物理実験室で(前)
判で押したような日常を繰り返しながらいつの間にやら2週間あまりが経過し、教師の目を盗んで授業中に日々演を片付けてしまうくらいの余裕も生まれてきた。
そんなある日のホームルームにて、
「最近、居眠りが頻発しているようです。気を引き締めなさい」
いっそ欠伸でもしてやろうかと思いつつ、
*
「悪い、今日は先に帰っといてくれ」
帰り支度をしている今泉らに告げた。
この日の放課後は、深い理由はないが校内を見て回ろうという気になった。日々演がどれもちょろかったので、宿題まで片付いて暇だったのだ。
「まだ帰らないのか」
「ああ、ちょっと散歩でもしたくなってな」
「お、散歩するなら僕と走ろうよ」
「そこまで体力には自信ないんでな、今度にしてほしい」
すまんな、いつか体力がついたらな……。いつになるか判らないけれども。
「それで、どこを散歩するんだ」
今泉に行く先を問われたが、
「とりあえず校舎の中だ。まだこの学校を隅々まで見たことがないからな。理由はないけど巡ってみたくなったんだよ」
「まあ、なんか見つけたら話してくれよ」
荷物を詰め終えて、今泉たちは教室を後にした。
彼らが学校を出た後で、俺も荷物の整理を終えて席を立ったのだが、、教室を出たところで
俺の(偏見に満ちた)経験則によれば、いつも集団でキャピキャピしている女子は、仲間内では誰かの陰口で盛り上がっているものだ。俺だって何を言われているか分かったもんじゃない。だから、できればこういうのとは関わり合いになりたくない。
見つからぬように背を向けて足早に逃げようとしたが、
「
残念ながら捕まってしまった。観念して仕方なく答えだけでも教えてやろうかと思ったが、どいつもこいつも持っている数学の日々演は未だ白紙で、それを見た俺の彼女らに向けていた善意は半減した。
「ああ……。終わって提出してきたから箱の中探して写しといてくれ」
いったいこいつらは何のために高校に進んだのだろうか。呆れて教えるのを放棄し、投げやりな返事をした。
「解き方だけでも教えてくれると嬉しいんだけど……」
甘えた目で見つめてもダメなものはダメ。ちょっとくらい自分の頭で考えろってもんだ。解法は教科書にだって載ってるし、自分の板書があるのだから役に立てたらいいだろう。
「すまん、用事があるんでまた明日!」
エイプリルフールの権利をおよそ20日遅れで行使した。勉強以外の選択肢を奪われていて用事などあるはずがないのだから、センスの欠片もない見え透いた嘘だ。
2週間もの間、無償で放課後特別講義をしてきたのだから、今日くらい許してほしいね。
そういえば、樫野と話す度に中学時代の記憶が蘇って心の傷に塩を塗り込まれるような気分になっていたというのに、もう何も思わなくなってきた。やはり後悔は時間が解決してくれるのだ。
**********************
そこらへんをブラブラするだけでイベントが起こるなんてことがないってことを改めて再認識させられた。探索に乗り出してみたものの、珍奇なものは何もないし、突飛な出来事も起こらない。暗躍する生徒会も、厳しい風紀委員も、空き教室を占拠する怪しい学生団体もありはしなかった。それはこの学校に活気がないからという訳ではないだろう。普通はどこの高校でもそんなものだと思う。
テキトーにぶらついているうちに4階まで来てしまった。屋上は開放されていないから、この階で散策も終わりとなる。
階段近くの案内板によると、この階にはコンピュータ室や理科系の実験室などの特別教室が並んでいるらしい。
我が校はどの科目も座学ばかりなので、ここはあまり足を運び入れることがないエリアなのだと寮の先輩はそう言っていた。それでも職員室から遠い大きな部屋であれば文化系の部も活動しやすいだろうから、きっと何かあると信じて歩き出した。
