はつこいの骸
ここのえ栞
ファム・ファタールは何も知らない
唇の端に何かが触れた。
やわらかい。あたたかい。少し、震えている。違和感に手を引かれ、意識が急速に浮かび上がる。覚醒しきらない脳の縁をくすぐられているような、じんわりと痺れるような感覚がある。
目を開けてはいけないのだと本能的に悟った。今目を開ければ、きっと、きっと後悔する。取り返しのつかないことになる。手のひらにじわりと滲む汗が気持ち悪い。冷たい微睡みの中で硬直しているうちに、それは唇から離れていった。
「おはよう、ヨシダくん」
ひどく聞き覚えのある声だった。
おそるおそる瞼を持ち上げる。ぼやけた視界の中、セーラー服姿の少女が一人。彼女は何事もなかったかのように涼しげな顔をして、おはよう、ともう一度朝の挨拶を口にした。
「……ミヤモト」
「もう六時半だよ」
そう言って軽やかに微笑むクラスメイトの佇まいはあまりに自然だ。あれは夢だったのかもしれない。夢であってほしい。唇に残るリップクリームのべたつきが、夢にすることを許してくれない。
いつの間にか西の空は焼けていた。教室にもセピア色のフィルターがかけられている。藍を透かした紫や黄が、斜陽の余韻にやわらかく滲んでいた。ミヤモトは窓に背を向けるようにして佇んでおり、鮮烈な光が彼女のからだの輪郭を橙に縁取っていた。
机に伏せていた上半身をゆっくりと起こす。一緒に帰る約束をしていたカナを待っているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたのか。カナはただ委員会に呼び出されただけのはずで、ここまで時間がかかるなんて有り得ない。
「あ、えっと……カナは?」
「もう帰っちゃった。ヨシダくんが先に帰ってくのを見たって、私が伝えておいたから」
「……なんで」
「なんで嘘ついたのかって?」
ミヤモトは微笑みを一切崩さずに首を傾げた。高い位置に結い上げられた長い黒髪が、はらりと細い首筋をなぞり落ちる。飢えた猫のように細められた瞳が、こちらを真っ直ぐに捕らえる。
病的なほど白い指先が、薄紅色に濡れた唇に触れ、ほんの少しだけ沈む。
「ヨシダくんとキスするためだよ」
脳裏に浮かんだのはカナの笑顔だった。
ひだまりの中にいてほしいと願ってしまうような、そんな優しい女の子だ。やわらかくて、あたたかくて、はにかみ屋な女の子。猫の死骸に泣き、たんぽぽの綿毛に笑う女の子。
俺の恋人で、ミヤモトの親友。
「浮気してみた感想は?」
一番の友達なのだと、ミヤモトのことを嬉しそうに話すカナの姿がフラッシュバックする。もしあの子が、俺とミヤモトがキスをしたと知ったら。恋人に、友達に、裏切られたのだと知ったなら。
「ねえ、共犯になってよ」
きっと、一人で泣くのだろう。
ミヤモトは満足げに口角を上げ、少し離れた場所にある机に腰かけた。古びた木材がキィと音を立てる。壁に映った細長い影が揺らめく。
はらりとめくれたプリーツスカートの裾からは真白な太腿がのぞいていた。陶器で作り上げたかのような隙のない白肌は、膝小僧だけが少し赤かった。
「……なんで」
「なんでなんでって、子供みたいだね」
スカートの端をつまんで膝にかけ直したミヤモトが俯きがちに言う。彼女はそのまま髪ゴムへと手を伸ばし、人差し指をひっかけてするりと引き抜いた。
「好きだったの。ヨシダくんがあの子のことを好きになるより、ずっと前から」
縛られていた黒髪が落ちていく。窓から差し込む夕日を呑み、濡れたような飴色の光をまといながら、腰の辺りまでゆっくりと落ちていく。
「付き合いたいとかセックスしたいとかじゃなくて、ただ一番でいたかった。今の関係のままでいいから、他の誰よりもちょっとだけ優先されて、他の誰よりもちょっとだけ大切にされる存在でいたかった。
