第七章 マルトのドレスデネーへの旅
カラスの鳴き声――にしては甲高いような、野太いような。マルトは回想から現実に引き戻される。
天から降ってきた声に、小窓から四角い空を見上げると、大型のワタリガラスが二羽、緩やかに滑空していた。
リブシェの首都ドレスデネーは、ライヒェンベルクから北部の丘陵地帯を越え、そこから真西に進んだ先である。ライヒェンベルクからの距離はフンデルトヘルメとのそれと同程度はあるが、再び動き出した馬車は、短くはない道のりの間、信じがたい脚力を保ち続けた。
車内では三者が三様の想いにふけり、会話はほとんどなされなかったが、森林と沼沢の多い土地に入ってしばらく進んだ頃、オンディーヌがにわかに、
「南に行こうぜ」
とつぶやいた。
ジークムントは黙って手を挙げ、馬車は左に折れる。そこから大した距離も進まないうちに、馬車は止まった。
「えっ、着いたのか」
都という割に、周囲に人の声も聞こえない。
「まあ降りてみろよ」
まさかここで殺されるなんてことはないだろうが――
オンディーヌに促されるまま、マルトは恐るおそる馬車を出た。
目の前で大河が、悠々と水を運んでいた。
「エルベだ。いいだろう」
オンディーヌが無邪気な笑顔を見せる。
「我々がドレスデネーに遷都して五十年経つ。川というものはたかが雨水の寄せ集めだが、時間と共に、そういう物質的な本質を超えた何かしらの愛着を、この流れに感じてしまうのもまた事実だ」
くだくだしい説明を付けながらも、意外なことにジークムントも感傷的な表情で大河を眺めている。
再び、澄んだ光がが見られるのではないかと、マルトはジークムントの瞳を注視した。
そこに、きらきらと輝くものが移ろうのは、エルベに反射する太陽だろうか。
マルトは手枷をつけたまま、水面に手をつけた。冷たく透明な水がしみ通るようだ。
王都を流れるフンデルトヴァッサーも、エルベの支流である。見慣れぬ景色に郷愁を覚えるのはそのせいだろうか。
「それも、もういいな」
オンディーヌが鍵を取り出し、マルトの手枷を外した。
「ありがとう」
マルトは礼を言い、両手首を軽く振った。
手枷はライヒェンベルクを出てすぐに付けられたものだった。魔力の集中を妨害する効果があるという。それを外したということは、もう簡単には逃げられないのだろう。
マルトの肩に、オンディーヌの手が置かれた。
「行こうぜ。もう少しで城壁が見えるから」
「いよいよ籠の中の小鳥か」
オンディーヌは吹き出した。
「笑かすなよ。お前が小鳥ってタマか」
ドレスデネーの高い城壁の中は、さすがに首府だけあって多くの建築物が立ち並び、人の往来もかなりのものだった。ただ、人の数に比べて、街の喧騒は少なく感じる。
「こうして見るとヴィシェフラトとあまり変わらないな。魔獣はいないのか」
馬車の小さな窓から外を見ながら、マルトは素直な感想を漏らした。
「魔獣というのは、いくら魔力があっても野生動物であることに変わりはない。街中にいないのは当然だ」
「私たちみたいな魔人や、半獣人は住んでるけどね。でもここにはあまりいないぜ。人間と居住区が違うんだ。エルベを挟んだ向こう側だ」
ジークムントとオンディーヌが交互に解説する。
「それで、私はどこに連れていかれるんだ」
マルトが問うと、
「決まってる、城だ」
オンディーヌの指差す先、東から西へと流れるエルベの向こう側に、黒々とそびえる王城があった。その周りには、今通り抜けたものと同じくらいの高さの内壁が巡らされており、見た目のいかつさを増している。
「君の部屋は用意してある。今日はそこで休むと良い。市中見学は明日以降にしたまえ」
ジークムントが傾き出した太陽を見上げて言った。
