中断された間奏曲

 また負け戦か。

 教官室からくすねてきた紙切れを眺めて、マルトは嘆息した。

 軍学校裏手の林の中にある小さな野原は、最近気に入りの隠れ場所である。

 軍学校は、間近に迫った国軍の創設に向けて、てんやわんやの騒ぎだ。その上、現役の士官は戦争に駆り出されているから、当然教員の数が足りず、入校二年目のマルトも、古参としてレオシュと共に新兵を教育する立場にある。だが、四角四面なやり方がどうもマルトの肌には合わず、時々こうやって姿をくらましている。

「やれやれ」

 大の字に寝転んで手紙を投げ出すと、誰かがそれを拾い上げた。

「何なに、『ヴィンドボナが失陥した』ですか。早かったですね」

 赤毛を短く切りそろえた、活発そうな少女だ。マルトは見覚えがあった。

「ほほう。ここを見つけたの、新人の中で君が初めてだよ。見どころあるね」

 少女はぱっと頭を下げた。

「顔を覚えていてくださってありがとうございます。ノエミ・シェイナです。あの――」

「マルトでいいよ」

「はい、マルトさん」

 見た目どおり、歯切れの良い快活な声でノエミは答えた。

「それで私に何か用?」

「特に用というわけでもありませんが、ノイマンさんの指導があまり素晴らしいので、同輩に機会を譲ってきました」

 マルトは苦笑する。

「レオシュは新人にも容赦しないからなあ」

「私、乗馬だけは苦手でして。それでノイマンさん、私が落馬するとものすごい勢いで怒鳴るんですよ。馬が逃げちゃうから連れ戻すのが大変で」

「あいつらしいな。でも厳しいのは期待されてる証拠だよ」

「厳しい以前に顔が怖すぎです」

「顔が怖いのは戦では頼りになるぞ。例えば君が戦場に出て、敵にレオシュと私がいたらどっちと闘う?」

「それはマルトさんですね」

「ほらな」

 ノエミは腕を組んで考え込んだ。

「でもそれって、戦場でノイマンさんと一緒にいたら、敵は全部私に向かってくるってことですよね」

「じゃあ私と一緒にいればいい」

 マルトは笑って答えたが、ノエミは再び考え込む。

「どうした?」

「いや、ノイマンさんがですね、マルトさんは行き当たりばったりでいい加減だから気をつけろと」

「ひどい言われようだ」

 マルトは起き上がって頭についた枯れ葉を払った。

「だけどレオシュは正しい。あいつの指導が手加減抜きなのは、死なない方法を教えてるからだ。いい加減な私といたらすぐ死ぬぞ」

 マルトは指をわずかに動かした。風が吹いてノエミの指先から手紙を奪う。そのまま舞い上がったところで小さな炎に包まれ、灰になった。

「あっ、燃やしちゃっていいんですか」

「何のことだ? 私は知らないぞ。仮に、書類の墓場みたいなターリヒ先生の机からなくなったものがあっても、誰も気がつかないけどね」

「悪人ですねえ」

 二人は灰の消えていった空を見上げる。と、そこに黒い新たな点が現れ、少しずつ大きくなる。

「おっ、来たな」

 マルトはかねて用意の布袋を取り出した。

「何ですか、それ」

「麦のふすまだよ」

 二人が話している間にもそれは近づき、やがて騒々しい羽音をたてながらマルトの前に着地した。

「え……カラスですか」

「こいつ、はぐれ鳥なんだ。いつも群れから離れたところにいてさ。親もないみたいだ」

 カラスはよちよち歩いてマルトのまくふすまをついばむ。

「私、カラスの餌って死肉とか虫とかだと思ってました」

「そういうのも食べるけど、主食は植物みたいだな」

 一心に餌をつついては飲み込む姿は愛らしい――と思っているのはマルトだけのようだ。ノエミは三歩くらい後ろから一人と一羽の様子を見ている。

「あれ」

 カラスが餌をほとんど食べ終えてからようやく、ノエミが隣にいないと気づく。

「ノエミはカラスが苦手なのか」

 ノエミは小刻みに首を振る。

「少なくとも好きじゃありません。特に真っ黒なのは。ハイイロガラスならともかく」

「そうかなあ。私は黒い子の方が好きだけど」

 マルトはかがみ込んでカラスを見つめる。まだ若い鳥である。頭から嘴の先へ流れる優美な曲線、細っこくて繊細な足、まるで工芸品だ――と思っているのはマルトだけのようだ。ノエミは気持ち悪そうにマルトを眺めている。

「なあ、翼を見せてやれよ。翼だよ。つ、ば、さ」

 左手を上下に揺すってみせながらマルトが話しかけると、カラスは右の羽をぱっと開いた。

「マルトさん、ついにカラス語を覚えたんですか」

 ノエミが白目がちに聞く。

「残念ながら違う。向こうが人語を理解してるのさ。羽をよく見てみろ」

 艶やかにみっしり生え揃った黒い羽の中、燐光を思わせる青い光が時折閃いている。

「この鳥、魔導器を持ってる!」

 ノエミは目を丸くした。

 一般に、背骨のある動物なら魔導器を宿す可能性があるといわれるが、実際には魚や鳥が魔導器を持つことは少ない。

「そうだ。この子は魔導器のおかげで知能が高いらしい。あまり悪口は言わない方がいいぞ」

 ノエミは思わず口に手を当てる。

 わかっているのかいないのか、カラスはマルトとノエミを交互に見上げて小刻みに首を傾げた。

「もうないよ、ほら」

 マルトは袋を逆さにして振ってみせた。

 カラスはがあ、と一声鳴いて飛び立つ。

「最近、魔獣が増えましたね」

 遠のく後ろ姿を見送りながら、ノエミがつぶやいた。

「リブシェが迫ってきてるからな。奴らは魔獣の捕獲を禁止してる。領内で増えた魔獣がこっちに入り込んでるんだろう」

「あの子もリブシェから来たんでしょうか。まさか敵の間諜だったり」

「それはないよ。あの子は毎日この辺りを飛んでる。間諜なら、何日かに一度はリブシェに戻るはずだ」

 実は、マルトもそれを疑って丸一日カラスの跡をつけた経験があるが、山を分け入ったところにある寝ぐらと街を往復しているだけだった。さすがに引かれそうなので、ノエミには伝えないでおく。

「さ、私たちも戻ろうか。レオシュのところに帰りなよ」

 マルトは立ち上がって歩き出す。その背中に、声が届いた。

「私、やっぱりマルトさんと一緒にいます。私に魔法を教えてください」

 振り返ると、ノエミは元の位置に立ったまま、マルトに満面の笑みを向けている。笑っているのに、どうしてか寂しそうだ。

「私もカラスです。魔法は使えるけどはみ出し者で、親もない」

 黒い軍服が陽光でぴかぴかと、それこそ烏の濡れ羽色にきらめく。

 マルトは笑みを返した。

「いいよ。死なない程度についてきなよ」

 その日以来、あのカラスは見なくなった。

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