……同率一位なんて許せなかったんだよ。悲しくて、腹が立って、傷つけてやりたいって思ったけど、嫌われたくなかった。だからヨシダくんにキスしたの。ずるいよね」
顔は下に向けたまま、目線だけをこちらに寄越した彼女はシニカルに笑った。
見透かされている。事情を知って深く傷つく恋人を見ることへの抵抗も、事実を知った恋人に拒絶されることへの恐怖も。俺はカナに今日のことを言わないだろう、言えないだろうとミヤモトは確信していた。
「好きなんだよ。何の躊躇いもなく、好きでいさせてほしかった」
祈るように呟くミヤモトに思わず息を呑む。何も知らなかった。でも、心当たりはあった。
よく晴れた夏の日。廊下を歩く二人の少女。一人がこちらに気づき、嬉しそうに手を振る。もう一人に何事かを告げると、彼女は小走りで駆け寄ってくる。カナ。名前を呼ばれた恋人が、俺を見上げてはにかむ。
窓から軽やかな風が吹き込む。肩口で切りそろえられた色素の薄い髪が、紅潮した頬をくすぐる。赤いスカーフがふわりと揺れる。スカートの先が微かに浮かぶ。無垢な光をまとう瞳が、俺を、俺だけを映している。
廊下の奥で、残された少女がこちらを見ている。
「ねえ、カナとはどこまでいったの?」
「……関係ないだろ」
「関係はないけど興味はあるよ。私ね、さっきのがファーストキスだったんだ。こんなくだらないことのために使っちゃった。ばかみたい、ほんと」
俺だってファーストキスだったよ、と叫びたくなるのを堪える。カナを大切にしたかったのだ。お互いが初めての恋人で、この間のデートでようやく手を繋いだばかりだった。背筋を這う罪悪感にくらりと目眩がする。
「自分勝手なのも理不尽なのも分かってるの。ごめんね。私にキスされて泣きそうになってたヨシダくんの、その誠実なところは魅力的だと思うよ。優しいあの子にお似合いだとも思う。殺してやりたいとも思うけどね」
狂気じみた静けさの中、ミヤモトは微熱を帯びた言葉を淡々と並べていく。机に腰かけて足を組むその姿はどこか危うく、息が詰まるほど神秘的だ。
ふいに彼女は顔を上げた。そのまま気だるげに手を持ち上げ、ひらりと天井にかざす。白い肌が夕日に照らされ、焼けただれたように赤く染まる。教室の壁に映った手のひらの影を見て、彼女は無邪気な微笑みを浮かべ、細い指を折って狐の形にした。黒い狐のシルエットが二人の間に浮かび上がる。
「今日のことはさ、狐につままれたとでも思っててよ」
「……思えるかよ!」
掠れた声で叫ぶと、ミヤモトは怯えたように肩を震わせた。零れそうなほど見開かれた黒い瞳が俺を映す。とうめいな黒だ。薄いガラスを何枚も重ねたような黒。はっきりとした目鼻立ちと言い、血色感のない肌と言い、本当に人形のような女の子だと妙に冷えた頭で考える。
怒りだとか悲しみだとか、そういうものが腹の底で渦巻いて蠢いて気持ち悪い。カナの笑顔が脳裏をよぎる。激情に身を委ねてしまわないように、慎重に声を発した。
「ミヤモトのやり方、ずるいと思う。好きだったなら素直にそう言えばよかっただろ。こんなことしなくても……」
「無理だよ」
その声は微かに震えていた。
ミヤモトが机から飛び降りる。波打つ黒髪に、斜陽が金色の模様を描く。いつの間にか空は藍色の帳に覆い隠されつつあった。死にかけの夕日が喘ぐように、足掻くように光を強める。深まる橙が少女の影を濃く映し出す。
「私が毎日学校に来るのも、授業を受けるのも、バイトを頑張るのも、家に帰るのも、笑ってるのも、歩いてるのも、息してるのも、全部恋してるからなんだよ。ばかばかしいと思うかもしれないけど、本当に、ただそれだけの理由なの。