間もなく、馬車は石造りの長い橋を渡り、王城に繋がる二つ目の城門を抜ける。
「この辺でいいだろ」
オンディーヌが言って馬車は止まる。降りたところは、正面を城、三方を城壁に囲まれた前庭である。といっても庭は広く、咲き乱れた草花に日差しが注ぎ、軍事目的の要塞につきものの殺伐とした感じはない。門番以外の衛兵の姿がごく少ないのも、のどかな気分に一役買っている。
意外の念に打たれたマルトが周囲を見回していると、正面の巨大な扉が音を立てて開いた。中から数人の男女が現れる。
「まず第一の目的は達したようで、何より」
先頭で挨拶したのは、四角くて広い額とぎょろりとした目を持つ、背の低い老人だった。
「ああ。出迎えご苦労だ、カンドール」
「留守居とか、いつもそんな役回りで悪いなあ」
ジークムントとオンディーヌが交互に声をかける。
「いいえ、あたしは裏方のが向いてますから」
カンドールと呼ばれた小男はひょいと頭を下げる。幇間じみた仕草だが、芝居の名優が幇間を演じきっているようでもあり、下卑た印象は受けない。
「さあ、こちらへ」
ジークムントが畏まってマルトの手を取る。邪険に振り払いもできず、マルトは引かれるままに城に入った。
入り口をすぐの部屋は天井の高い広間だった。奥に通じる大扉と、左右それぞれに伸びた階段が目を引く。装飾は少なく、簡素な雰囲気である。そしてやはり、人の数は少なく見える。
「こっちだ」
オンディーヌが先導して左の階段を上っていく。カンドールたちは隅にある小さな扉に消えた。
上がった二階も装飾はないが、小窓から陽が入り暖かだ。
案内された部屋は、先ほどの花園が大きな窓から一望できた。調度も良いものが選ばれており、囚われの身であるにもかかわらずマルトは落ち着いた気分になった。もっとも窓枠には鉄格子がはまっていたが。
「あんたの手、おもしろいなあ」
マルトが外を見ていると、オンディーヌが近づいてきた。
「ああ。左腕全体が鎧と癒着してる」
「生物と金属が? 魔法ってのはなんでもありだな。ちょっと触ってもいいか」
オンディーヌは答えを待たず左手をつかみ、しげしげと眺めた。
「鎧が魔装で良かったな。薄いから不便も少ない。ヴィシェフラトの冶金術も学ぶところがあるな」
「オンディーヌはこう見えて技術に関して知識が深い」
ジークムントの予想外な言葉に気を取られていると、かちりと音が聞こえた。左の手首に、手甲の上から金の腕輪のようなものがつけられている。
「何だ、これは」
「ここに来るまでつけてた手枷と同じさ。ジークリンデの魔力で脱走されないようにね。鍵は私が預かっとくよ」
腕輪を見るうちに、自分が虜囚であるという実感が湧いてきて、マルトはため息をついた。
「おいおい、少しは喜べよ。手枷よりずっといいだろう? これ作るの、苦労したんだぜ。呪物については、リブシェはヴィシェフラトに遅れを取ってるからなあ」
オンディーヌは部屋の入口に戻りながら言う。
「後で食事を運ばせる。食べたら今日は休みたまえ」
マルトの返事の前に扉は閉められた。外から鍵をかける音が聞こえる。
「やれやれ」
独りになって、マルトは何やら所在ない気分になってきた。リーグニッツの要塞、アイゼンヒュッテンシュタットの魔導鉄、それにジークムントたちの話していた「計画」、外では様々な策動が巡らされ、またヴィシェフラトとリブシェを巡る事態も急速に動いている感覚があったが、ここに閉じ込められていては手出しもできない。
マルトは座り心地の良さそうな肘掛け椅子に深々と腰を沈め、天井を見上げた。物思いにふける暇もなく、眠気が押し寄せてきた。ついうとうとと、まどろみに身を任せる。
