女に払った額より私の借金の残高のほうが多いのでお金を理由にするなら本末転倒だ。

 とくに彼女を助けるような行いをしたという覚えもない。彼女が私の家にきて以来、助けられるのはいつも私のほうだった。多額の私財を投じて救いの手を伸ばすほどの大恩を感じてもらえるような関係だったとは、ひいき目に見ても考えにくい。

 怨恨の線のほうがまだありそうなのだけれど、私も父も彼女に感謝こそすれど叱責したことは一度もないし、当時の関係を思い返してみてもそこまで悪感情を抱かれる心当たりはない。

 初日にいわれた『奉公に来ているとはいえ貴族として扱う』という宣言も、実際に今日までの扱いや態度を考えても、さすがに恨まれ虐げられるために雇われたという線はないような気がする。


 では、一体なぜ。


 私はベスを見つめたまま思案のほうに没頭してしまっていたらしく、気付けば訝しんだ彼女が黙ってこちらを見返していた。


「疲れましたか」


 ぼんやりとしていた私をみつめる彼女の声はいつものように事務的で、けれどもその言葉は気遣いだ。肯定すれば私に食後の片付けをさせず部屋に戻るよう命じるだろう。

 疲れているのは確かだけれど、そんなことを言い出せば昨日も疲れていたし明日もきっとクタクタで夕食を取るのも億劫に違いない。早く慣れるためにも与えられた仕事は毎日自分でやり切りたい。


「いえ、少し考え事を」


 愛想笑いのように頬を緩ませて答えると彼女はいつものように短く、そうですか、とだけ言った。今に限ったことではなく、こういうとき彼女はそれ以上追及してこない。

 いつも通りの反応にほっとしたような気持ちと、しかし同時に、聞いてくれれば切り出すきっかけになるのに、という不満じみた気持ちも湧き上がってくる。


 どうして大金を払ってまで私などを雇ったのですか。その答えを知りたい反面、知ってしまうのが怖くもあった。


 彼女はとてもよくしてくれる。無理を強いてくることもなければ私を無用の置物のように扱うこともしない。現状になんの不満もない、これからの穏やかな日々の予感。

 そこに波風が立つかもしれないような問いを自ら発する意味なんてあるのだろうか。思いもよらない答えが返ってきたとき、私はこれから訪れるであろうその日々を失うかもしれないのだ。

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