私は好きな人のために生きてて、でもそれが好きな人のためになるわけじゃないってことも分かってる。だから言わない。言わないけど、私にとってはこの恋が全てなんだよ。この人のために生きようって、この人のためなら死んでもいいって思えるくらい好きなの。人生かけてもいいって本気で思えるくらいの初恋なの」
一歩、また一歩と、ミヤモトが近づいてくる。その表情は逆光で見えない。静まり返った校内に、彼女の上靴の音だけが響いている。
「ねえ、重いでしょ?ㅤこんなに重いもの、好きな人に背負わせたくない。優しいから困らせちゃうだろうし、悲しませちゃうだろうし、何より嫌われたくないもん。
素直に言うなんて、言ったら取り返しつかなくなるよ。だからあのままでよかった。あの時のままがよかった、一番でいたかったのに……」
ミヤモトが目の前で立ち止まる。近くで見ると、彼女は人形ではなく人間に見えた。少し黒ずんだ上靴、ひだの取れかかったプリーツスカート、結び目の歪んだスカーフ。縦に切れた唇、微かに赤く腫れた目元。小粒のラメが瞼の上できらめく。まるで涙のように、繊細な光を帯びる。
ねだるように、縋るようにこちらを睨みつけるミヤモトは、ぞっとするほど美しかった。
「返してよ。全部、奪っていかないで」
嘘の色が真赤なら、今この瞬間、世界はきっと嘘でできている。赤く染め上げられた黄昏時の教室で、それでも彼女だけは真実そのものだった。
「……恋なんて綺麗なものじゃなくて、多分、ただの執着なの」
ミヤモトが乾いた声で呟く。自らの足先をじっと睨む姿は、どこか途方に暮れているように見えた。
「休み時間に話せたとか、メイク褒めてくれたとか、一緒に帰れたとか、そんなちっぽけな思い出だけでこの先ずっと生きていけるって思うし、そんなちっぽけな幸せをもらう度にもっと欲しくなる」
ゆっくりと膝を折り、彼女はその場にしゃがみこんだ。前に流れ落ちた髪が顔を隠す。スカートの裾が床に触れ、ぐにゃりと形を変えて崩れる。
「どうすればいいか分からないんだよ。いっそ嫌いになっちゃいたいくらい。怖い、知られるのが、嫌われるのが怖いの。友達ですらいられなくなるのが、怖い……」
「俺だって怖かったよ」
唇の端から言葉が零れ落ちる。怖かった。俺だって怖かった。でも、それ以上に好きだった。
初夏の朝を思い出す。空は青く透きとおり、朝練の喧騒は遠く、二人分の呼吸と秒針の音だけが響く教室で、カナに告白した日。手足は震えて、声も出なくて、困らせたらどうしよう、友達ですらいられなくなったらどうしようと、そんなことばかりが頭をよぎった。
好きだと言うと、カナは泣いた。とうめいな涙をぼろぼろと零し、声を殺して泣いていた。嬉し涙だと言いながら泣き笑う彼女を見て、俺は、この子が一生ひだまりの中にいられますようにと願った。
「俺、カナが好きだよ」
そう言うと、ミヤモトはゆっくりと顔を上げた。
唇を引き結ぶ姿はやけに幼く、今にも泣き出してしまいそうに見える。彼女は人形ではなかった。ただ懸命に恋をする、一人の女の子だった。
斜陽が静かに息絶え、二人を包む光が弱まっていく。セピア色のフィルターが外され、藍一色の帳が下ろされていく。夕は眠りにつき、宵が目を覚ます。
ミヤモトは囁いた。瞳から一筋の涙を零しながら、まるで宝物を自慢するかのように。
「私も、カナが好きだよ」
あの鮮烈な赤が、二人のまぶたの裏に焼きついて離れない。これは裏切り者の烙印なのだと少女はわらった。
はつこいの骸 ここのえ栞 @shiori_0425
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