水音が聞こえる。昨夜の夢で見た泥沼ではなく、清浄な水だ。エルベの河岸かな? だが、足元を流れる水は温かい、というよりはやや熱いくらいだ。しかしそれも疲れた足には具合が良い。突っ張った筋肉がほぐれていく。
「気持ちいい?」
「うん、気持ちいい」
答えた途端に目が覚めた。
「だ、誰だっ!」
黒い毛むくじゃらの生き物がマルトの足をつかんでいる。
足を思いきり引っ張って、危うく椅子ごとひっくり返りそうになるのを、黒い生物が手を出して支えた。
「落ち着いて。足を洗ってただけ」
「え?」
気がつけば、手も足も裾を捲り上げられ、足はくるぶしまでたらいに張った湯に浸かっている。長靴は揃えて部屋の隅に置かれていた。
「よく寝ていたから起こさなかった」
昨晩からほとんど睡眠を取っていないという理由はあるが、靴を脱がされ、手足を洗われても気づかないとは完全に不覚である。
「そ、それであんたは?」
マルトは動揺を気づかれまいと斜め上を見ながら聞いた。
「カンドールに頼まれてきた。あなたの世話係だ。名前はヴィルベルヴィントと呼ばれてる。長いからヴィビイで構わない」
「そうか。よろしく、ヴィビイ」
改めて見ると、黒い毛の塊と思われたものはきちんと人間の、おそらくは女の子供の姿をしている。ただ顔と手以外が真っ黒な巻き毛で覆われ、腰の下からふさふさした尾が伸びていた。半獣人だ。
座っているのではっきりわからないが、身長はマルトより頭一つ小さいくらいに見える。
「これ。顔は自分で拭いて」
ヴィビイは硬く絞った白い布を差し出した。
「ありがとう。気が利くね」
「よだれ垂らして寝てたから」
「は⁉︎」
「冗談だ」
どうやら頭の回転も速い。
受け取った布で顔を拭いていると、ヴィビイは部屋の棚に向かい、慣れた手つきで衣装を取り出して戻ってきた。
「服も汚れてる。食事の前にこれに着替えて」
「いや、そこまで世話になるつもりは」
「これからずっとその一着で過ごすつもり?」
そう言われると何も反論できない。マルトの荷物は全て、ライヒェンベルクに置いてきてしまったのだ。
「仕方ない。わかったよ」
ヴィビイの持ってきた服を広げてみて、驚いた。
上質な絹織物である。
「こんな貴族みたいなものは着られないよ。他にはないのか」
「衣装ならたくさんあるけど、そういうのしかない」
「今着てるようなやつがいいんだよ」
マルトは自分の軍服を叩いてみせた。
「ない」
ヴィビイは無慈悲に答える。
「他の部屋にはないのか。なんなら男ものでもいいから」
「この部屋のものを使うように、ジークムント様から言われた」
「じゃあ着替えない」
「におうよ」
マルトは諦めた。
ヴィビイの選んだ衣装に袖を通している間に、洗濯するからと軍服は持ち去られてしまった。
新しい服は、白い絹の上に深紅のビロードのローブを重ねたような作りで、白と赤の境には金糸で刺繍が施してある。普段は軍服しか着ていないマルトとしては、足がすかすかして非常に落ち着かない心地である。加えて、優雅な服から左だけ無骨な手甲がのぞいているのがなんとも興醒めだ。
靴は、こちらも赤く染めたなめし皮で作られており、履き心地が良いのはありがたいが、走り回るのは多分無理だ。
「よく似合う」
洗濯場から戻ってきたヴィビイは、マルトの姿を見てぱっと顔を輝かせた。扉に鍵もかけず走ってきて、そのままマルトの胸に飛び込む。
「ど、どうしたんだ、急に」
マルトが慌てるのをよそに、ヴィビイは胸の中でごろごろ喉を鳴らした。
「それはジークリンデの衣装。あなたはどこかジークリンデの匂いがする――あ、これはいい意味の匂い」
「ジークリンデの? じゃあ君は、それにこの部屋も、もしかして」