まず目に入ったのは被服室の囲碁部と将棋部だ。いずれも全く興味が無いわけではないのだが、小学生の時に定石を覚えるのが苦手でどちらも勉強するのをやめてしまったことを思い出して通り過ぎた。他にはコンピュータ研究同好会、文芸部、手芸部などがあったが、どれもピンとこないのでスルーした。
どの部活も俺が出た中学には存在しないもので目新しくはあったのだが、この時は3年間を捧げようと思えなかった。
諦めて物理実験室を通り過ぎて寮に帰ろうとしたとき、一瞥しただけでは何をしているのか分からなかったが、生徒が3人、教室の前の方にいるのを目撃した。ここまで見てきた文化系部活動の中では最も人数が少ないところだが、何の成果もないまま寮に帰りたくなかったので、これが最後だと思って立ち止まることにした。
耳をそばだてると、教壇で女子生徒が何か読み上げている。
えらい美人だ。長いストレートの綺麗な黒髪をしている。とにかく容姿端麗という言葉がピッタリあてはまっており、きっとこの人は俺など足元にも及ばないほど頭も良いのだろうと思った。
教卓の上には大きめの辞典ほどの黒い物体が鎮座している。あれはどういう使い方をするのだろうか。
他には男子と女子が1人ずついて、それぞれ手に何か持っている。後ろ姿のみで顔は確認できなかった。
中の様子を見続けていると「ポーン」というピープ音がして、男子生徒の手元にある装置の赤ランプが回りだした。
「…………」
何を喋っているかは聞き取れないが男子生徒の口が動く。そして言い終わると、ピープ音が2連続で鳴った。
これによって、鈍感な俺にもこの集団がどういうものなのかはっきりと見当がついた。
そう……ここが
しかし……それにもかかわらず、この中に入っていく勇気はなかった。部員たちは一心不乱に練習しているようで、そんな中に割って入るのは気が引けたのだ。
踏み込む決心がつかないで中を見ていると、問題を読み上げていた長髪の女子生徒は俺が活動を見ていたことに気がついたようだ。
目が合うと、彼女は中座してやや早足でこちらにやってきた。
残った2人もこちらに気がついて視線を向けてきた。
戸を勢いよく開けて出てきた上級生は、フランクに声をかけてきた。
「どうしたの? 何か用事かな?」
返事が出来ずに立ちつくしていると、もう目の前まで来ていた。左側には壁が、背中側には柱があって追い込まれる形になっている。
今でもそう思うのだが、それは実に幸運なことだと思った。この上級生には遠目からでも目を惹かれたのだが、近くに寄って来るといい匂いまでしていて、アタマがどうにかなりそうだった。このような距離に異性が近づくなんてこの先起こりえないことだろう、という考えもよぎったりして訳が分からなくなっていた。
そんな緊張によってオーバーワーク気味の脳ミソがひねり出した答えは、至ってシンプルな残念なもので、
「いえ、とくに用事はないのですが……」
もともと興味があったのだから部活を見学したいとでも言えばいいのに、どうして俺は逃げるような言葉を発してしまったのだろうか。
上級生ははさらに距離を詰める。
「この挙動不審な感じ……君は外進生の1年生でしょ」
まるで顎をクイッとしてきそうな雰囲気に圧倒されて、
「……はい」
俺は間の抜けた声しか出せなかった。
さらに畳み掛けるように、女子生徒は俺の右肩に手を置いて、
「もし暇だったら、私たちの部活に参加してみない?」
俺は誘ってくる上目遣いの澄んだ瞳に惹き込まれた。
ここまでされて、「逃げる」という選択肢などあるはずがなかろう。
「……迷惑でなければ、ぜひ」
受諾すると、麗しい上級生は今にも抱きついてくるんじゃないかと思うほどのハイテンションになって、
「迷惑なんてとんでもない! 見学者も新入部員もいつでも大歓迎だよ!」
そう言うと、俺は手を握られ室内へと連行された。
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