ヴィビイはこくりと首を振った。
「そう。私はジークリンデの世話係だった。ここはジークリンデが使っていた部屋」
そう言うと再びマルトの胸に顔をこすりつける。
マルトは左手でヴィビイの頭を撫でた。波打つ巻き毛は、触れて見ると案外に柔らかい。
「会いたかった。会いたかった」
ヴィビイの言葉は、途中から泣き声に変わった。
マルトは言おうか言うまいか悩んだが、知らせないのは罪だと思った。
「あのさ、知ってるかもしれないけど、ジークリンデを……あの時、やったのは……」
「知ってる。あなたは悪くない。ジークリンデは、自分はいつか戦場で死ぬって言ってた」
ヴィビイはマルトに抱きついて、顔を見せずに言った。
泣き止んだヴィビイがすぐに次の仕事に移るというのを説得し、少しだけ話し相手になってもらうことにした。
二人で寝台に腰掛ける。大きなぬいぐるみを持って布団に入るような心持ちである。
「ヴィビイはいつからここにいるんだ?」
「わからない。気がついた時にはいた。それからもう十年は経つ」
気がついた、というのが三歳あたりだとすれば、ヴィビイは十三歳というわけだ。身長から考えたほど子供ではない。
「ジークリンデの世話係になってからはどれくらい?」
「七年。その前はオンディーヌのところにいた」
「そうなのか。でも、オンディーヌのところでは何をしてたんだ?」
六歳の子供に、大人の世話係は厳しいだろう。
「別に何も」
「えっ、何もって?」
「何もしてない」
そのまま、ヴィビイは黙りこくってしまった。
「えっと、私何か悪いこと言ったかな?」
「悪いことは言ってない。だけどオンディーヌの話はしないで」
ヴィビイは沈んだ声で言う。
「オンディーヌは優しい。だけど時々怖い」
「わかった。この話はやめよう」
オンディーヌが怖いとはどういう意味だろう。口調が乱暴だから世話係から見ると怖いという意味か。いや、ヴィビイの言葉からはもっと深刻なものが感じ取れた。
しかし、ここで無理に聞き出すわけにもいかない。
マルトは話題を変えた。
「ヴィビイはこの城に住んでるのか」
「うん、一階の北の端に召使いの部屋がある」
「城の中、あまり人気がないみたいだけど、いつもこんななのかな」
ヴィビイは首を振った。
「普段はもっと多いけど、今は少ない。軍隊を連れてみんなコトブスに行った」
「コトブスだって?」
コトブスは、ドレスデネーの北東にあるリブシェの都市である。リーグニッツを攻めるための前進基地にしては、やや北寄りだ。もっとも、南寄りの都市に軍を集結させれば、ライヒェンベルクなど近隣のヴィシェフラト側の都市に情報が伝わる懸念があるから、あえて北の街を選んでいるのかもしれない。
「なぜ軍隊が移動してるのか、知ってるか」
「私は知らない」
口止めされているのか本当に知らないのか、ヴィビイはまたも黙り込んだ。
「ごめんごめん、つまらない話だったね」
マルトは寝台に寝転がった。だが、ヴィビイは背を丸め、小さくなって座っている。
「どうした」
ヴィビイはマルトをちらりと見た。
「マルトは戦いが好き?」
「好きじゃないよ!」
思わずマルトは叫んだ。
「好きじゃない……」
その後はつぶやきになる。
ヴィビイはマルトの顔を覗き込んだ。
「ジークリンデは戦いが好きだと言ってた。私はそんなジークリンデが好きだった。だから、マルトが戦いが好きでもいい」
マルトは起き上がって聞く。
「私はジークリンデと似ているのか」
「とてもよく似てる」
ヴィビイは頷いた。
マルトは黙って、青みがかったヴィビイの大きな瞳を見つめた。
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